──ああ、もう終わりか。 地面へ沈んだ主を上空から見下ろして、鴉は冷静に考えた。 舞っていた砂埃が風で途切れた先、同じように倒れている癸の隊士数人を視界に入れる。 その半分は既に事切れていて、残る半分も段々と呼吸が弱くなってきていた。 全滅は免れない。 そう判断し、この後どうするべきなのかという方向へ鴉は頭を切り替えた。 産屋敷家への報告は第一。 そして鬼の逃走経路の把握も欠かせない重要な案件だ。 狭霧山にも報告をしに向かわなければならない。 しかしそれを一匹でこなすのは骨が折れる。隊士達に就いていた鴉達と二手に分かれるか。 そこまで考えた所で、その鴉達がさめざめと泣いている様子に苦虫を食い潰したような表情をした。 何を泣いているのか。今はそんな場合ではない筈だ。 そう檄を飛ばしたい衝動に駆られたものの、それを喉で止めたのは 「…あらあら、大変。すぐに手当てしなくちゃ」 花柱・胡蝶カナエの穏やかな声が響いたためだった。 雲と鴉 「お世話になりました」 蝶屋敷の門前、カナエとしのぶに見送られ、深々と頭を下げる名前の右肩へ乗るのは鎹鴉。 家路までの道程をしっかりとした足取りで歩いていくことで、 "今回は死ななかったか" 無意識にそう頭に過ぎる。 「運ガ良カッタデスネ!」 「…うん。そうだね」 眉を下げながら微笑む仕草を、鴉は余り好きではなかった。 どうしてか理由を訊ねられると明確な説明は出来ないが、とにかくその表情に煩わしさに似たものを抱いている。 何故そう思うのか。根底について考察しようとした所で、 グスッ…。 鼻を啜る音が聞こえ、名前が涙を流しているのに気付いた瞬間、答えにも辿り着いた。 大体、曇った笑顔を見せる時はその前触れなのだ、と。 そして自分は、この"泣く"という行為が、何よりも嫌いなのだということを。 それなのに、この主と来たら鬼殺隊に入ってからもメソメソ泣いてばかりいる。 つい先日、歳下の隊士にも怒られていたというのに。 「今度ハ何ヲ泣イテルンデスカ!」 「…みんなっ…な…」 全く言葉が続かず両拳を握り締めるその心中を察することは出来ても、理解は出来なかった。 「泣ク暇ガアルナラスグニ次ノ指令二向カイナサイ!」 この時、次の指令などは鴉の元へ伝えられてはいなかったが、口から出まかせを告げたのは、落ちていく涙を止める術を持ち合わせていなかったからだろう。 「…ごめん、なさい…っ」 「謝ルヨリ泣キ止ミナサイ!無駄ナコト!泣クナンテ無駄ナコトデス!何ノ意味モナイ!虚シイ!タダ虚シイ!」 包み隠さず本音を発した所で、更に強くなる嗚咽に目を細めると空へ羽ばたいた。 それは鴉にとってただの憂さ晴らしのようなもの。 遥か上空へと一気に上がり、大きく左回りで旋回をする。 その身体に掛かる負荷は何とも形容しがたいものだが、気散じになっていた。 一周してからふと落ちた視線で捉えたのは、丸くした目でこちらを見上げている名前。 その瞳から零れ落ちていた雫は三周目を終える頃には完全に止まっていて、代わりに驚きに満ちた表情で満ちていた。 バサッ、と音を立ててその右肩へ帰ると毛繕いを始める。 「…すごい!あんな上まで行けるんですね!」 気勢を取り戻した名前の輝かせる瞳に呆れながらも、泣き顔よりは遥かにマシかと心の隅で思った。 * * * 草木も眠る丑三つ時と言われる刻でも鬼殺隊は眠らない。討伐すべき鬼が活発になるためだ。 漸く太陽が昇り始めたとしても、油断は出来ない。 陽の光が届かない場所であれば、その力は衰えることなく、被害を拡大させていく。 鬼殺隊士で在る限り、心身共に安穏の時間はない。 それでも連日の任務漬けで部屋に入るなり、倒れるように寝入った名前を、鴉は少し遠くから眺めた。 