雲路の果て | ナノ 水と雲


「違う、それじゃ六回だ」
「…こ、こう?」
「今度は一回足りない」
若干強い口調の錆兎と困惑しながら答える名前に、風呂から上がった義勇は小さく首を傾げると
「どうしたんだ?」
髪の毛を手拭いで拭きながら訊いた。

「何でコイツこんな不器用なんだよ。五回の瞬き全く出来ないんだぜ?」
心底呆れた、というように息を吐く錆兎の前、懸命に瞬きを繰り返す名前の隣に腰をかけた。
錆兎が言う五回の瞬きとは、了解を示す文字暗号。
その項目は文字暗号表には記載されておらず、三人が独自に編み出したものだ。
町で流行している電鍵に僅かながら憧れはしたが、それは値が張るため孤児である三人が手を出せる筈もなく、その信号だけを覚え瞬きで伝えるという手段を自然と思いついた。
鱗滝左近次にねだるという選択肢が最初からなかったのは、路頭に迷った自分たちを拾い、こうして剣士として育ててくれている、その有難みを身に沁みて感じているから。
我儘を言って困らせたくはない。
性格も思考も違う三人だが、そこだけの意見は常に一致していた。

「良いか?良く見てろ?一二三四五。こうだ」
「…こう?」
「だから一回多くなってる。お前ほんと…」
こめかみに手を当てる錆兎に替わり、今度は義勇が口を開く。
「一、二、三、四、五。この拍子で出来ないか?」
錆兎よりも若干ゆっくりめに提案したものの、意思に反してまた最後に一回多くしてしまう。
「あー、もう良いよ。お前の了解は瞬き六回な」
諦めたように溜め息を吐く錆兎と、未だ瞬きを繰り返し練習する名前に、義勇はつい苦笑いを零した。


と雲


「本日より、この真剣を使用する」

三人の目の前、刀を三本並べてから、鱗滝は静かにそう言った。

「修行の時のみならず、これを常に腰に差し肌身離さず生活する事。万が一紛失、破損した者には、それ相応の罰を与える」

ビリッ…と電気が走るように空気が重くなったのを感じ三人はすぐに
「「「はい!」」」
声を合わせ、返事をした。
鱗滝の修行は確かに辛く厳しいものだったが、その良し悪しに関わらず「罰を与える」などという台詞を今まで一度たりとも聞いた事はない。
それだけで刀を持つというのが重責なのだという事をすぐさま理解した。

「意外に軽いな」

山頂までの道なりを駆け抜けながら、腰に差していた刀をおもむろに右手で持つ錆兎。
「そうかな?私には重いよ…」
今までなかった腰の違和感に眉を下げる名前の不安は、ただ刀を持っている事実だけではない。
「どうしよう、もし失くしちゃったら…」
「お前真っ先にやりそうだもんな」
ケラケラと笑う表情に口を尖らせる。
「もう!錆兎酷い!」
「慣れるまでの辛抱だ。俺も名前が常に刀を差してるかどうか気にするようにする」
「…ありがとう、義勇」
「お前名前に甘過ぎるぞ。少し厳しくしないとコイツのためになんないんだからな」
「そういう錆兎もさっき俺と名前が刀を持ってるか確認してた気がするんだが…」
「え?そうなの?」
二人に向けられる視線から逃れるようにそっぽを向くと
「お前らが危なっかしいからだよ!」
それだけ言うと走る速度を速める。
「…ありがとう、錆兎」
微笑む名前と義勇に、気恥ずかしさから言葉を返す事はなかった。

* * *

最初こそ慣れなかった腰の刀も、数日もすれば徐々に身体へ馴染むようになり、いつしか名前の心境も、義務ではなく随意へと変わっていった。
それを見図ったように、鱗滝は真剣での組み打ちを提案する。
勿論、本気で戦う訳ではない。
微速で交互に攻撃と防御を繰り返し、相手の動を読みそれに合わせ刀で受け止める。
本来、真剣を振るうのは鬼の頸を斬るため。
それでも実践でその身に感じる経験ほど貴く勝るものはない。
鱗滝はそこまで言及はしなかったが、この行動がこの先の未来、三人にとって何らかの指針になると踏んでいた。

「…わっ!」

左斜め上から降ってくる刀を全力で受けるも、尻餅をついた名前に、今しがた振るったばかりの刀を鞘にしまい錆兎は口を開く。
「お前もうちょっと足に力入れて踏ん張んないと簡単に倒されるぞ?」
「…これでも全力なんだけどな…」
「受ける瞬間、足より手に力が入り過ぎてる。受け太刀そのものを身構え過ぎだ」
「…受ける瞬間…。そっか…」
錆兎の教示を噛み砕くように繰り返すと頷いた。
そのまま座り込んで動こうとしない名前を見兼ね、義勇はそっと右手を差し出す。
「あ、ありがとう…」
微笑みながらしっかりとその手に掴まると立ち上がり衣服を叩いた。
「次、名前と義勇だろ?」
「ん?」
「組み打ち」
「あ、そうだった!…お願いします」
一度刀を鞘に収め、義勇へ向き合い深々と頭を下げるのを横目に、錆兎は一筋流れる汗を手拭いで拭いてから傍らの岩へ腰掛けた。
同じように頭を下げ、刀を抜く義勇。
相対する二人がどんな動きをするのか気になりじっと見つめるも

「…………」

全く微動だにしないのに痺れを切らし
「お前ら組み打ちの意味わかってるか?」
つい突っ込んでしまった。

* * *

真剣での実践が主な修行内容になり始めた頃、狭霧山の六合目、今日も刀が擦り合う音が響いていた。
それは当初、鱗滝が指示した微速を遥かに超え常人では目で追えぬ程の速度にまで進化している。

キィィンッ!!

