襟元を留めてから、自分の着物を羽織る。およそ三ヶ月ぶりとなる隊服の懐かしさに、名前は人知れず笑顔を溢した。 しかしそれと同時に、袖を通すのは本日が最後であろう事に若干の寂寥も感じていた。 「苗字さ〜ん?もう入って良いですか〜?」 扉越しに聞こえる呼び掛けに顔を上げると声を出す。 「はい、大丈夫です!」 ガチャッ、と音がして開けられた先には階級癸として鬼殺隊に所属していた三人。 隊士としての籍を外れても尚、未だ黒い隊服に身を包んでいるのは "苗字さんと冨岡さんを見送るまでは、部下でいたいんです" そう告げた強い意志からだった。 「…苗字さんの隊服姿、久し振り…」 「そうですよね。変じゃないですか?」 確認するようにあちらこちらへ顔を向ける動きに三人が一斉に首を振る。 「変じゃないです!」 「カッコイイです!」 「綺麗です!!」 バラバラの言葉が一斉に重なった。 一度止まった空気に我へ返ると耳打ちをする。 「ちょっと、ねぇ、綺麗ってどさくさに紛れて何言ってんの?」 「お前が苗字さんの事口説いてましたって報告すんぞ」 「そ、そういうんじゃないけど…つい思った事が…」 罰が悪そうに小さくなる姿に、二人は顔を上げると名前を一瞥し、まぁ確かに、と小声で認める。 元々、可憐ではあった。それは此処にいる三人だけではなく、名前を見た誰もが思うだろう。 ただ最近、可愛らしさだけではなく、そこはかとない清艶さが滲み出ているのを感じている。 "綺麗"と口を突いて出るのも仕方がないのかも知れない。 しかし当の本人の名前は先程からずっときょとんとした表情をしていて、その態度で全く聞き取れてなかった事を悟った。 雲路の果て 「そういえば冨岡さんは?」 先程から姿が見えないと辺りを見回せば丸くしていた瞳が笑顔に変わる。 「炭治郎くん達と鱗滝さんの見送りに行ってます」 予定通り、今日この日を以って炭治郎達は生家へ帰参する。 鱗滝もほぼ同刻に狭霧山へと戻るため、共に挨拶へ向かう義勇を名前は笑顔で見送った。 「苗字さんは行かなくて良いんですか?」 「はい。鱗滝さんにも炭治郎くん達にもその前に挨拶したので」 きっと、炭治郎、義勇、そして鱗滝にしか出来ない募る話もあるだろうと「一緒に行かないのか?」と若干驚いた表情をした二人に、小さく頷き、此処で待つという選択をした。 何も訊ねる事なく、名前の意思を尊重した二人には、きっと正確に真意を悟られているのだろう。 そう考えながら、ゆっくりしゃがむと足元に擦り寄る黒猫の頭を撫でる。 「そっか…。皆、バラバラになっちゃうんですね…」 その言葉を受けて、眉を下げながらも微笑んだ。 「大丈夫。また会えます」 そう。 会えなくなる訳じゃない。 生きている限り。何処かでまた会える筈だ。 それでも何処かで心に沁みていく寂しさを感じない訳ではない。 だから、見送る事を避けた。 また会う事は出来る。 頭ではわかっていても、その背中達を見送るのに涙を我慢出来るとは、到底思えなかった。 「鬼殺隊は、今日で解散を迎えた」 義勇が産屋敷邸から帰還したのは、まだ陽が僅かに下方へ傾いた頃。 ベッドの縁に腰を掛けると、穏やかな表情でそう名前へと告げた。 解散という事実は、何処か複雑な感情を呼び起こさせたが、これから尊い命が失われる憂慮がなくなったというその一点に於いては、これ以上に喜ばしいものはない。 今後の明確な指針を示された事で、炭治郎達が退院を迎える日に、自分達も蝶屋敷を出ようと決めた。 そうして未だ静養を続ける隊士や隠に挨拶へ回った所、既に鬼殺隊の解隊を耳に入れていた彼らは、何度も礼を言いながら涙を流した。 それは個々に色々な想いを抱え、耐え切れず溢れたもの。名前はその様子を眺めながらも、考えていた。 生きていても、これからこうして顔を合わせられる人々は、ほんの一握りしかいないのだろう、と。 曲げようのない真理に一抹の寂しさを覚えた事で、益々炭治郎達を見送れなくなってしまった自分の弱さに溜め息が零れた。 そろそろ義勇が戻ってくる頃であろうと、喉を鳴らしながら寝そべる背中を撫でる手を止め立ち上がる。 「クロ〜?そろそろこの中に入るよ〜?」 そう言ってもう一度しゃがむと床に置いたのは移動箱。 