夜の帳に、どこからともなく野鳥の低い声が響く。 「鳥、鳴いてるね」 「そうだな」 「……静か、だね」 「……。そうだな」 布団の中で繋がれた手に力を込めたのは同時だった。 やってくる睡魔から少しばかり間延びしていた声も、今度は互いにはっきりとした笑声に変わる。 「…平和、だな」 「……うん」 夜の闇で、鴉ではない鳥が鳴く。 一見すれば当然とも思える現象も、数ヶ月前には極めて珍しいものだった。 それは、鬼という存在によって作り出される脅威。 恐れていたのは、人間に限った話ではない。 夜の山林というものは、意図せずともその存在の後ろ盾となる。 本来であれば夜間に行動を活発化させる野生動物も、鬼の気配を感じた瞬間に逃げ出すか、あるいは完全に気配を絶つ。 飢餓状態、もしくは何らかの理由で我を喪失した鬼が、捕食対象として襲ってくることを本能で知っているからだ。 その張り詰めた静寂は鬼殺隊にとっても、ひとつの判断材料となっていた。 野生動物が息を潜めている山々には、必ずといっていいほど鬼が棲まう。 経験を積んで知り得た事実を思い出したからこそ、二人は自然と微笑い合った。 鬼はもういない。 こんなところでも実感するものがある上に、それを共有できているという嬉しさは募る。 「ねよっか?」 「あぁ」 握っていた手を弛めはしたが、離さないまま目を閉じた。 淡い微睡みに誘われそうになった頃、大して厚みを持たない小屋の壁を僅かに吹く風がカタカタと揺らしたことで、義勇はおもむろに目蓋を動かす。 「…寒くないか?」 「……ふ…?ん、う」 すでに半分以上夢の中だったのだろう。 返事なのかどうか定かではない甘い声に、口角が勝手に上がった。 「きちんと羽織っておいた方がいい。湯冷めする」 「……ん」 短い返事はするものの、力なく目蓋を閉じる名前に、一度繋いでいた手を離すと肌蹴そうな浴衣を直す。 湯あたりを起こし暫くしてから布団に入らせたものだから、帯すら満足に巻けていない。 だからこそせめて身体が冷えてしまわぬよう、掛け布団も肩まですっぽりと被せた。 「…あった、かい…」 すぐにでも眠りに落ちそうなふにゃりとした笑顔に満足して、その髪を撫でる。 明日には山を下りるため、少しでも深く長い眠りをとらせたい。 そう思ってはいるが、ふとした疑問が気にかかる。 ずっと気引っかかっていたが恐らく名前のことだから、頑なに秘密にしたがるだろうと、何となくの想定で訊かずにいたことが、今になって沸々と湧いていた。 「…そういえば」 「んぅ…?」 夢うつつの状態ならば、答えるのではないか。 そんな期待から、できるだけさらりとした口調を意識した。 「昨日、星に何を願ったんだ?」 しかし途端に包む静寂には、僅かながら義勇に緊張が走る。 やはり深掘りしない方が良かったのか。 完全に空気が冷え切る前に、発言をうやむやしてなかったことにするべきか。 考えている間に、おもむろに薄目を開けたのを暗がりの中で見た。 「……義勇が、ね、やりたいこと、仕事にできますようにって…」 先程よりしっかりとした口調は、驚きをもたらしもしたが、その内容にはおおよそ名前らしいと笑みが零れていく。 「……あとね…」 若干言い淀む口唇が再度動くまでを、ただ待った。 「亡くなった人が星になるなら、みんな、いるのかなって思って…。そしたら、寂しくないようにって……」 力なく繰り返す瞬きが止まったあと、ゆっくりと閉じられる。 「……。そうか」 頬を撫でた時には、すでに規則正しい寝息が立てられていた。 今は穏やかな寝顔も、これまで何度泣き濡らしたか、義勇には計り知れない。 だからこそ、思う。 死してなお、懸命に願ってくれる存在がいるのなら、喩え星になどなっていなくとも──……。 「きっと、寂しくないんじゃないか?」 呟いた声が届かないのはわかっているが、義勇は人知れず笑顔を深めた。 雲路の果て 義勇と名前が山小屋を後にしたのは、明星がひときわ輝く刻だった。 特に何かきっかけがあったわけではないが、偶然にも同時期に目を覚ました二人は再度眠りにも就けず、自然と身支度を始めていた。 しかし、せめて老婆が訪れるまでは、ここに滞在しているべきかと名前の中で迷いが生じる。 何から何まで世話になっておいて、顔を見せずに下山をするのは恩知らずではないかという思いを義勇に伝えはしたが、結局、礼を認めた文を残すことで納得をした。 