雲路の果て | ナノ 兎と水

ある日突然、鱗滝さんが連れてきたその女は、とても不安そうにその背中に隠れながら、俺と義勇を見つめていた。

「……すぐに戻る」

そう言って玄関を閉める背中は、意図的に俺達を三人だけにしたのだろう。
知らない場所、見知らぬ人間に怯え、一点を見つめたまま気配を消すように小さくなるその姿と、少し離れた所から心配そうに様子を窺う義勇を横目に立ち上がると台所へ向かう。
念入りに洗ってから塩を塗した両手に、珍しく昼飯で残った白米の残りを掬うとぐっと握った。
握り飯の作り方は鱗滝さんに何度か教えて貰ったが、未だに上手く出来た試しがない。
俺が握るとカチカチに固まるか、ボロボロで纏まらないか、どっちかしかなかった。
今日はボロボロの方だったが、この間よりは上手くいった事に満足して、それを差し出した。



と水


「…どうしたんだよ、それ」

狭霧山の頂に錆兎の呆れた声が響く。
与えられていた課題を終えた後の事だ。
午後からまた始まる修行に備えるため、一度麓へ帰ろうとした所、目に入ったのは野生の狸を抱え、今にも泣きそうな名前の姿。
「…この子、怪我してるの…」
大きさからいうとまだ産まれて数ヶ月しか経っていないだろう。
ぐったりしている様子と右前脚に化膿している傷を確認し、眉を寄せる。
「まさか拾って帰ろうって言うんじゃないよな」
若干きつめの口調に、少し距離を置きつつも名前の隣にいた義勇が
「…錆兎」
制するように名前を呼ぶ。
「お前この間も巣から落ちた雛拾おうとして鱗滝さんに注意されてただろ?」

野生動物に人間が干渉してはいけない。

それも鱗滝の教えだった。
山の麓に住んでいれば、それだけ色々な生き物と遭遇する。
時には死に直面している姿を目にする事もあるだろう。
しかしそれは抗う事が出来ぬ自然の摂理。
人間が悪戯に手を出す事で良い結果が生まれる訳ではないのを、鱗滝はその経験において良く知っていた。
例えば名前が拾おうとした鳥の雛に関してもそう。
一度落ちてしまった雛を同じ様に巣の中へ戻したとしても、人間の匂いが僅かでもついた我が子に親鳥は餌を与える事はない。
それどころか見知らぬ匂いを警戒し、その雛を親自らが排除してしまう場合もある。

動物から見た人間は、それこそ自分達にとっての鬼のような存在だ。

「…せめて傷が治るまで」
縮こまりながら小さく呟く名前に更に眉を寄せる。
「傷が治ったらこいつは絶対に野垂れ死なないって言えるのか?それとも飼うのか?違うだろ?お前何でいつもそう無責任に…」
言い終わらない内からポロポロと流れるその涙に目を閉じると額に手を当てた。
「…そんなに責めないでくれ。俺が最初に錆兎に相談しようって言ったんだ。ごめん」
「お前はホント名前に甘いよな。何一緒になって助けてんだよ」
ハァッと重めの溜め息を吐く。
「…で、具体的にどうするんだ?」
言葉だけで受け入れた事を示せば、二人の表情が同時に固まった。
「…まさかお前ら何も考えないで拾ってきたのかよ?」
「…錆兎なら、何か思いつくんじゃないかと思って。な?」
「うん」
期待に満ちた二人の眼差しに出たのは先程より深刻な溜め息。
何と言えば良いのか。この能天気さは瓜二つだと思う。
元々、義勇自体にその気(け)はなきにしもあらずだったが、名前が此処に来てから触発されたように表層化している。
お陰で錆兎にのしかかる苦労は倍に増えた。
それが不満な訳ではないが。