「…何ですか?それ。木の鞄?」 興味津々な三人分の視線へ笑顔を向けた。 「クロを運ぶために鱗滝さんが作ってくれたんです」 禰豆子を運ぶために制作した箱と同素材の霧雲杉と岩漆で出来ているが、主な相違点はその形状。 半分程の大きさのそれは、背負うものではなく手に提げられるよう短い持ち手が装着されており、扉には織り込まれた竹が窓の役目を果たしている。 「…あの天狗の、人ですよね?すっご…こんなの作れるなんて…」 「鱗滝さんはすごく器用で、何でも作れちゃうんですよ」 扉を開けた先、新しい匂いに興味があるのかくんくんと小刻みに鼻を動かしながら徐々に進んでいく。 身体が完全にその中に入った事を確認してからそっと扉を閉めた。 「家に着くまでこの中にいてね?」 そう声を掛けると理解をしているのか 「にゃぁ」 返事をしたような短い鳴き声に笑顔が零れる。 立ち上がると綺麗に整えられた二つ分のベッドを見止め、また何処となく懐かしさが込み上げた。 たった三ヶ月という期間でも、此処で過ごし得たものは、何一つ忘れてはならないと思える程に、大事な時間だった。 だから、進む事ができる。 棚にしまっていた新聞紙を取り出すと風呂敷で包んでいく名前の表情は心から朗らかなもので、三人の心に安堵が広がっていく。 「冨岡さんが戻ってきたらもう行っちゃうんですか?」 キュッと布音を立てた結び目から視線が動いた。 「はい。もう片付けも済みましたし…」 思わず言葉を止めたのは、それぞれに悲しみを帯びている事が伝わってきたため。 風呂敷から手を放すと真っ直ぐその姿と向き合う。 「本当に、お世話になりました」 深く頭を下げる名前に、狼狽したものへ変わっていく。 「お世話になったのは私達の方です!」 「苗字さんがいなかったらそもそも俺達生きてませんから!」 「そうですよ…!顔を上げてください…!」 それでも身動ぎしない姿に言葉を詰まらせたと同時 バァンッ!! 勢い良く開いた扉から飛び出して来たのは猪頭。 「テメェ!!見送りにも来ないとはどういう了見だアァッ!?」 名前の姿を見止めるなり勢い良く人差し指を差した所で、足の裏に感じる床材ではない柔さと温度に動きを止める。 真下を向けば、踏み付けている滅の文字に首を傾げた。 「何でこんなトコで寝てんだコイツ」 「寝てないわッ!!またアンタなの!?」 怒りに任せ起き上がる背中に右足が自然と上がった事で軸を崩した伊之助。 その隙をつき襟首に手を伸ばすも取っ掛かるものが何もない事で猪頭を掴んだ。 「テメェ!汚い手で触んじゃねェよ!!」 「汚い足で踏み付けてきたのは何処のどいつよ!!二回も踏み付けにしやがって!今日という今日は許さないから!!」 「あぁ!?それが先輩に対する態度かよ!?年功序列ってモンをわかってねぇなこの弱味噌!!」 ぎゃあぎゃあと言葉の応酬が続く中、入ってきた善逸の 「お前もわかってないし…。そもそもその言葉教えたの俺だから」 呆れに満ちた呟きを耳に入れる事が出来たのは同期の二人だけ。 「どう、したの?」 目を丸くすると瞬きを繰り返している瞳に善逸が説明しようと口を動かしたと同時 「名前さんすみません!!伊之助が…」 若干息を切らした炭治郎と禰豆子が現れた。 その後に続くのは呆れたように目を細めた義勇の姿。 「…どうしたの?」 更に驚きで満ちていく名前が繰り返す言葉に 「伊之助が名前さんに挨拶したいって…」 答える炭治郎の声も 「そういえばアンタの素顔見た事なかったわ!コレ取りなさいよ!!」 「引っ張んなッ!!テメェみたいな生意気な部下に見せるモンはねぇんだよ!!」 「解散したんだからもう上司じゃないもんね〜!!アンタなんか今やただのイノシシよ!!」 取っ組み合いを始める二人の怒鳴り声で掻き消され、その耳には届かない。 それでも険しい表情をしながら懸命に右耳を傾け、音を拾おうとする動きを察し、義勇は未だ争いを止めない二人の傍らに立つ。 「だぁぁ!テメェまたイノシシっつったな!?」 そうして詰襟を粗雑に引っ張る伊之助の手を掴んだ。 「声量を抑えてくれないか。名前の耳に負担が掛かる」 別段張り上げたものでもないその口調で、ピタリと二人の動きが止む。 