藤の花の山での最終選別を終え、どれ程が経ったのだろうか。 元水柱・鱗滝左近次は、今しがた鴉から運ばれた文へ視線を落としながら、そんな事を考えた。 少なくとも、錆兎が亡くなってから三ヶ月は経とうとしている。 "略啓 鱗滝左近次殿" 見慣れた筆跡ではあるが、文という形で閲読するのはこれが初めてだった。 綴られるのは、階級が辛(かのと)になったという簡易的な近況報告と鱗滝への気遣い。 そして羽織りを仕立てた事に対する感謝の後、短い結びの挨拶で締められている。 天狗の面の下、鼻腔を拡げてから小さく息を吐いた。 そこには一文字も記されてはいないが、染み付いた匂いで容易に感じ取れる。 色濃く残るは、隠し切れない名前への思慕の情。 そして、その名を認めようと迷いに迷い断念した経緯すらも、この一枚の文が伝えていた。 机に向かい筆を取ると "拝復 冨岡義勇殿" 頭語に認めた通り、返信を結んでいく。 中程まで筆を動かした所で、襖一枚で仕切られた向こうの部屋へ視線を動かした。 名前。 その名前を書こうとした手は、宛名の人物と同じように迷いに満ちて、また小さく息を吐くしか出来ない。 紙の上で止めた筆先から墨液が落ちてしまわぬ内に手首を動かすと、こちらは何も変化がない事を伝えようとした所で、いや、何も変化がない訳ではない。そう思い直した。 名前の名を示さぬ代わりに、鱗滝は思い出したその存在を文へと認める。 数日前から、良く喋る鴉が狭霧山にやって来たと。 鴉と雲 トントン いつもと同じように合図をしてから静かに襖を開ける。 「身体の調子はどうだ?」 その傍らに腰を下ろすと、膝で丸くなる鴉の頭を撫でていた手が止まり、その瞳が向けられた。 「はい。今日は、とてもいいです」 言葉通り、幾分か血色が良くなった肌に鱗滝の表情が安堵へと変わるが、それが面の下では名前から窺い知る事は出来ない。 「トテモ良イナラ布団カラ出ナサイッ!癸ノ隊士ッ!指令ヲ!伝令ヲ伝エマスッ!スグニ!任務ヘ向カイナサイ!」 意図的に耳の横へ嘴を持ってきては浴びせる容赦ない声量で、キーンと高い耳鳴が響いた。 「…ごめんなさい」 か細く呟くと身を縮込ませる名前に代わり、鱗滝は漆黒の頭を撫でると口を開いた。 「鎹鴉としての責を任され奮起しているのはわかる。だが、まだ名前は致死相当の血液を失った挙句、傷も塞がりきっていない。無理をすれば任務すら遂行出来ず、お前は主を失くす事になるぞ」 冷静に諭す口調で一度その嘴が噤まれたが、すぐに 「退屈ッ!退屈デスッ!ジットシテイルノハトテモ退屈ッ!」 喚きにも似た声を上げ、鱗滝の腕へと飛び乗る。 「ワタシハ仕事ヲスルタメ此処二キマシタ!鬼ヲ討チ取ラセルノガ!ワタシノ仕事デス!」 言い終わらぬ内に羽根を広げると開け放たれた窓の外へと出て行った。 「…あ」 身体を起こそうとする名前を手の動きだけで制止する。 一刻を過ぎれば此処に戻ってくるであろう事は、ここ数日の行動様式と、何より匂いが告げていた。 「義勇から文が届いた。階級が辛になったと」 伝達すべき事柄を簡潔に伝えれば、すぐに嬉々とした色へ変わる。しかしそれも僅かな間。 「羽織りを仕立てた事、感謝していた」 続くその言葉には、打って変わって複雑な感情を見せた。 「…鱗滝さん、義勇には…」 「無論、言うつもりはない」 名前が口にするであろう申し出を先回りし答えを示せば、瞳が安堵を宿す。 