雲路の果て | ナノ 66

店内にはズルズル、と麺を啜る音だけが響く。
向かい合わせの二人に会話らしい会話はないが、時折動かす箸を止めると、互いに微笑んだ。そうしてまた、蕎麦を啜っていく。

「ふふっ」

耐え切れず、笑声を零したのは名前の方だった。
心の底から嬉々としている表情に、同じく上げそうになってしまった頬は、啜る方へと集中して誤魔化す。

「だから死亡していなくて良かったですね、と申し上げたんですよ」

にこりともしない主幹の男を思い出した事で僅かの間、手を止めた。
それでも、
「お二人共、私が嫌味を申していると思っていられたんですか?心外ですね〜」
そう言った時、多少の寂寥を宿したのが見て取れて、義勇は再度蕎麦を啜りながら、湧き上がっていく謝意を知覚する。
今この時、名前の表情が晴れやかなのも、主幹の提案によるものだからというのがわかるので尚更だ。

戸籍を改竄する。

主幹は、確かにそう言った。

その方法を義勇と名前が知る由もないが、その職務に携わっている人物が出来ると断言するならば、その可能性に賭ける事を選ぶ。
例え、それが吹けば消し飛ぶような希望であろうが、縋るしか道がない。
まるでこれは、絶望しかなかった無間地獄に、天から垂らされた蜘蛛の糸のようなものだ。そんな事を、義勇は自然と考えていた。
確実な希望とは、まだ言い切れない。
ただひとつ違うのは、譬え儚く千切れてしまっても、目の前の愛おしい存在が消え去る事はない。
その充足感は、他の何かにも変わる事はなく他の誰かでも味わえないものでもあると、改めて知った。
それだけでも、十分な収穫と言える。

「…義勇?」

きょとんとした瞳と見つめ合い、暫くその姿を眺めていた自分に気が付いた。
「どうしたの?」
翳っていく表情に、一度視線を落とすと笑顔を作る。
「いや、…蕎麦、美味いな」
弧を描くよう意識はしたが、思うよりそれが深いものとなったのは、細くなった瞳が溢れんばかりの喜びを湛えたからに違いない。
「うん、おいしい」
それだけの会話ではあるが満足をして、二人は同じ動きで、もう一度蕎麦を啜った。


雲路の


「クロ〜、ただいまっ」

玄関を開けるなり笑顔で名を呼ぶ名前の声に、黒猫は耳を動かすと丸めていた身体を伸ばす。
「にゃ〜っ」
撫でて欲しいと言わんばかりに足元へ擦り付ける頭に触れてから、おもむろに包みを取り出した。
「お土産だよ〜」
クンクン。
匂いを感知して動いた鼻が、開かれた包みへと誘導されていく。
「んにゃあ」
鳴いたかと思えば、そのまま口を動かす様子に微笑みながら口を開いた。
「おいしい?お蕎麦屋さんがね、茹でてくれたんだよ」

代金を支払い、店を後にしようとした際、奥の部屋で眠る白と黒のまだら模様の猫を見止め、名前が家で待つ黒猫と寛三郎の存在を口にした際、動物が好きだという店主との会話が弾み、最終的に鱚のほぐし身を土産として持たせてくれた。

