雲路の果て | ナノ 59

「義勇!すごいよ!火の調節が簡単に出来るの!」

嬉々として台所に向かう名前の昂りが若干落ち着いてきた頃、食欲をそそる匂いが辺りを包んで、クンクンと鼻を動かす黒猫が爪を立てる気配がない事を確認してから、義勇は視線を竈へ向けた。
「米は炊けたか?」
「うーん、と、もうちょっと…かな?」
「そうか。その間に食器を出しておく」
「ありがとう」
左手一本でありながら、当然のように台所に立ち続ける義勇の姿を見ながら、名前は笑顔を深めると竈の火を消す。
先程皿に取り分けて置いた鮭から粗熱が取れたのを確認してからその身を菜箸で解した。
「クロも一緒に食べようね〜」
視線を足元へ向けたと同じくして
「にゃー」
返事をするように鳴いた後、またクンクンと鼻が動く。
「お腹空い…」
おもむろに納戸を開けると片手で何かを抱える義勇の動作に言葉を止め、駆け寄った。
「大丈夫?」
「これ位造作もない」
涼しい顔で言うと作業台へ置いたのは黒柿色の壺。
「なぁに?これ」
「糠漬けだ」
蓋を開けた先、丁寧に均された糠床を見つめ瞬きが多くなる名前とは対照的に、義勇の眉が若干下がった。
「…やはり駄目か…」
小さく呟くと早々に蓋を閉じる動きに疑問を口にする。
「…ダメ、なの?」
「放置し過ぎた。カビが生えてる」
やはり、と口にしたのは、およそ三ヶ月という期間、一度もこの中を手入れしていないという懸念によるもの。
恐らく腐ってしまっているだろうと予想はしていた。
それでも、もしかしたら、という淡い希望を抱いていたのもまた事実。
しかし表面を覆う白い胞子で、その中身が手遅れだという事は一目見ただけで明らかだった。

「義勇、漬物作ってたんだ…」
驚きに満ちた瞳へ空の食器を渡せば、意味を悟ったように鮭大根をよそっていく。
「最近始めた」
「最近?」
「柱稽古が始まった辺りからだ。毎日屋敷に居る時間が増えたから、漬けてみた」
「そうなんだ。…あ、鱗滝さんもいつも糠漬け作ってたよね」
「あぁ」
よそった皿を義勇へ渡すと、その左手が御膳へ置いた。
流れ作業のように繰り返しながら滑らかな会話が続いていく。
「鱗滝さんのきゅうりの糠漬け、大好きだったなぁ」
「そういえば、錆兎に取られて本気で泣いてたな」
脳内を駆ける光景に、つい笑いが零れてしまうのを名前は不満そうに口を尖らす。
「だって錆兎、私が取っておいたの知っててわざと食べちゃうだもん」
「あの時の狼狽えようは面白かった」
「…私の?」
「錆兎の」

恐らく本気で泣くとは微塵も思っていなかったのだろう。
次の日から暫く自分の好物を名前の皿へ献上していた不器用な姿を思い出す。

今でも鮮明に蘇ってくるその姿に、幾許かの寂寥を感じながら、こうして昔話に花が咲かせられるようになったのは、紛れもなく前に進んでいる証拠だと、互いに目が合って微笑んだ。