「…鱗滝さんに見つからないようになんて不可能に近いぞ。麓に連れ帰るなんて絶対に無理だ。まず匂いでバレる。言っとくけど今お前がそいつを抱いてる時点でもう匂いがついちまってるんだからな?」
家に戻れば例えそこに仔狸の姿がなかったとしても、鱗滝がその匂いに気がつかない筈がない。
酷くぐったりとした様子に顔を覗き込みながら考える。
怪我の痛みで食欲がなくなっているのだろう。当面必要なものは傷薬と包帯と、弱っていても口に出来る粥のように柔らかい食物か。
「今から俺は薬と包帯を取りに一度麓に下りる。戻ってくるまでに名前と義勇はこいつを匿えて、尚且つ他の動物に見つからないような場所を探してくれ」
「うん」
「わかった」
返事を背中で聞いてから全速で山を降りた。
この時間、いつも鱗滝は買い出しに町へ降りているのをこれまでの行動手順で予測は出来ている。
しかしそれも僅かな間。
鱗滝が買い出しを終えて戻ってくる頃には錆兎達三人は家に戻っていなければならない。
でなければ確実に訊ねられるからだ。
何をしていたのかと。
そうなったら嘘を吐く事が苦手な二人の事だ。あっさりと仔狸の事は公然となるだろう。
焦りの匂いを残さないよう、出来るだけ平常心で傷薬と包帯、そして昼餉に用意されていた白米を少々拝借する事にする。
何か入れ物はないかと台所周辺を探した所、先日欠けて使えなくなった廃棄用の茶碗を見つけ、それを小脇に抱えた。

* * *

「…錆兎!」

走ってくる姿を見止めて、名前が大きく手を振る。
「見つかったか?」
短く訊けばその視線がしゃがんでいる義勇の背中へ移る。
「此処なら多分、大丈夫だと思う…。義勇が見付けてくれたの」
そこは自然と出来た岩の割れ目。ぽっかりと出来た空洞に丁度義勇が集めた葉を敷いている所だった。
「名前はこれで手当してやれ。俺はこいつに食べさせる粥を作る」
薬と包帯を渡してから拝借してきた茶碗と白米を地面に置いた所で忘れ物に気付く。
しかしそれも
「…水持ってないか?」
その言葉に反応して
「私持ってる!」
名前が差し出した竹水筒ですぐ解決した。


「…これで当分はどうにかなりそうだな」

義勇が作った寝床に、名前が薬を塗り巻いた包帯、錆兎が白米を濾した粥。
最後に空洞を隠すために編んだ竹皮と草木で軽く塞いでから立ち上がった。
「すぐに戻るぞ。鱗滝さんが帰ってくる」
小さく頷いた二人に、あ、と声を上げてから続ける。
「狸の匂いを訊かれたら名前と義勇は正直に助けたと答えろよ?」
鱗滝に生半可な嘘は通じない。
特にこの二人の嘘なんて勘が鋭くなくてもすぐにわかる。
「でもそしたら…」
「俺が止めて逃がした事にする。下手に誤魔化すよりそっちの方が信憑性が出るだろ?」
何度か瞬きを繰り返す名前。
「錆兎って…凄いね。そんなに次々と色んな事思いつくなんて、凄い」
素直に感嘆する眼差しにまた重めな溜め息が出る。
「お前が向こう見ずなだけだ。良いか?言っとくけど手を貸すのは今回だけだからな?」
「…うん。ありがとう!錆兎!」
嬉しそうに微笑う名前に小さく溜め息を吐いてから
「戻るぞ」
それだけ言うと走り出す。
山を下りながらも義勇の隣へ移動すると小声で話し掛けた。
「お前もお前だからな義勇。大体何で動物苦手なの名前に言わないんだよ?あいつ絶対気付いてないぞ。バカだから」
幸いにも、と言えば良いのか、名前が関わろうとする動物は皆弱り切っているため、突然襲ってくる恐怖は若干薄れてはいるのだろうが、義勇が常に一定の距離を保ってるのを錆兎にはわかっていた。
「…タイミングを逃したんだ…。今更ガッカリされそうで…」
「いや、ガッカリはしないだろ。バカだし、あいつ」
「…カッコ悪いって思われたくない」
ボソッと呟いた言葉に、錆兎は人知れず笑みを浮かべる。
しかしそれもすぐに真剣な表情に戻ると声を張り上げた。
「三人で行動するのは怪しまれる。明日から交代で食べ物と包帯の交換をしよう」
背中で名前の返事を聞いてから
「義勇は食べ物を与えるだけで良いからな」
小さく囁いた。