夢中になっている黒猫から返事が返ってくる事はないが、止まらない咀嚼に、それを気に入ったのであろうというのが窺える。
玄関を内側から施錠していた義勇が少し遅れて、隣に屈むのを目端で捉えた。
「おいしいって。キス…」
途中で詰まらせた喉と桜色に染める頬に、口角が上がっていく。
狼狽する原因が水柱邸にあった春画、そこに認められた単語によるものだと、義勇にもすぐに察知出来た。
「寛三郎さんは」
距離の近さから、更に意識をしていく名前が立ち上がろうとする前に口唇を塞ぐ。
ちゅ、と音を立て、離れる顔からは驚きが滲み出ていた。
「…っぎゆ!なにっ」
「何ってキスだ」
からかい口調でそう言えば、かぁ、と紅潮していくその狼狽えようがまた可愛らしいと、義勇の悪戯心を煽る。
「名前も好きだもんな。キス」
「すきっ…!だけど…」
反射的に否定しようと出した言葉は、弱々しい肯定へと変わりはしたが、尖らしていく口が不満を伝えていた。
「足りなかったか?」
「…そんなことっ」
思い惑いながらも、一点を見つめたまま続ける。
「…もうちょっと、したかった…かな」
素直な感情を吐露したものの、返ってくる事のない返事に、恐る恐る顔を上げれば、義勇の驚き顔が見えた。
「…今のは、クロに言ったんだが…」
左腕に抱かれる黒猫が小さく鳴いたのを見止めて、名前の心音が急激に速まっていく。
居た堪れず外した視線に、今しがたあった筈の鱚のほぐし身は綺麗さっぱり平らげられていた。
「…あ、クロに…っ」
何という勘違いをしてしまったのだろう。理解をした瞬間から、羞恥が頭を占めていく。
気まずさから逃れようと立ち上がろうとした動きは、いとも簡単に義勇の腕に止められ、逸らそうとした顔を覗き込まれた。
「……っ」
「逃げなくて良い」
真剣な群青の瞳に、声が出ないまま瞬きだけを返す。
「俺も足りなかった」
同じ気持ちを抱いていた。名前が安心するようにそう言えば、揺らいだままだった瞳が喜びに満ちていくのが見て取れた。
無意識ではあるが、僅かに突き出した口唇へ引き寄せられるのを、一度意識して止める。
「キス、したいか?」
敢えての発問は、その頬を赤く染めさせるためだと言えた。
案の定、狼狽えていく口唇は迷うように動いてから
「…うん」
それでもしっかりと頷くと、義勇を真っ直ぐ見据える。
「キス、したい」
慣れぬ言葉を口にした恥ずかしさに、どちらからともなく笑声が零れた後、ゆっくりと重ねられた口唇で沈黙が降りた。

* * *

寛三郎が鱚を食しているのを暫く見つめてから、名前はふと、棚に置いたままだった風呂敷の存在を思い出した。
おもむろにその前に立つと、置かれている荷に一度目を止める。
屋敷に戻ってきてから一度も解かれていない結び目は、僅かに絶望を思い出させた。

"冨岡義勇が、この世に生存していない"

唐突に突き付けられたその事実は、重く分厚い雲が覆ったように心に圧し掛かり、名前の屋敷に着いて尚、晴れる事はなかった。
言葉は必要最低限の意思疎通をするために紡ぎ、ただただ不安を埋めるよう寄り添って朝を迎えたため、名前自身、余り覚えていない。
それは義勇も同じだろう。

だからこそ希望を見出した事で、放置されたままだった荷を思い出す余裕も出来、漸く此処に帰ってきたという実感が湧いている。

結び目に手を掛けたと同時、襖の開く音を聞いた。
「片付けか?」
義勇の穏やかな声に笑顔が零れたが、振り向かないまま答える。
「うん」
布音を立てて解けた風呂敷から、丁寧に中身を取り出した。
「随分大事そうにしていたが、何が入ってるんだ?」
隣に立つ義勇の姿を一瞥してから、手元へ視線を戻す。
「伊之助くんに書いてもらった名前とね…」
言葉にする前に、はたと思考が止まった。
この新聞紙にくるまれている中身を、義勇にどう説明するべきかを全く想定していなかったと、今此処で心付く。
「名前と、何だ?」
小さく首を傾げる動きに、意を決して言葉にする。