隊服の寸法を測りに来た隊員が帰宅した後、義勇は鱗滝に向かい合うと、真剣な顔でこう言った。 「この二枚の着物を一枚の羽織りに出来ませんか?」 そうして差し出されたのは臙脂色と亀甲柄。 義勇にとってどれ程、意義深いものであるか。それ以上何も語らずとも鱗滝は痛い程、理解をしている。 だから敢えて一言で答えた。 「仕立てておこう」と。 義勇の手前、そう言ったは良いものの、二枚の着物をどう一枚にすべきなのか。 類例を見ない試みに頭を悩ませていた時だ。 崖から落下した際に負った怪我を抱えながらも、汚損した手拭いを縫い合わせ、何枚かの浄巾を作成する精確な技術に、鱗滝は仕立てを託す事にした。 しかし問題は、義勇がそれを知った時の反応である。 それがどのような形であろうと、決して芳しくないものであろうというのは名前本人も理解をしていて、何度も何度も念を押した。 「鱗滝さんが仕立てたことにしてください」と。 それから義勇の目を掻い潜り、仕立てを続ける事一週間。 羽織りが出来上がったのは、その持ち主が狭霧山を降りる、まさに直前だった。 というのも、鬼殺隊の縫製係である前田まさおが予定を前倒し一日早く狭霧山へ到着した事で、完全に予定が狂ってしまったためだ。 隊服に袖を通す義勇の襖一枚を挟んだ先、懸命に針を動かし続ける名前が放つ焦りの匂いを嗅いだ時は、流石の鱗滝も間に合わないのではないかと固唾を呑んだのを覚えている。 そんな経緯があるのを知る由もない義勇の文には、鱗滝への感謝と、ただただ畏まる時間すら作れなかった事に対する謝罪が綴られていた。 「隊服と言えば…そろそろ来る頃だろう」 静かに呟いたと同時、コンコン、と音を立てた玄関の戸に鱗滝が応じるために一度部屋から出て行く。 そうして戻ってきたその背後には、いつかも見た隠の格好に身を包んだ姿。 唯一見える目元には、前回名前が見た時と同様、丸みを帯びた眼鏡が掛けられていた。 * * * 出て行った漆黒の羽根が舞い戻ったのは、とっぷりと陽が暮れた頃の事。 まだ固形物を胃に入れられない名前のために粥を作る鱗滝の背後、音を立てぬよう一歩進んだ所で 「帰ったか」 落ち着いた声に鎹鴉の小さな身体が震えた。それと同時に、感動を覚える。 「サスガデス!水柱様ッ!」 輝かせる瞳を匂いで感じ取ったが、振り向かないまま小さく笑った。 「"元"水柱だ。儂の事を既知しているようだが、何処かで会ったか?」 「ワタシノ曾祖父モ鎹鴉デシタ!昔癸ノ隊士二就イテイタ時、鬼二喰ワレソウ二ナッタ所ヲ水柱サマ二助ケテイタダキマシタ!」 ふむ、と小さく唸る鱗滝に、鴉は一歩踏み込むと続ける。 「ワタシハ水柱様ノ鎹鴉二ナリタカッタ!モシクハ"人間"ダッタナラ!鬼殺隊二ナレタノ二!"人間"二生マレタカッタ!」 随分と熱心だ。 そう考えながら、粥を食器へよそっていく。 「悲観する事はない。鎹鴉には鬼殺隊員、いや"人間"では到底賄えないような重要な本務が多く存在する」 「ソレデハ鬼ハ倒セマセン!鬼ハ滅サネバ!鬼ヲ滅サネバ!」 まるでゼンマイが巻かれた玩具のように同じ言葉を繰り返す鴉の前に屈むと皿を置いた。 「随分遠くまで羽根を伸ばしたようだな。腹が減っただろう。食べなさい」 鱗滝の言葉に戸惑いを見せたのはほんの数秒の事。 勢い良く粥をつつき始める姿に面の下ながらも弛む頬に力を入れた。 「鬼が憎いか?」 静かに発した質問で嘴が動きを止めたと同時、答えが返ってくる。 「ワタシノ先祖ハ代々、鎹鴉トシテ働キ、命ヲ落トシテキマシタ。