雲路の


「あ、運ぶね!義勇は先に座ってて?」
「わかった。クロの飯を運んでおく」
「…うん、ありがとう」
御膳を両手で抱える名前の後ろを、皿を持つ義勇、そしてその匂いにつられついていく黒猫が廊下を進んでいく。
「義勇の糠漬け、食べてみたかったなぁ」
居間へ御膳を配置しながら、若干残念そうにそう言う。
「俺も、鱗滝さんのように上手く出来たら、名前に食べさせたいと思っていた。だから作り始めたんだが…」
照れくささも手伝い、語尾に進むにつれ、その耳に聞こえるか聞こえないかという声量で呟きになっていく。
「…義勇」
しかし、それはしっかりと拾われていたらしい。
途端に嬉しさで顔を綻ばせる瞳から視線を逸らし、持っていた皿を床へ置く。
「クロ、飯だ」
間髪入れずに食らいつく姿を二人で眺めてから
「…あ」
小さく声を上げるとまだ運んでいない御膳を思い出し、台所へ戻ろうとする名前に義勇が続いた。
「待ってていいよ?」
「まだ急須を運んでいない」
「あ、そっか」
互いにそれを持つと一息吐く暇もなく、再度来た道を戻っていく。
「義勇のお屋敷、広いから大変だね」
此処に足を踏み入れてから、既に往復を繰り返している廊下を進みながらつい小さく笑った。
「そう考えると名前の家に住むと決めたのは正解だったな」
「そうだね。義勇の負担が大きくなっちゃうもん」
「俺よりお前が…「ねぇ義勇」」
前触れもなく振り向く姿に、グッと足に力を入れた事で衝突しそうになったのを何とか避ける。
真剣な瞳に、何を言い出すのかと身構えた瞬間

「また、糠漬け作ってくれる?」

出されたその言葉に、義勇の瞬きが早くなった。

「…わざわざ畏まらなくても、それ位…いつでも作る」

ぶっきらぼうに返してしまったが、その表情は嬉々を湛えると前へ向き直す。
「楽しみだなぁ」
先程より明らかに軽くなっている背中を、弛まっていく口元を隠す事せず見つめた。

恐らく、狭霧山にいた頃を名前も思い出したのだろう。
鱗滝は来る日も来る日も、丁寧に糠床を念入りに掻き混ぜ、均していた。
その様子を見ていたある日、いつだか三人の内の誰だか、それとも全員だったか、それは失念してしまったが、訊ねた事がある。
"何故毎日そんなに手入れをしているのか、何も変化がないが、それに意味はあるのか"、と。
今となってはその質問自体が、失礼にあたるものだったという認識を持てるが、当時は単純に、ただ疑問だった。
そんな三人に、鱗滝はいつもと全く変わらぬ動きで糠床を均しながら、こう言った。

"これは、人間と同じようなものだ"と。

あの時、それ以上の言葉は紡がれなかったため、理解は出来なかったその意味。
奇しくも、長かった空白のお陰で今、深く噛み締める事が出来ている。


漸く全てを運び終えた後、御膳を前にして向き合うと、全く同じ拍子で両掌を重ねてから、頭を下げた。
「「いただきます」」
全く意識はしていないのに、その合図すら綺麗に重なる。
暫し黙ったまま見つめ合った後
「…ふふっ」
「ははっ」
二人の穏やかな笑声が居間に響いた。

* * *

真新しい竈とまだ傷一つついていない作業場、そして眩しい程に光沢を放つ水場を往復しては、色んな角度から眺め、そして覗き込む。
「…すごいなぁ」
その度に小さく驚きの声を上げた。
今しがた洗い終えた食器を布巾で拭く両手を動かしながら、その散策も止まらない。
何せ、産屋敷が用意した最先端の設備だ。
蛇口の形ひとつ取っても興味をそそられる。
不意に、この裏側はどうなっているのだろうと水栓の下を覗き込もうとした所で
「何してるんだ?」
背後から聞こえた優しい声に振り返った。
「義勇…!」
「風呂の用意は出来た」
「あ、ありがとう」
「何か気になるものでもあったのか?」
隣に並ぶと先程の名前と同じ動作をしようとするのを慌てて止める。
「な、何もないの!ただこの裏ってどうなってるのかなって思っただけ…」
「そうか」
屈もうとしていた身体を直すのを眺めてから、両手が止まっていた事に気付き、それを再開させた。
差し出された左手に、何回目かの瞬きの後でその意味を悟る。
「しまってくれるの?」
「あぁ」
「あ、じゃあ、これお願い」
拭き終えたばかりの小鉢を渡した。