この一年で、鬼殺隊員として板についてきたように見える。 それは鴉自身も認め始めてはいた。 しかしその間に、何度命を落としかけたのだろうか。 覚えている限り、人間の片手では足りないし鴉の両趾でも足りない。 今も鍛錬を続けているが故、確実に実力を身に着けてはいるが、それは牛歩に近い。 血が滲むような努力も、鬼にしてみれば吹けば飛ぶようなものだ。 いつかこの主は、何処かで命を落とす。 苦しまずに一息で死ねたら、それが御の字だと言い切れる程に。 だから鴉は、一年という年月を共に過ごしても、自分の名を告げていなかった。最初こそ、何度も訊かれた事はある。 それでも頑なに名乗ろうとはせず、主のことも名前で呼びはしない。 今の呼び名は"庚(かのえ)の隊士" それ位の距離が丁度良い。鴉は、そう考えていた。 「…っ…」 小さく喉を詰まらせるその主がまた眠りながら泣いているのに気付く。 いつものことだと呆れながら背を向けた同時だった。 「…いか、ないで…っ」 はっきりと耳で認識した呼び止めに、ドキリと小さな心臓が鳴る。 か細く続く声から先は聞き取れはしなかったが、それが自分へ向けられたものではないとわかっていた。 わかってはいたが、畳に染みを作っていく雫へと近付く。 この主は、いつか命を落とすのだ。 それを自分は、見届けなくてはならない。 そうして産屋敷に、鱗滝に、伝達をする。 それが、鎹鴉に与えられた役割。 鬼を滅する。 そのためには微々たる犠牲など惜しまない。 鎹鴉も隠も隊員も、全ては駒。 鬼を滅するのだ。 「ワタシタチ家族ガコレ以上、犠牲ニナラナイタメニ」 脳内で響く声で、はっと我に返る。 幼い頃から良くそう言っていた祖父は、鬼に握り潰されて死んだ。 その場面を見ていた訳じゃない。 ただ、命辛々逃げ延びた他の鎹鴉がそう伝えた。 「立派ナ最期デシタ」 咽び泣く姿を見たその瞬間から、泣くという行為に嫌悪を覚えたのだと、今はっきり、そう言える。 骨のひとつも遺らなかった祖父は、産屋敷家から名誉ある死とされた。 文字通り身を粉にして作ったその僅かな時間で、頸を斬る事が出来たからだ。 けれどそれの何処が、立派な最期だったのだろう? 鬼の一匹や二匹倒した位で、何も変わらない。 それでも命を投げ出すことに美徳を感じたのだろうか? 名誉のある死なんか要らなかったと祖母は死ぬまで泣き暮れた。 泣いても、何も変わらないというのに。 鮮明に蘇ってきた記憶に、ふぅ、と息を吐いた瞬間、ポタリと音を立てた流れた涙を見つめる。 「…おね…、い…っ死なないで…」 誰に対しその言葉が放たれているのか、鴉には窺い知れない。 しかし、それは正に、あの時の心境を言い当てられているようで、得体の知れぬ身震いがした。 生きていて欲しい。 そのたったひとつの願いも届かない無情な世界。 だったら命を投げ出しても、鬼を滅さなければならない。 祖父がそうしたように。 鬼を殲滅すれば、これ以上自分達の尊厳を侵されずに済む。 ひいては家族を、末裔を、未来永劫護ることに繋がる。 それだけのために祖父は、鎹鴉として生き、そして死んだのだ。 果タシテ本当ニ、ソウナノダロウカ? 次に響いた声は、紛れもなく鴉自身の声だった。 それは訃報を聞いた瞬間から、ずっと心の奥底で抱えていた違和感。 祖父が仕えていた鬼殺隊員は重傷を負いながら、奇跡的に生き長らえた。 本当は、主を庇い命を落としたのだろうではないか。 そんな想いがずっと燻っていた。 これはあくまで、家族を失い冷静さを欠いた鴉が立てた仮説でしかない。 