鋭い音を響かせた後、刀を重ねたまま見つめ合う錆兎と義勇。
真剣なその表情もすぐに弛まった。
スッと刀を下ろし同時に鞘へしまう姿に、見入っていた事に気付き、名前は何回か瞬きを繰り返す。
「…二人とも…凄い…」
お互い加減はしている。
全力ではなくとも、名前は動きを追うのが精一杯だった。
それでも小さく息を荒げる自分と、呼吸ひとつ乱れていない錆兎を比べれば、どちらが勝っているかは明瞭だと、義勇は思う。

「少し休憩してからにする?」

次に待つのは名前との組み打ち。
「いや、大丈夫だ」
短く返事をすると軽く汗を拭ってから相対した。
お互い遠慮の塊だったその組み打ちも、徐々に形にはなってきている。
錆兎と義勇のように素早く動く事は出来ないが、確実に、そして的確に受け太刀をする名前に、義勇は加減をしながらも攻め込んでいく。
竹水筒を口へ運びながら錆兎は真剣な表情でそれを眺めていた。

名前が正面から振り下ろした刃。
斜めに受けるのはその腕の負担になるだろうと刀の角度を変え、完全に受け止める体勢を取る。
刃先が触れ合った瞬間

ピシッ…

ヒビが入る音が聞こえた僅か数秒後、名前の刀が真っ二つに割れた。

「………っ!!?」

驚きの声すら出ずそのまま固まるも、すぐにその事の重大さに気が付き目を潤ます。

「どうしよう…お、折れちゃった…っ」
「悪い!!…ごめん名前!!悪い!!」
ポロポロと涙を零す傍で完全に狼狽する義勇を見るも、珍しく錆兎も暫く動けずにいた。

もしも今、義勇が名前の刀を止めようとせず、力任せに返そうとしていたら、その切っ先は名前を捉えていた。

想像しただけで身が震える。
それと同時に、何故こんな危険な修行を取り入れたのか、鱗滝の真意がわからず困惑が頭を占めていた。

「…落ち着け」

二人に向けた筈の言葉は、自分にも当て嵌まっていると息を吐く。
「折れちまったものは仕方ない。素直に謝りに行こう」
受ける罰がどんなものなのかはわからない。
それでも今出来るのは正直に報告し謝罪をする。
それしか道はない。
「…うん…」
泣きながらも頷く名前に、義勇は
「鱗滝さんには俺が折ってしまったと説明する…!罰なら俺が全部受けると言うから…!」
懸命に慰撫するも、首を横に振る。
「…義勇が悪いんじゃないもん。私のためにそこまでしようとしなくていいよ…?」
自分を責め続けるその表情に申し訳なさが募り、涙を浮かべながらも微笑んだ。



この前よりも重く暗い空気が家中を包む。
もう既に何が起きたのかはその鼻で嗅ぎ分けているのだろうが、鱗滝は三人の前に座ったまま声を発そうとはしない。

「…鱗滝さん、ごめんなさい。刀を折ってしまいました…。申し訳、ございません…」

震える手で差し出された鞘に収まった刀を受け取るとそれを引き抜き、約半分程になった刀身を眺めた。

「…すみません鱗滝さん!俺が…」
すぐに名前を擁護しようとする義勇の言葉はその掌を向けるだけで制止する。
「怪我はなかったか?」
「……。はい」
泣かないようにと言い聞かせるも勝手に出てくる涙で天狗の面がぼやけて見えた。
「折れた刀身はどうした?」
「…あ、それは…」
「俺が持ってます。コイツに持たせるのは危ないと思ったので」
手巾に包まれたそれは、此処へ戻る直前名前がどうしても持って帰りたいと主張したため、錆兎が預かるという条件付きで拾ってきた。
床へ差し出す錆兎に視線を向けてから、義勇へと移す。
「義勇がこれを折ったのか?」
「…そうです。名前は悪くありません。俺の受け太刀の仕方が悪かったせいです。申し訳ありません」
深々と床へつける頭に、フッと小さく笑った事でその空気が若干だが緩んだ気がした。