それは昨晩、 「この歳になるとねぇ、見送るというのは余り好かなくなりましたわ」 老婆が零した寂寥を、短い話し合いの中で義勇がふと思い出したためだ。 その言葉から感じたものが間違いないのならば、わざわざ二人がここに留まるのは、かえって老婆に対する背信となる。 だからこそ文は簡潔に、それでいて別れを連想させぬようできうる限り気遣いはした。 果たしてそれが正解であるのかは、老婆自身しか知り得ないことだ。 「大丈夫か?」 山の中腹まで下りたところで、背後から聞こえた小さいながら確かな悲鳴と草履が滑る音に、義勇は振り返る。 「うん、大丈夫っ」 想定していたより遥かに力強い笑顔に、わずかながら抱いていた期待が打ち砕かれたのも振り返って知った。 「……そうか」 名前から聴こえるしっかりとした呼吸音に、落胆が声へと表れる。 それは利己的なものでしかないにも関わらず、 「……。どうしたの?」 見る見るうちに悲壮となっていく表情で、義勇は我に返った。 「いや……、名前が疲れたなら俺が背負っていこうと思っていた」 決して疲弊そのものを望んでいたわけでないが、心のどこかで意気込んでいたのも紛れもない事実。 多少なりとも頼れるところを見せたくなるのは、義勇でなくとも男であれば誰でもそうだろう。 「…大丈夫だよ?」 そんな意図を読み取れるはずもなく不思議な顔をしたあとで微笑む姿に、罰の悪さを感じてもいる。 「それなら、いい」 少しばかりぶっきらぼうな言い方になってしまったと悔やむのを遮るように、 「あっ」 名前が短く声を上げた。 「どうした?」 小走りで数歩進んだのち、その場に蹲る後ろ姿を見つめたところでおもむろに振り返る。 「見て見てっ」 嬉々として報告してくる名前に倣い、義勇は静かに隣へと移動した。 視線を落とした先には、蛇の形を綺麗に留めた抜け殻。 「脱皮した後、だな」 「ね。さっきもあっちに落ちてた」 「だいぶ温かくなったからな。蛇も活発になってるんだろう」 これを脱ぎ捨てた張本人は、見た限りでは今現在、近くにはいなさそうだ。 しかし油断はできないと義勇は早々に立ち上がる。 「毒があるかも知れないから、気をつけよう」 そうして掌を差し出せば、遠慮がちに名前が添えたのを満足して優しく引いた。 「あ、ありがとっ」 手を離すことなく歩き出したところで、義勇はふと思い出す。 「蛇の抜け殻と言えば…、昔錆兎にからかわれてたな」 「…え?そうだっけ?」 当の本人は記憶がないのか目を丸くさせていて、話を振らなければ良かったかと少しばかり後悔もした。 しかし口に出してしまった今、誤魔化しも到底効かない。 「覚えて、ないか?錆兎が抜け殻を本物の蛇のように…」 「あっ、そうだ!思い出したっ」 途端に尖らす口を見て、義勇の口元は真逆に動いていくく。 それはいつだったか。 名前が狭霧山に来てそこまで日が経っていなかったように思うし、その頃には塞ぎ込んではいなかったから、少し間が空いていたかも知れない。 初めての山暮らしは、さぞかし新鮮だったのだろう。鱗滝の後ろをついていっては輝かせた瞳で何もかもを興味津々で眺めていた。 そんな名前を一番に面白がったのは、勿論錆兎である。 まだ大自然への耐性が低い彼女に、単純な悪戯心が働いた。 ある日、そこいらで拾ってきた蛇の抜け殻を、まるで本物と錯覚させるように名前の肩に乗せるという典型的な罠を仕掛ける。 そこからの騒ぎは、相当なものだった。 混乱して叫ぶ名前と、何が起こったのか良くわからないまま狼狽するしかない義勇。そしてそんな二人を前に腹を抱えて笑う錆兎も、わっと泣き出した姿には面を食らったあと、義勇とともに宥めることに終始する。 しかし全く効果はなく、そのあとすぐ帰還した鱗滝が呆れながらも名前をあやしつつ、錆兎へ軽く苦言を呈していたのを、義勇は見守るしかできなかった。 あの時感じた胸の痛みは、今になって良くわかる。 方法こそ不器用であろうと、そうして名前の心を解いていく錆兎の優しさを羨んでいた。 そうして、魅力的に感じていたのだ。 少なくとも陳腐な台詞しかかけられない無力な自分より、何倍もカッコイイと。 だから名前もそう思うに違いない。そんな風に感じていた。 「錆兎はいつも、自分が悪者になってでも俺達を思って、動いてくれていたな」 思い出せば、いくつもの場面が鮮明に蘇る。 不器用故に言葉が悪くとも、本当に錆兎が義勇と名前を見限ったことなど、ただの一度もない。 