「…義勇の、髪」

余りにもか細い名前の声に、義勇は一瞬聞き間違えではないかと耳を疑った。
「…俺の、かみ?」
頭の中に疑問符が浮かび続けるのも無理はない。
鱗滝と共に切り落とした後ろ毛を、名前が丁寧に此処まで持ち運んでいた事は、当の本人には知らされていなかった。
首を縦に動かした後、おもむろに広げられる新聞紙から現した花紺青の長髪。
「…棄てたんじゃないのか?」
発問をしてから、それが自分の思い込みであるのにも同時に気が付いた。
柱合会議の時間が迫っていたため、若干重くなった目蓋で産屋敷邸に向かった際、これに関しての処理については完全に頭になく、戻った時に報告もされていない。
それでも通常では破棄されたと判断して良い代物だろう。
こんなものを取っておいた所で、畑の肥やしにもならない。そう考えた所で
「土に埋めようと、思って」
その一言が返ってきたものだから、つい口に出ていた。
「人毛は肥料には向かないと思うが」と。
珍しく瞬きを速めた名前に、五回という事は"了解"という意味かと無意識に思い浮かべてしまう。
「ちがっうの!あのね、庭に、埋葬…したいなって」
「俺はまだ生きてる」
「……。義勇」
これには流石の名前でも、呆れた表情をするのだと新しい発見をした所で、機嫌を損ねてしまわない内に本筋へと戻った。
「そうする底意を知りたい」
何か名前なりの気遣いがあるのであろうと直接的な言葉をぶつければ、迷いに満ちた瞳が揺らいでいく。
「鱗滝さんに、言われて、思ったの」
ゆっくりと紡がれていく言葉は、たどたどしく弱い口調ではあるが、心の底にある強い意志は容易に感じ取れた。

「義勇がずっと抱えてた悲しみとか、苦しみとか、ちゃんと、終わりにしたいなって」

切り落とされた髪にそっと触れる右手は、愛しさに満ちたもの。
無生物と化した一本一本を、まるで労うように撫でていく。
その無垢な優しさが、義勇の心を捉え続け、放そうとしないのだと、改めて知覚をした。

「あ、でも言っておけばよかったかな…。勝手に取っておいたとか、ちょっと、やだよね…?」
力強く抱き締められる感覚に、先程より瞬きが速くなる。
「嫌じゃない。嬉しい」
間髪入れずに返ってきた一言と感じる温もりに、名前の頬が弛んでいく。
「ほんと?」
「本当だ」
この一言だけでは、この想いは到底伝わらないであろうと、義勇はすぐに続く言葉を探した。
「考えていた。漸く、終わりに出来たと。それが名前に伝わっていた事が、嬉しい」
包み隠さず本心を曝け出した事で、更に笑顔が深まった名前から柔らかい笑声が零れる。
「…私も、嬉しい」
胸元へと凭れると完全に身を預けるのは、今この時が初めてではないのは既知していても、小さく収まる姿に、情欲というものはキリがない程湧いていく。

「…名前」

合図のように名を呼び、顔を上げさせようとしたと同時の事だった。
「あ!」
名前の大きく見開かれた瞳と向き合い、予想とは違った反応に、僅かに心音が高鳴る。
「どうした?」
「陽が暮れちゃう前に埋めようと思ってたの!」
左腕から軽く擦り抜けると包み紙を抱える瞳には、不満げに目を窄める表情は映っていない。
「今日じゃなきゃ駄目なのか?」
「だって今日なら…」
言い淀んでは消沈していく理由を皆まで言わずとも、理解出来た。
もし明日、情勢の変化により、僅かに宿った灯が消えてしまうような事態になれば、確実にこの間のように、いや、それより更なる絶望に打ちひしがれるだろう。

勿論、覚悟はしている。

断定的ではない何かを手放しで信じられる程、綺麗なものばかりを見てきた訳ではない。
この世は往々にして、非情なのだと文字通り身に沁みている。
だからこそ、名前の言う"今日"なのだろう。

陰と陽、どちらを選ぶかは、二人にとっては形容しがたい程重要なものだ。
それならば不確かに揺らぐ光より、今此処にある二人の想いを選ぶべきなのは言うまでもない。
明日もしもまた絶望に沈もうとも、今この時は微塵の希望を共に過去との離別ができ、これからを生きる糧となり、導になる。
それはこれまで培った経験から、絶対であると言い切れた。

だからこそ"過去の遺物"を抱える両手が全く弛まる気配がしないどころか、強まっていくのに気付き、義勇は観念したように小さく息を吐く。
細く柔らかい指を撫でてから、言葉を紡いだ。