「お前の受け太刀が悪かったのなら今頃名前はこの世にはいないであろう」

その言葉に眉を寄せたのは錆兎だけだった。
「刀身が折れて尚、その身体に傷ひとつないのは儂の"常に刀を受けよ"という言いつけを貫いていた証だ」
「…鱗滝さん、もしかしてわざと…」
名前と義勇が全く以て理解していない中、鱗滝は続ける。
「刀…、日輪刀は鬼を滅するため必要不可欠な武器となる。これがなくては人間は鬼に対し無力だ」
命を預ける刀を自分の身の一部として生きていく癖をつけさせるよう、常に共に生活せよと命じたのはその意図からくるものだった。
「しかしこれは、何の罪もない人間の命を奪う事もまた出来るものなのだと、否定出来ぬ事実をいつ何時も忘れぬよう、その心に深く刻みつける必要がある」
例え鱗滝が口だけで言い聞かせたとしても、どこからともなく流れてくる風でいとも簡単に吹き飛んでいってしまう。
多少強引でも、経験という形で根っこに深く植え付けなければならないと考えた。
「お前達がこれから持つであろう日輪刀は最大の武器であり防御となる。しかしその刃は鬼に対してのみ向けなければならない。そう、肝に銘じておけ」
「…はい!」
鱗滝の気迫に圧倒されたのか、返事をしたのは錆兎だけ。
「折れた刀身を持ち帰る程、愛着が湧いたようだな」
穏やかな口調で言う鱗滝に安堵から溜めていた涙を零した。
「…あ、でも…あの…罰は…?」
「あれは戯言だ。お前達…特に名前、お前には特に慎重さを持たせる必要があった。刀が折れる前に失くされてはこの試練を与えた意味がなくなってしまうからな」
「…折れる、事も知っていたんですか?」
若干目を見開いた義勇へと天狗の面を向ける。
「無論だ。受け太刀を続ければ続ける程、刃毀れは酷くなり、その欠けた箇所へ刃先を入れれば刀はいとも簡単に両断される」
特に名前は錆兎と義勇よりも力が弱い分、まともに受け太刀を取り辛く、刃毀れを起こしやすい事から最初に折れるであろう事も予見していた。
「刀は縦の力には強いが横から、特に垂直の力には弱い。これも覚えておくとお前達の力となるだろう」
すっかり穏やかな空気を放つ鱗滝に、三人分の嬉しそうな返事が響く。
心底安堵する幼顔に、天狗の面の下が穏やかに微笑った。

* * *

「…錆兎と鱗滝さんは?」
布団を敷き終えた義勇が戻ってきた所、一人で夕餉に使った食器を洗う後ろ姿を視界に入れた事で浮かんだ疑問を投げかけた。
「錆兎はお風呂だよ。鱗滝さんは…わかんない。ちょっと出てくるっていっちゃった」
「そうか。俺もやる」
そう言うと名前の横に立つ義勇。
「いいのいいの!もう終わるから!」
先程、錆兎にも同じ事を言い風呂へ向かうよう促したが、それを知る由もない両手が布巾を持つ。
「なら俺が拭く」
「…ありがとう」
黙々と食器を拭いていく横顔に、一度目を伏せると食器を洗う手を再開させた。
「義勇、さっきはありがとう」
また聞こえた礼の言葉に今度は義勇の手が止まる。
「庇ってくれたの、嬉しかった」
「それは…名前が悪いんじゃなかったからだ」
「義勇も悪くないよ?」
見つめる真ん丸の瞳に耐えられず拭いている食器をただ真っ直ぐ見た。
「……錆兎は、凄いよな」
つい口を出た感嘆に満ちた一言。
刀が折れた事に狼狽するしかなかった自分とは違い、あの時既に鱗滝の真意を読み解こうとしていた錆兎との差を感じざるを得ない。
「うん、すごいね」
間髪入れず答える穏やかな横顔に視線だけを向けるも
「義勇もすごいよ?さっき鱗滝さんが言ってたけど、力も呼吸も使わないで刀を折るのって実はすごく難しいんだって」
完全に合ってしまった両目に逸らせなくなってしまった。
「折れ方から見てもその角度がえっと…寸分狂わず?精密だって鱗滝さんすごく褒めてたんだよ?」
「……それでも錆兎には敵わない。錆兎は…俺の憧れだ」
「憧れかぁ…そしたら私の憧れは錆兎と義勇かな」
屈託のない笑みに瞬きを繰り返す。
「錆兎じゃないのか?」
「錆兎は強くていつも落ち着いててすごいし、義勇は強くていつも優しくてすごいの。私、二人みたいになりたいっていっつも思ってる」
何一つ嘘のない言葉と細めた瞳に返す言葉を考えるも

「俺が何だって?」

背後から現れた錆兎に二人の身体がわかりやすく跳ねた。

「お、お帰り、早かったな、錆兎」
「お前、俺には良いって言っといて何で義勇には手伝わせてんだよ」
「それは、義勇が優しいから…」
「お前この!俺が優しくないって言いたいのか!?」
ガッと力任せに首へ巻き付ける片腕に名前が暴れる。
「いっ…たい!!錆兎も優しいけどこういう時は優しくない!!」
「錆兎!首を絞めるのは良くない!!」
「そうだよ!よくない!!」
「…お前ら、こういう時の同調具合面白いよな」
ケタケタと笑う錆兎につられるように、義勇、そして名前が耐え切れず笑声を上げた。

この三人でずっと一緒に

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