「ごめんなさい…!」 「何だと半々…」 反論しようとした伊之助の言葉も、視線を動かし止まる。 未だに音を拾おうと集中するため、ギュッと目を瞑り右耳を差し出している姿にグッと喉を鳴らした。 返事の代わりに詰襟を掴んでいた手を弛めた事で、義勇の手も自然と放れる。 突如訪れた静寂に、名前の瞳がゆっくりと開かれた。 「どうしたの?皆」 「どうしたじゃねぇ!お前俺達の事見送らねェっつったらしいじゃねぇか!!何でだよ!?」 「すみません押しかけちゃって…。ほら!名前さんも忙しいんだよ!お前と違ってさぁ!」 善逸が伊之助を回収しようと腕を掴むが、あっさりと交わしまた勢い良く指を差した。 「見送りはご武運を祈るんだろ!?お前は俺達のご武運を祈らねぇって事だな!?」 「…あ、えっとそれは…違うの…!」 「じゃあ何だよ!?」 喩え今生の別れでなくても、寂しい。 そう口に出そうとするも迷いに迷った挙句、ギュッと両手を握ると目を伏せた。 その代わりに義勇が口を開きかけたのと同じく 「伊之助、名前さんの事待ってたんですよ。渡したいものがあるって」 炭治郎の声が響く。 途端にグッと押し黙る猪頭を促すように背中を押した。 「ほら、伊之助っ!」 「…チィッ!」 ドカドカと足音を立て進んだ名前の前、粗雑に差し出した一枚の紙。 「やる」 「………」 恐る恐る両手で受け取った先、筆で認められた "苗字 名前"。 「…伊之助くんが、書いてくれたの…?」 明確な返事こそはないがその沈黙が肯定を示唆していた。 徐々にその文字が滲んでいく。 「…すごいね。とっても、あったかい字だね…」 笑顔を深めたと共に、流れる涙に猪頭がわかりやすく狼狽した。 「ヤベェッ!!泣いたぞコイツッ!!どうすんだ!?どうすんだよ!?」 助けを求めようと辺りを見回すも炭治郎達は穏やかに微笑うだけ。 「…ごめんねっ…!嬉しくて…っそれ…に…」 声にならず、顔をくしゃくしゃにしながら小さく震える肩。 それでも言葉を絞り出そうとしているのに気付き、義勇は伸ばそうとした左手の力を弛めた。 「もうみんなここにいなくなっちゃうの…すごく…さみしく…なっちゃって…!ごめんねっ…!見送りっできなくて…!」 今しがた受け取ったばかりの紙を大事に抱き締める。 大粒の涙が床へ落ちる前に、駆け寄った禰豆子の両腕がしっかりと回された。 「名前さんっ!また絶対遊びにきます!絶対来ますから!!」 禰豆子の瞳から一筋の涙が伝っていく。 「禰豆子ちゃあぁん!名前さぁあん!泣かないでぇえぇぇ!」 目に涙を溜めた善逸が禰豆子越しに抱き締めた事で 「そうか!抱き締めりゃ泣き止むんだな!?」 閃いたといわんばかりに三人へ両腕を回す。 「ちょっと!何やってんのイノシシ!苗字さんが潰れちゃうでしょ!?」 引き剥がそうと軍袴を引っ張るもビクともしないのを同期二人が何とも言えない表情で見つめた。 炭治郎は苦笑いをしながらも、その光景を呆れ混じりに目を細くしている義勇へ視線を向ける。 「…すみません、義勇さん。結局押し掛けてしまって」 脳裏へ蘇るのは鱗滝を見送った後。 「で!?何でアイツは来ねぇんだ!!」 伊之助の苛立ちを隠さない口調に、静かに答えた。 「見送りはしたくない、部屋で待っていると言っていた」 告げた内容に怒りが満ちたかと思えば間髪入れず走り出していく伊之助を炭治郎達は止めようとした。 しかしまだ体力が全快ではない炭治郎に制止する事は出来ず、出遅れた背後、義勇だけは別段慌ててる様子もなく、伊之助を止める気配もなかったのを思い出す。 そして、今もその匂いは常と変わらない。 だが、炭治郎の言葉を受けて若干厚情が強くなったのは感じていた。 「いや、これで良かった」 僅かに上がる口端と共に温かさを増した匂い。 「…義勇さん、もしかしてわざと伊之助を…」 禰豆子達と一緒に声を上げてわんわんと泣く名前を見つめる瞳がこれ程になく愛情に満ちていて、炭治郎は続く言葉を呑み込んで、笑顔を零した。 Reliance 信服あればこそ [mokuji] [しおりを挟む] [back] ×
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