確証などは何処にもないが、本当は、たった一匹の鬼を滅するために命を投げ棄てたのではなく、その尊い命を護るためだったとしたなら? そうしたら何の意味もないような祖父の死も、少しは意味を持ち、報われるのではないだろうか。 ポタポタッと畳を叩く音がして、鴉は想う。 今になって、そんな雲を掴むような希望を抱くようになったのは、きっと──… 「ただ、在るがままをその目で見てやってくれ」 いつだかそうしていたように、未だ目端から流れ落ちる涙を、そっと嘴で拭った。 そうして、齢十二で鬼殺隊として命を懸けた少女を、余す事なく全て、鎹鴉はその双眸に焼き付けてきた。 それは、"元"水柱・鱗滝左近次から託されたという責もさることながら、喩え志半ばでその命が尽きたとしても、鬼殺隊の剣士、苗字名前が生きた軌跡を、誰よりも一番近くで見ている自分が憶えておくためだった。 何度も消え入りそうな存在は、ひとつ何かにぶつかる度に泣いて落ち込んで、それでも前を向いて進んでいく。 そんな姿を、ただ在るがままを、見つめてきた。 ただ時々、現水柱の屋敷の前で立ち止まり、ただ真っ直ぐ見つめていた瞳に一度だけ、何をそんなに見るものがあるのかと訊いた時には 「ううん。何でもない」 そう言って小さく振った首の真意は、時々涙と共に零れ落ちる 「…ぎゆ、う…行かないで…」 苦悩に満ちた寝言で悟ることが出来た。 しかしその何かに魘される光景も、いつの日からかぱたりと止み、鴉が涙を拭うこともなくなった。 それがいつだったか、はっきりとした判断は鴉にもつかないが、夢ではなく現実で 「義勇!」 その名を呼ぶようになってからだったのは、間違いないと言える。 同時期にやってきた黒猫は余り好きではなかったが、あちらが干渉してこないためか、共存することは、そこまで苦ではなかった。 主の生き様を何一つ間違えないように、ただ見届けてきた。 そして、鬼舞辻󠄀無惨を倒し、先祖代々続く鬼を滅するという悲願を達成した時、達成感より遥かに強い安堵感に包まれていた。 主が生きていたことに対する嘘偽りのない、心から湧き上がる感情を噛み締める鴉に、鱗滝は穏やかに微笑いながらこう言った。 「鎹鴉は主に似ると昔から言うが、お前も名前に感化されたようだな」 目端を撫でるその指の温かさで、鴉は自分が涙していることを知る。 それでも 「泣イテイマセン!ワタシハソンナ無駄ナコトハシナイ!」 早口で返し、最後まで虚勢を張った。 そうして、順調に回復の兆しを見せる主の手紙で、家族の元へ帰ることを決めた。 迷いがなかった訳ではない。 ただ、鴉は考えた。 懇意にしていた蟲柱を亡くし、痣を発現させた主本人と水柱はあと数年の命。 これ以上、置いていかれる憂愁で、置いていく深憂で、その屈託のない無邪気な笑顔を曇らせたくはない。 今になって、漸くわかる。 きっと祖父も、そうだったのだろう。 鎹鴉も、隠も、隊士も、ただの捨て駒なのではないのだと、いつからか気付いた。 命は、護られなければならない。 護らなくてはならない。 そんな想いで鬼に立ち向かい、死んでいった。 それは、名誉のある死だと言って良い。 立派な最期だったと褒められて良い。 無駄ではなかったのだ。 たったひとつの命を、護ったのだから。 漠然とした希望ではなく、揺るぎのない確信を得られたのは、別れの時も眉を下げて微笑うその存在のおかげだというのは言うまでもない。 今でも時々、天気が良いと鴉は山を越え少し羽根を伸ばす。 そうして遥か上空から見下ろすのだ。 「義勇!」 新しい家族と幸せそうに微笑う、その無邪気な姿を。 幸セデイテクダサイ。最期マデ [mokuji] [しおりを挟む] [back] ×
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