雲路の果て | ナノ 58

隊士達に運んで貰っていた必要最低限の荷物を風呂敷に包んでから、念入りに引き出しの中を確認していく義勇の動作に、三人が苦笑いを溢した。

「もし忘れ物があっても私達が届けますから大丈夫ですよ」

その言葉に四段目の取っ手に掛けようとしていた手を止める。
「…そうだな」
届けてもらわずとも、名前の事だ。
この蝶屋敷にはさして間を置かず、手伝いという形で顔を出し続けるだろうと後ろを振り向く。
開け放たれた窓から外を眺めている横顔は、先程泣き濡れた余韻を残しつつも、極めて晴れやかなもの。
吹き込んでくる柔らかい風で、時折揺れる髪を整えていく右手に見惚れていたのを気付いてから口を開く。
「…名前」
その耳に聞こえるよう声量を上げた。
遠くを見つめていた瞳は、義勇へと向けられた事で更に温かいものになる。
「ん?」
「そろそろ行こう」
「うん」
大きく頷くと黒猫が入った移動箱と風呂敷を両手で抱えた。
「どちらか持つ」
「ううん、大丈夫。私が運びたいんだ」
笑顔を見せると両腕に込める力を感じて
「そうか。わかった」
短く答えると自分の風呂敷を持ち上げる。

「どうぞ」

廊下へ続く扉を開ける三人に誘導され、義勇が歩を進めたのに続いた。
しかし敷居を跨ぐ直前で立ち止まるとおもむろに振り返る。
「苗字さん…?」
呼んだ名は、その耳に届いていなかった。
音も立てず舞う花弁は桜花だというのに辺りを包むのは藤花の匂い。
優しく微笑む幻影を垣間見た気がして、顔を綻ばせた後、深々と頭を下げた。


雲路の


蝶屋敷の門前、三人は横一列に並ぶと背筋を伸ばす。
「苗字さん、冨岡さん、ご退院おめでとうございます!」
勢い良く下げた三つの頭部が上げられてから礼を言おうと間を置いても動こうとしない姿に名前が口を開こうとした時だった。

「短い間でも、苗字さんの許で鬼殺隊として働けた事、私達一生忘れません」

横から聞こえる鼻を啜る音と、それに誘われるよう息を止めた名前の気配を感じ、同期の脛を順番に蹴っていく。
「…ッ!!」
「…!」
声にならない声を上げた所で名前へと向き合った。

「またいつでも来てくださいね。私達も遊びに行きます」
そうして笑顔を見せれば
「はい!」
嬉しそうな返事が返ってくる。

そうして思い返すのは子供みたいに泣いている名前を、皆が懸命にあやそうとする光景。
温かさに満ちていたあの空気は、きっとこの笑顔が在ってこそなのだろう。

炭治郎達とひとまずの別れを告げる時、名前は
「またね!また会おうね!」
そう、言い聞かせるように告げた。

だから、自分達と別れる際には涙は見せないと決めた。

会えない訳ではない。悲しくはない。
明日でも明後日でも、寂しさを感じた時にはいつだって、会う事が出来るのだという安心を、して欲しかった。

実際、蝶屋敷の筆頭、栗花落カナヲと神崎アオイが今現在、わざわざ自分達のように大々的な見送りをしないのは、そんな事をしても数日後には笑顔の名前がひょこりと顔を見せるのを予見しているためだ。

歩き出した二人の背を見送れば、数歩進むごとに振り返っては、収納箱と風呂敷を抱え直し右手を大きく振る動作に耐え切れず口元に手を添える。
「転ばないでくださいね〜!」
その言葉が届いていたかどうかは定かではないが、とにかくその姿が見えなくなるまで見送ってから、同期二人に向き直る。

「アンタ達、泣かないって約束したでしょ!?」

腰に手を当てると強い視線を向ける先、脛を押さえ蹲る姿にますます眉が真ん中へ寄っていく。
「いつまでも痛がってないで!仕事に戻るわよ!ただでさえやる事たくさんなんだから!」
口早にそう言うと、蝶屋敷へ戻ろうとする背後、二人分の返事を聞いた。

* * *

「あったかいねぇ」

久々に歩く外の匂いを噛み締めるように深呼吸をする名前に、義勇は頬を弛めると同じように空を見上げた。
流れていく朧ろ雲越しに見える陽の光に目を細める。
「そういえば、義勇。どこ行くの?」
突然の発問に視線を向ければ疑問に満ちた瞳を目が合った。
「何処って…俺の屋敷だが?」
「あれ?そうなの?私てっきりあっちに帰るのかと…」
反対方向の自家を差す人差し指が困惑している。
「帰るのは名前の家だ。しかしお前が水柱邸に行きたいと言っていただろう?今日一日は俺の方で過ごそう」
「…いいの?」
「当たり前だ。それに引き払うまでに荷物も纏めなきゃならない」
「私も手伝うね!」
「あぁ、助かる」
互いに笑顔を交わしてから、義勇の屋敷までの道のりを歩いていく。
「途中で何処か、小間物屋に寄っても良いか?」
「うん」
間髪入れず快諾した名前に、義勇は一度視線を落とすと自分の羽織りに目を止めた。
「禰󠄀豆子に礼をしたいんだが…、正直何を贈れば良いのかわからない。一緒に選んでくれないか?」
驚いたように何度か瞬きをすると、またその表情が嬉しそうに綻ぶ。
「うん!」
何がいいかなぁ?と空を仰ぎ見ながら歩くその姿に
「転ぶぞ」
ついその一言が口を突いて出た。