名前が拭き終えた食器を差し出し、義勇がそれを受け取ると棚へしまっていく。
流れるように続いた作業も、最後の一枚を終えた後
「ありがとう」
そう言って微笑むと、布巾を一度広げてから四つ折りに畳み、水で流した。
両手に力を入れ水分を絞ろうとした所で、背中を包む温かさに動きを止める。
「…義勇?」
名を呼ぶ事で疑問を問い掛ける名前に、義勇はその左手へ同じく左手を添えた。
「濡れちゃうよ‥?」
「良い」
手の甲を滑っていく指先が薬指の付け根で止まり、そこだけを何度も摩る動きに小さく首を傾げる前に出された

「指輪を見に行かないか?」

義勇の申し出に、その困惑が更に強まる。

「…指輪?どうして?」
「夫婦になる男女は、互いに結婚指輪なるものをこの指へつけるらしい」
瞬きを速めながら、左薬指をじっと見つめた。
「…そう、なの?初めて聞いた。義勇、物知りだね」
「物知りじゃない。俺も昨日の柱合会議で初めて知った」
見上げるように振り返った先、穏やかな群青の瞳と向き合う。
「お館様がおっしゃってくださった。名前と結婚するなら、指輪を交換すれば良いと」
「交換?」
「先代のお館様は、そうしていたらしい」

先代というのは、言わずと知れた産屋敷耀哉。
彼は、あまねを妻に迎える際、まだそれ程定着して間もなかった"結婚指輪"の存在を耳に入れ、その作成を鍛冶屋に依頼した。
裏側に刻んだのは、耀哉とあまねが出逢った日。
しかし完成した指輪は一度も互いの指に嵌められる事なく、この世から去った。
それは紛れもなく、二人の強い覚悟の現れだったと言えよう。
共に生きると決めた日から、共に死ぬ道を選んだ。
指輪を遺したのは、骨のひとつも遺らないと予見しての事。
だからこそ形として、二つの指輪を次期当主へ託した。
それは、これから先の未来が穏やかなもので在るようにという願いも込められていたのかも知れない。
輝利哉は神妙な面持ちで、そう言っていたのを思い出す。

かいつまんでではあるが聞き及んだ内容を説明する義勇の
「鍛冶屋も教えてもらった。明日行ってみよう」
その言葉と共に向けられる嬉し気な微笑みとは対照的に、名前は伏せそうになった瞳を顔ごと隠すように前を向いた。

そんな大それた事を、して良いのだろうか?

経緯を知れば知る程に、心の中をその想いが占めていく。
余りにも非情な運命を背負い、残酷な末路を迎えるしかなかった耀哉とあまねが唯一、自分達が生きた証として遺した品である指輪。
自分達がその真似事など烏滸がましいのではないか。
そう口に出そうにも、純粋な笑顔を見せた義勇の手前、きゅっと堅く口唇を結ぶ。
「…うん」
悟られないよう短く返した返事に、薬指を撫でていた動作が止まった。
「…嬉しくないのか?」
「ううん!違うよ!嬉しい!でも私指輪なんて初めてだから、なくしちゃわないかなってちょっと不安になっちゃって…」
「そうか…。名前らしいな」
頭上で感じるは安堵の息遣い。
再度、指を撫でるその優しい動きから、これ程になく愛情が伝わってきた。

「…ごめんね義勇!」

耐え切れず、そう呟くと振り返る。

「私、今嘘ついた…!本当はなくしちゃったらって思ったんじゃなくて…お館様とあまね様の…そんな大事なこと、わ、私達が…」

続く言葉を止めたのは、穏やかな色を宿す群青の双眸だった。

「知ってる」
「‥…。え…?」
「考えてる事はすぐにわかる。だから名前らしいと言った」
「…わかる、の?」
「あぁ」
「…どうして、わかったの?」
「何となくだ」