* * *

それから数日、鱗滝の目を欺く日々が続いた。
朝餉の時間には皆で協力して白米や薄く味付けされた野菜を少しずつ手巾で包んだり、わからぬ程度に包帯を拝借したり、今日の仔狸の様子を報告しあったり、順調に事は運んでいっていた。
一週間経った時には、仔狸は傷が塞がりかけているお陰で硬い生野菜でも食せるようになっており、此処に匿っていられるのも長くてあと二、三日だろうと錆兎は目算していた。

しかしそれは、翌日の事。

狭霧山の七合目、午前中の決まった基礎体力向上の課題をこなしていた錆兎に、仔狸の様子を見に行っていた義勇が全速で下りてきたかと思えば
「錆兎!狸が…!」
焦った様子に眉を寄せた。

錆兎がその場に駆け付けた時には、岩の割れ目の前で名前はへたりと座り込み、ただ涙を流していた。
「…大丈夫か?」
その傍らに寄り添う義勇を横目に、そっと狸が居るであろう場所を覗き込む。

存在を隠すように編んだ竹皮が破られ、仔狸の姿は忽然と消えていた。
何が、あったのか。
咄嗟に仔狸が自分から脱出したのかとも思考を巡らせたが、それは明らかにこちら側、外から破られたものだった。
野生動物に襲われたのだろうと。
この状況ではそれしか考えられなかった。
だから名前もこんなに泣きじゃくっている。

瞬時に後悔が押し寄せる。
やはり鱗滝の言う通りだった、と。
自分達が立ち入って良い問題じゃなかった。
勿論、中途半端に手を出した訳じゃない。
最後まで、必ず良い方向へ行くように予測も責任も持っていたつもりだった。
だけどそれでも駄目だった。
自然の摂理には、抗えなかった。

干渉を、してはいけない。

鱗滝がそう言っていたのは、動物のためだけじゃない。
無鉄砲な優しさを持つ名前を絶望の底へ落とさせないためだったのだと、唐突に理解をした。

立ち尽くす錆兎の耳にガサッと木の葉が動く音が届く。
ふと視線を向けた先を認識したと同時、大きく目を見開いていた。

「名前、義勇…」

無意識の内に声を抑えたのは、それを驚かせないため。
「…見てみろ。あれ」
その言葉に、二人の視線が錆兎からそちらへ移される。
視線の先には二匹の狸の姿。
右前脚の見慣れた包帯に、声は出さずとも二人が驚いたのを気配で察知する。
横には一回りほど大きい狸。
それが恐らく親狸だというのは雰囲気でだけだが判断した。
暫くこちらをじっと見つめた後、森へ消えた二匹に、名前が更に涙を溢すのを
「…良かった。元気そうだったな」
不器用ながら懸命に励ます義勇の姿に、自然と笑みが零れた。

* * *

「鱗滝さん!ただいま!」

先程の泣きじゃくっていた姿はどこへやら、仔狸が無事だった事でニコニコとしながら部屋へと入っていく名前と、心底ホッとしたように後へ続く義勇。
少し遅れて錆兎が玄関へ足を踏み入れた瞬間
「仔狸は元気になったようだな」
呟かれた言葉に目を見開いた。
「…鱗滝さん…気付いてたんですか?」
「無論だ。儂を誰だと思っている」
「…すみません。言いつけを破ってしまいました」
軽く下げた頭も
「…なかなか見事な作戦だった。常に平常心を保ち、匂いを隠したのは秀抜だ」
突然の賞賛に何度も瞬きを繰り返す。
顔を上げた先、目に入る天狗の面は怒りではなく優しさを宿していた。
「だからと言って教えを破って良い訳でないが」
一瞬ピリッとした空気にもう一度頭を下げる。
「すみません…」
ポン、と軽く叩かれた肩と同時
「…成長したな。錆兎」
その言葉に視線を落とすと堪え切れず口角を上げた。



やっぱり鱗滝さんにはわないな

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