「いらっしゃいませ〜」

藍染の暖簾を潜ると、感じの良い笑顔と挨拶を向けてくる店の主人に、名前は小さく会釈をすると義勇の背中へ続く。
所狭しと並べられた白粉や紅、色とりどりの簪を目に入れて
「…わぁ、すごい」
素直に感嘆の声を出した。
「贈り物かな?お嬢ちゃんにはこういうの似合うと思うけどね〜」
そう言いながら簪を二輪程差し出す手に、動揺し両手と共に大きく首を振る。
「えっと、私じゃなくて…禰󠄀豆子ちゃんに…」
「ねずこちゃん?友達か何かかな?」
返答が見つからず更に困っていく表情に、義勇は簪を見つめていた顔を上げた。
「妹のようなものだ。世話になった礼を探している」
「あぁ、成程!若い娘さんならやっぱりここら辺の、華やかなのが良いんじゃないかなぁ?」
五本指で差した先へ視線を落としてから納得する。
確かに銅や銀の単色使いのものより、今主人が薦めている合成樹脂で作られた簪の方が色味が映えていた。
「名前はどれが良いと思う?」
「…これ、可愛いね。桃色のお花。禰󠄀豆子ちゃんに似合いそう」
「お、良いねぇ。これはつまみ細工で作られていて若い子にも人気があるんだよ」
「ならそれを貰おう」
「はいよ〜。じゃあ包んできてあげるからちょっと待ってねぇ」
「いいの?私が選んだやつで。義勇も…」
「正直俺にはこういう物の細かい違いがわからない。名前が選んだ物の方が禰󠄀豆子も喜ぶ筈だ」
嬉しそうに顔を綻ばせる姿からまた簪に視線を落とす。
「名前も選んでくれ」
「…え?」
「折角だから何か買おう。簪じゃなくてもお前が欲しいと思ったもので構わない」
義勇の提案に、一瞬悩んだように品物をひとしきり見つめた後、小さく首を横に振った。
「ううん、今日はいいや」
「遠慮しなくて良い」
「遠慮してないよ?どれも素敵で、すぐには決められそうにないから…また今度一緒に来よう?」

"また今度"

その言葉に、今度は義勇の頬が弛みそうになってしまう。
「そうか。じゃあ、そうしよう」
返事の代わりに笑顔を返す名前に少し間を置いて、主人が色鮮やかな千代紙を差し出す。
「お待たせ〜。ねずこちゃん、喜んでくれると良いねぇ」
見ず知らずの名をまるで知悉しているかのように呼ぶ主人が何だかおかしくて、二人は笑みを溢しながら同時に頷いた。


小間物屋を後にして、暫く歩いた所で名前が小さく
「あ」
と声を上げる。
「どうした?」
「今日、夕飯どうしよう?」
突然の質問にすぐにはわからなかったが思考を巡らせてから気付く。
退院したばかりでは、屋敷に食糧と言える物が何もないという事に。
この町を出る前に、何かしら調達をしていかなければならないだろう。
「何か食べたいものある?」
「鮭大根」
一切間を置かず答える義勇に、名前は小さく噴き出した。


必要最低限の物を買い込み、義勇がそれを持ちながら、今度こそ真っ直ぐ屋敷へと向かう。
「クロ〜?もうすぐ着くからね〜」
笑顔で移動箱の中を覗き込む名前は何処となく楽しそうで、それが伝わってくる度に、自然と義勇の口角も上がった。
先程鮭を買った際、
「奥さん、今日は何作るの?」
そう訊かれ、頬を赤らめ狼狽えていた姿を思い出し、愛おしさが込み上げる。
気が付かれぬよう横顔を眺めていた所で、その瞳が上方へ動くと一際輝いた。
その先を追えば、見慣れた水柱邸が視界に入る。
「着いたよ〜クロ〜!義勇のお家!」
嬉しさを隠す事なく顔を綻ばせる横顔に、門を潜る前に口を開く。
「そんなに喜ぶ事か?」
「だってずっと訪ねてみたかったんだもん。どんなお屋敷なのかなぁ?」
期待に胸を膨らませながら義勇に続いて、その門を潜った。
「何もない」
短く答え、開けられた玄関。
留守の間、癸の隊士二人が時折掃除をしていた事もあり、此処で義勇が暮らしているという事実が如実に感じられ、胸の高鳴りを感じる。
しかし、進むにつれ、しん、と静まり返った雰囲気は家主が長期間不在だったという事実だけではない寂寥さが漂っていて、名前は意識せず小さく息を呑んだ。
無機質なその空間に、まるで最初からそこには誰もいなかったような錯覚さえ起こしてしまう。