時には厳しすぎる叱咤も相手のことを思っているからこそ出たものだったのと、今なら痛いほどに理解できた。 きっと名前も、同じように感じているのではないか。 自然と沸いた期待は、義勇を見つめるまんまるな瞳に打ち消された。 「……どうした?」 それが疑問が沸いている時にする表情だというのが読めるため、敢えて訊ねる。 しかし返ってきたのは、 「だから、義勇もそうしてたの?」 余りにも想像とは異なるものだった。 ──……どうして 言葉に詰まる義勇に、その瞳はますます丸くなっていく。 「ときどき、思ってたの。まるで、義勇が錆兎になったみたいって」 狭霧山を下りた時かけられた台詞もそうだが、おおよそ関わりがなくなっても周りから聞く噂は名前を困惑させるものばかりだった。 今まで自分が知る冨岡義勇という人物からは想像もつかない言動の数々も、その階級が柱になってから、ふと心付く。 もしかしたら、必死に錆兎のために生きているのではないかという、ひとつの可能性に。 しかし実際、義勇の心に触れたことでそうではないことも、のちに知った。 「……そんなに、似てたか?」 「うん。さっきも、ちょっと思った」 「いつだ?」 「蛇の抜け殻を、見つけたとき。すごく冷静に、状況を判断してて、昔だったら私といっしょにすごいねって、笑ってた、から」 「……そう、か?意識していたわけじゃないんだが……。すまない」 咄嗟に首を横に振る名前は、慌てた様子で続ける。 「ちがうの!悪いとかじゃっなくて!」 弛んでいた手の繋がりが、力んだことで再度強く互いの体温を感じた。 「どっちの、義勇も、好きだなって思って……」 俯いて隠すのは、これでもかと紅潮した顔。 「…名前」 その頭を撫でようにも左手は強く握られたままで抜け出せない。代わりに抱き締めようと右上腕を動かした時だ。 「…義勇、あのね。あ、あ愛してるっ!」 叫んだその内容に、瞬きすらもできなくなった。 暫し流れる沈黙の間にも、真っ赤にさせた顔は俯き続けている。 肯定をしなければ。 例えば「俺もだ」そんな一言でもいい。 ようやく働き出した思考は、 「やだ…!へ、変な言い方になっちゃった……!」 突然顔を覆う両手でまた止まる。 「ご、ごめんねっ忘れて…!」 しかしただ思うのは、可愛い。その一言だ。 「名前」 できるだけ優しい声色で出した呼び掛けは耳に入ってないようだった。 「…ちゃんと、い、い言いたかったのに…っ。なんで…」 ひとり反省を続ける姿は恥ずかしさ故か吃音がさらに強くなっていく。 「名前」 さきほどより張り上げた声も聞こえてはいないのだろう。 「名前」 右耳に近付けた口唇でもう一度繰り返せば、 「ひゃあっ!」 すぐに悲鳴が上がった。 思わず鳴らしてしまいそうな喉を我慢しては、抱き寄せる。 「恥ずかしがらなくていい」 「……でもっ」 「嬉しかった」 「……う、うれしいの…?」 「あぁ、とても、嬉しい」 意思とは関係なく、笑顔が零れた。 こんなにも拙い、そしてこんなにも心の籠った「愛してる」を伝えられたのは人生で初めてだという喜びが、義勇の中で温かく沁みていく。 代わりにというわけではないが、その身体を力強く抱き締めた。 「名前」 「うん…?」 ようやく顔を上げた気配がして、身体を離して見つめ合う。 「俺も愛してる」 速くなった瞬きが驚きを表して、細まる瞳が喜びを伝える。 「うんっ」 大きく頷く笑顔は義勇にとって、言葉にならないくらいとても愛おしいものだ。 だからこそなのだろう。 「もう一度、言ってくれないか?」 今度はまるで凍り付いたように笑顔が止まる表情すら眺めていたくなった。 「……。もう一度聴きたいんだが、駄目か?」 今ならほんの少し、錆兎が名前をからかっていた理由も理解ができる気がする。 「…あ、あ、ああいっあい」 まるでゼンマイが狂った玩具のように、パクパクと動く口に義勇は耐え切れず笑い出した。 「ははっ。冗談だ。無理しなくていい」 「……もうっ!義勇までっ、そうやってからかう!」 「錆兎に似たのかもな」 見つめ合ったあと、二人同時に笑い出したのは、 「お前らなぁ」 そんな溜め息混じりの優しい呆れ顔を容易に想像できたからだった。 Memory 色褪せることなく [mokuji] [しおりを挟む] [back] ×
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