ダカラ鬼ヲ滅スル事ダケヲ考エルノデス」 その身から漂うのは憎しみという臭味。 「憎悪は時に大きな糧となるが、肥大すれば自分自身を見失う感情で在る事を努々忘れるな。鬼を滅するだけでは他者はおろか、自己も救えない」 いつだったか、全く同じ台詞を親友を失くし自分の不甲斐なさに打ちひしがれ、輝きを失くした瞳に掛けた事がある。 記憶を遡るとどうしてか、実際はまだ季節も変わっていないというのに、遠い昔の事のような錯覚を起こしてしまう。 「鬼殺隊は鬼を倒すだけを目的として作られた組織ではない。お前はお前の勤めを果たす事を何よりも優先に考えるのだ」 この言葉は、隊士として重要な身体機能の半分を失い元々脆かった精神の均衡を保てず、涙に濡れた瞳へと掛けた。 遡らずとも思い返せるのは、まだその存在が此処に在るからなのだろうか。 掌にすっぽりと収まるその小さな頭を摩ると 「ワタシハ癸ノ隊士ヲ立派ナ柱二育テマス!鬼ヲ滅スルタメニ!」 決意に満ちた漆黒の双眸を向けられ、苦々しく笑う。 「そうか」 短い肯定をしながらも、その鴉が言う癸の隊士の笑顔が脳裏に過ぎった。 「…だからお館様は、お前を選任したのだろう」 小さく呟いた鱗滝を見つめながら、くぃ、としなやかな首を傾げる鴉。 「いずれ、わかる時が来る」 それだけ言うと、もう一度その頭を優しく撫でた。 * * * 縫製係・前田まさおが再び狭霧山に訪れたのは、それから四日後の昼時だった。 長時間上半身を起こせる程にまで回復した事で、粥より固形の軟飯をゆっくり口に運ぶ名前の前へ嬉々として風呂敷を広げると出来上がったばかりという隊服を見せた。 「さぁどうです寸法もバッチリ合わせてきました。正に世界にひとつ貴女だけの隊服と言えます。着て見せてくださいさぁさぁ早く」 捲し立てる口調に咀嚼していた顎を速めると食道へと送ってから名前は若干狼狽えながら声を出す。 「…これは…?」 「隊服です紛うごとなき隊服です。何ですか?何か問題でも?」 「…あの」 視線を落とした先、明らかに短丈のキュロットに瞬きを繰り返した。 「…私、これを履くのはちょっと…」 「このキュロットは正式な装いですよ。まさかそれを履きたくないとおっしゃいますか?鬼殺隊員ともあろう者が?これが正しい装いと書いて正装ですよ?我儘を言われてもこれ以外に隊服はありません」 「…でも、義勇は…」 一度口籠ると、視線を隊服に落とす。 暫し考えてから意を決し、前田まさおへと向き合った。 「私、義勇と同じ隊服がいいんです!」 「…ぎゆう?誰ですかそれは?」 「み月ほど前にこの狭霧山で前田さんに隊服を作っていただいた隊士です!冨岡義勇、覚えてませんか…?」 眉を下げる名前に見つめられ、前田は訝しい顔をしてから小さく頷く。 「……あぁ、覚えてますが男はどうでも…ゴホンッ!いえ、男性と女性の隊服は違いますから。そう言われても無理です」 「どうしてもダメですか?」 「何ですか?貴女は私の縫製した隊服にケチをつける気ですね。そんな隊士は初めてです」 「…ごめんなさい」 「怒っている訳ではありません。謝るより着てくれれば良いんです。そしてそれを見せてください」 さぁさぁ、と身振りをつけて催促する姿に根負けし、隊服へ手を伸ばした次の瞬間 バサバサッ! 強い羽音が響いて、窓際へと二人の視線が動いた。 「嘘デスッ!コノ男ハ嘘ヲ吐イテイマス!ワタシハ見マシタ!」 