「俺が土を掘る。名前が埋めてくれ」

それだけ言うとそのまま手を引いていく。
「うんっ」
嬉々とした返事を背中越しに聞き、勝手に上がっていく口角は隠さないまま玄関を出た。



「これで、よしっと」

ポン、ポン。
音を立てて念入りに土を叩き固めると、すぐに両手を合わせ目を閉じた名前に倣い、左手だけではあるが合掌の形を作る。
つい先日まで鮮明に思い出された情景が、今少し遠くに感じたのは、生きている証拠なのだろう。
閉じた目蓋の中、穏やかに微笑う蔦子と錆兎が自分が作り出した都合の良い幻なのはわかっている。
それでも、生きていて良いのだと、確かにそう感じた。

そっと目蓋を上げれば、未だ目を閉じたまま微動だにしない名前に目を細くしようとして、その横顔がどんどんと険しいものになっていくのに気付く。
「…名前…?」
義勇が左側に居るからか、それとも集中しているからなのか、動くのは眉根だけで、何の反応も示さない。
もう一度声を掛けようか。少し様子を見るべきか。
迷っていた所で、閉じられていた口が小さく動いたのを注視した。
「…した…、っい…に…」
途切れ途切れのか細い声に耳をそばだてれば、はっきりと聞こえた内容に、噴き出してしまいそうになった口を手で押さえる。

"義勇の戸籍ができますように"

間違いなくそう、はっきり言った。
心で思っている筈の事を、口に出している本人に自覚はないのであろう。
「明日、絶対に、義勇の戸籍ができますように」
徐々に大きくなっていくその声に伴い、表情も険しさを増していく。
埋めた髪に祈っても、叶うものも叶わないのではないかとは思うが、名前にとっては、これ程にない真剣な願いであるのもわかるため、上げそうになった笑声をこうして堪え続ける。

すぐにその目も開かれるであろうと、ひとまずそのままで待つ事にしたが、突然静かになった心の声に、じっと口唇を見つめた。

「…義勇が、これ以上傷つきませんように…」

弱々しく震えた声に、どれほどの想いが込められているのか。
考察する前にはもう、合わせていた手を握ると接吻をしていた。
「…んっ!?」
くぐもった声を上げると、文字通り驚倒した名前の軸がぶれ、臀部を地面へと付ける。
ともすればそのまま背中まで沈んでしまいそうな勢いは、両手を掴む義勇によって回避した。
しかしそのまま見つめ合う距離の近さに、恥じらいが湧き上がっていく。

「悪い…」

また勢いに任せたのを自覚し、その身体を起こさせると手を放した。
どうにも名前と居ると、考えるより先に身体が動いてしまう。
頭を冷やすため距離を取ろうとする義勇の裾を、放した筈の両手が掴んだ。

「…キス、したかったの?」

純粋な疑問に満ちた視線を向けられ、あぁ、だから触れたくなるのだろうと考える。
その穢れすら赦してしまう瞳に、常々自分を映しておきたい。その切望は増すばかりで、際限がまるでない。

「キスしたかった」

浮かんだそのままを言葉に出した事で、はにかむ名前の表情が可愛らしいと感じるも、それは心の中だけで呟く。
「ふふっ」
「そんなに笑う程おかしいか?」
「ううん、嬉しいなって。義勇がそう、思ってくれるの」
一呼吸置く間に、布地を掴む指先に力が籠った。
「私も、いつもおんなじ気持ちだから」
勇気を振り絞ったように出された台詞の意味を、脳が噛み砕いた後

「それなら名前からしてくれば良い」

冗談混じりで出した提案で、その瞳が驚きに満ちていく。

義勇の予想では、またわかりやすく頬を染め、狼狽していくであろうと算段だった。そうやって翻弄される名前をこの目にしたい、という若干の嗜虐も否定は出来ない。
しかし、その期待が翻されたと気が付いたのは、名前の柔らかい口唇が上がりそうになる口角を押さえた事によって、今度は義勇の臀部が地に沈んだと同時。

視界に入る硬く瞑った目は必死なものだが、今ここで笑ってはいけないと考える。そのまま固まった身体を抱き寄せると、静かに目を閉じた。



Kiss
甘く蕩けるような

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