先程の喜々とした表情が一変した事に気付き、義勇は溜め息混じりに声を出した。

「だから言っただろう。何もない、と」

此処には何も置いていない。
哀しみも、苦しみも、何も留まらせないようにした。

水柱邸として与えられてから、此処を自分の家だと思った事は、ただの一度もない。
自分はただの仮住まいで、真の水柱が現れるまでの繋ぎ。
いつでも出て行けるように、必要最小限の物しか手元には置かず、身体の状態を維持するためだけに帰って来ては床に就く。

それこそ炭治郎が此処に来るまでは、誰も訪ねては来なかったし、誰も招こうともしなかった。

義勇が抱えていた深淵の後悔へ間接的に触れた事で、翳を落としていくその表情が更に哀しみに満ちてしまわぬよう、口を開く。

「その分、名前の屋敷には俺が望むものが全てある」

此処には何もない。
敢えて何も、残してこようとしなかった。

けれど、あの場所には意識せずとも、沢山の感情と、情景が連なっている。
そして、これから先も、積み重ねていく事が出来る。

意識して出した柔らかい声色に、名前は瞬きの間にその意味を理解したように、ゆっくり微笑む。

「うんっ」

心の底から見せる安堵に満足して台所へ向かった。
足を踏み入れた途端、名前が驚きの余り敷居内に踏み入れようとして止めた右足を眺める。
先程からコロコロと変わっていく表情に、都度、笑いの発作を抑えるのがそろそろ難しくなってきた。冷静ながらも義勇はそう思う。
「…どうした?」
「すごい!義勇のお屋敷、ガス竈なの!?」
視線を向けた先、一新された見慣れぬ竈にあぁ、そうか忘れていた、と名前へと視線を戻した。
「元からじゃない。俺も今日初めて見た」

それは無惨との死闘から、ひと月が経った頃。
利き手を失くした義勇がこれから何不自由ない生活を送れるよう、産屋敷輝利哉が設置させたもの。
結局それも、引き払うという選択をした事で、無駄になってしまった。

「風呂釜も新しくしたと、お館様は言っていたが」
途端に目を輝かせると、うずうずしているのを察知して指を差す。
「風呂場はあっちだ。見たいなら見てきて良い」
「いいの!?」
言うや否や、移動籠や荷物を抱えたまま小走りしていく背中を眺めてから、息を吐いた。
買ってきたものを片付けようと冷蔵箱を開けた所で、トタトタと聞こえる足音が近付いてくる。
「義勇!すごい!お風呂が全然違うよ!?」
まん丸にさせている瞳に、振り返ってから
「そうか」
短く返すと鮭をその中に入れた。

何もない、とは言ったものの、こうして新しいものに触れ、驚きに満ちている姿を見ていると招いて良かった、心の底からそう思える。

「お館様は名前の屋敷にも同じ物を設置させると言っていた。近々使いの者を寄越すそうだ」
「…え!?い、いいのかな…そんな…」
「良いんじゃないか?お館様のご好意だ」
「…お礼のお手紙出さなくちゃ…」
食材をしまった後、振り返れば未だ移動籠を抱えたまま立ち尽くしている名前。
「クロは出さないのか?」
その質問に眉が下がっていく。
「…出していいの…?」
「ずっとその中では窮屈だろう」
「…そうなんだけど…。クロ、どこでも爪とぎしちゃうから…」
名前が憂慮している原因が何か考察する先で心付き、移動箱を攫うと床に置いた。
間を置かず扉を開けると
「にゃぁ」
小さく鳴きながら姿を見せた頭を撫でる。
「何処で爪を研いでも構わない」
目を細める義勇に、名前は安心したように頬を弛ませた。
「にゃー」
返事をするように鳴いた後、その脚絆に前脚を掛けた瞬間、バリバリッ!と鋭い音を立てた。
「…クロ!?」
狼狽しながらその身体を両手で掬うと抱き抱える。
「何するのダメだよ!!それ義勇の足!!」
「…にゃ〜」
まるで首を傾げるような動作をする黒猫から固まったままの義勇へ顔を向けた。
「大丈夫!?」
「…まさか俺で爪を砥ぐとは思わなかった」
小さく呟く姿に視線を合わそうと屈みこむ。
名前の視線の先、義勇は堪え切れずくつくつと喉を鳴らしていて、包まれる穏やかな空気に
「ふふっ」
小さく笑い声を上げた。


Cheerful
噛み締める幸福

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