声量を最大にして喚く鴉に前田の表情が見る見る内に曇っていく。 「女隊士二露出ノ高イ隊服ヲ着サセル!正装ナンテ嘘ッパチデス!渾名はゲスメガネ!騙サレテハイケマセン!癸ノ隊士!」 「な、何をおっしゃっておられるのやら意味がわかりませんね!何なんですか鳥類の分際で人類に盾突くなど言語道断ですよ!」 吐き捨てたその一言で鴉の頭に血が上ったと同時だった。 「分際なんて!い、言わないでください…!」 震える声を絞り出した名前に、噛み付こうとした嘴を止める。 「わ、私にとっては大事な仲間です。鴉だからとか人間だからとか、命をかけて戦うのにそんなの関係ありません!」 涙を溜めながらも必死で訴えるその瞳からは強い意思が伝わってきて、鴉はこの時、思い出していた。 「いずれ、わかる時が来る」 あの時聞いた、鱗滝の言葉を。 「スグニチャントシタ隊服ヲ作リ直シテキナサイ!デナイト眼鏡ヲ割リマス!!」」 頭の上へ飛び乗るとその透鏡を軽くつついた事で、恐怖の色を宿した瞳が慌てて立ち上がった。 「成程!冨岡義勇という者と同じ隊服をご希望だと!本来このような特例は認められませんが今回は特別に拵えましょう!それではまた後日!」 隊服を残したまま逃げ帰るその背中を見送り、今度はその右肩へ趾を乗せる。 「…あの…ありがとうございます」 小さく頭を下げたその姿は、先程とは打って変わっておどおどとしたもので、ほんの一瞬でも感動した自分が馬鹿げていた、と鴉は思い直し、再度窓の外へ飛び出した。 * * * 「昼間は、世話になったようだな」 静かにそう言いながら膝を折って座り込んだ先、寝息を立てている名前と、それを傍らで眺める鴉に鱗滝は目を細めた。 漆黒の身体は月灯りに照らされる事で、鉄紺色を放っている。 鎹鴉が助けてくれたという報告を聞いたのは、昼餉後の片付けをするために汲み井戸から水を運んできた時だった。 「癸ノ隊士ハ気ガ弱イ!自己主張ガ出来ナイ、チカラヲ持タナイ……生キ物ハ淘汰サレル理デス」 言葉の途中、小さく唸ると寝返りを打つ姿に気付き、その声を潜める。 「いかにも。それが自然の摂理というものだ」 鴉の双眸を受け、一度間を置いてから続けた。 「だからこそ、お前が名前の元へ来たのではないかと、儂はそう考えている」 「ワタシガソノ根性ヲ鍛エ直セバ良イノデスネ!」 「そうではない」 「デハ何ヲスレバ良イノデスカ!」 無意識に大きくなる声量に、また小さく唸ったその瞳から、音もなく涙が一筋零れる。 次に鴉の耳に入ったのは、自分の父母、そして錆兎という人物を途切れ途切れに呼ぶ声だった。 「ただ、在るがままをその目で見てやってくれ」 そう言って、涙を拭う鱗滝の優しさが伝わったように、すぐに深い寝息へと変わる。 「そうして儂に、一字一句漏らす事なく伝えて欲しい」 月灯りに照らされた天狗の面に、鴉はその覚悟を確かに見た。 "育手"として、命を賭けさせた業を背負っていく覚悟を。 それは、喩えどんな結末を迎えようとも、目を背けはしないという、強い意思だった。 「ワタシハヤッパリ水柱様ニ、オ仕エシタカッタデス」 力なく項垂れる頭に、鱗滝は小さく笑う。 「"元"、水柱だ」 そうして撫でるその手は、温かくも若干の寂寞を伝えていた。 約束シマショウ。最期マデ [mokuji] [しおりを挟む] [back] ×
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