そう言い切った義勇の表情は、確実に何かしらの確信を得ていると名前でも窺い知れる。
そして、今これ以上の追及は意味をなさないという事も。

返す言葉を失くし、持ったままだった布巾を片付けようと前を向き直した所で

「産屋敷家と神籬(ひもろぎ)家の覚悟。そしてその意志を、継いで欲しい」

静かに紡がれた言葉に、それを見つめたまま動けなくなった。

「現当主である輝利哉様の望み、そして最後の指令だと、そう言っていた」

じわり、と心が温かいものが拡がっていくと共に鼻の奥が痛くなる感覚で涙が出そうになっているのに気付く。
視線の先に、微笑んでいる耀哉とあまねの姿を垣間見たような気さえした。

「…最後の、指令かぁ」
小さく呟くと、その視線を落としたと同時、蛇口からポタリと一滴の雫が零れる。
「寂しいか?」
憂慮を含んだ義勇の声に、互いに顔が見えない事を知りながらも口端を上げると首を横に振る。
「…ううん。…ホッとしてる」
今は、嘘偽りなく、素直にそう言えた。

思い出すは、目を潤ませながらも微笑む禰豆子と、涙と鼻汁に溢れる善逸。
横ではまた小競り合いを始める伊之助と隊士を呆れた様子で眺める二人分の双眸。
視線を動かした先には、屈託のない炭治郎の笑顔と、義勇の温かく穏やかな瞳が在って、名前はその時、心の奥底から湧き出てきた感情を誤魔化す事なく噛み締めた。

生きていて良かった、と。

「…会えなくなった人は…たくさん、いるけど…」
記憶に焼き付く一人ひとりの姿を思い出した事で詰まりかけた喉。しかしそっと包む左手の優しさで言葉を紡ぐ。
「だけど…。だから、私達が今、生きていられてるんだよね…?」
頭では理解し切れたような気がしていても、実際言葉に出すとなると、その現実に圧し潰されそうで声が震えた。

それでも、目の前の事実を受け止めて、受け入れていかなければならない。

乗り越えて、いかなければならない。

それが尊い命を投げ出してまで、未来を創った者達への餞になるのだと、そう信じる事を決めた。

だから、生きていく。
例え数年という、決められた時間しかなかったとしても。

「…そうだな」
短いながら温かい義勇の声は、まるで全てを肯定しているようで、名前はこれ程にない安堵を感じながら、笑顔を深めた。
「…指輪って、どういう感じなんだろう?」
極めて明るい口調で、二人の左手に目線を動かす。
「見せて貰ったが銀色で、綺麗だった」
「銀色?鉄で出来てるの?」
「いや、それより光沢が強く軽かったように思う。何が原料なのか訊くのを忘れたが鉄ではない事は確かだ」
「そうなんだ」
返事を返すと同時に指を絡め取っていく義勇へ顔を動かした。
温かさを宿した群青色の瞳が温かい。そう思ったのは口唇が重なり合った後の事で、目を閉じる程の余裕はなかった。

「不思議だな」
見つめ合った瞳が細くなったのと対照的に、名前は僅かにそれを見開く。
疑問に満ちた表情は、義勇を更に細目にした。

「名前とこんなにもゆっくり、先の未来を話す時が来るとは、思いもしなかった」

必要以上に感慨深くなるのは、これまでの記憶が波のように押し寄せてきたためだろうか。
蘇る過去の情景の、どこをどう切り取っても、今この現状へ続く道は、皆無に近かった。
「夢を、見ているみたいだ」
だからこそ、その言葉が口を突いて出る。
本当は、無惨との戦いで自分は意識が混濁としていて潜在意識が見させているものなのではないかと、そんな馬鹿げた事すら本気で考えてしまう程に。
「夢じゃないよ?」
そう言って微笑う名前の温もりはそこに確かに存在している。
「…そうだな」
確かめるように強く指を絡ませると、もう一度接吻をした。


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