雲路の果て | ナノ 56


八分までしか開いていなかった桜はこの数日の間で急激に開花を早め、まるで今日この日に合わせるように、ほぼ満開を迎えた。
ベッドの縁へ座り窓から見える薄紅色の雨を眺めていると
「…よし、できたっ」
下方からする声を聞き、義勇は自分の足元へ視線を落とす。
足首に巻かれる清白の脚絆を留めていた名前がいつの間にか自分を見上げていた。
「きつくない?大丈夫?」
小さく首を傾げながら出された質問に軽く足首を回してから頷く。
「丁度良い。助かった」
先日と同じく、隊服に身を包み、蔦子と錆兎の形見を羽織る姿を見止めて、返事の代わりに笑顔を深めた名前の表情がすぐにハッとしたものへと変わった。
「そうだ、義勇。髪結わなきゃ」
起床後、すぐに纏めていたその長髪は準備に追われ、まだ無造作に下りたまま。
柘植の櫛がしまわれた引き出しへ向かおうと立ち上がりかけた足は
「いや、良い」
短い否定によって制止される。
当然、疑問を訴える瞳にずっと伸ばしっぱなしになっていた花紺青色の髪へ触れた。
「この機会に切ろうと思ってる」
「そっか。少し傷んじゃったもんね。毛先に鋏入れよっか」
「違う」
否定をした事でまた目を丸くする名前にわかりやすいよう襟髪を見せる。
「この部分を全て断髪したい」
驚きに満ちていく空気を感じながら左手を放した。


雲路の


「…全部、切っちゃうの?」
「あぁ、片腕となった今支障だと考えた。朝朝暮暮、名前に整髪させるのも負担にしかならない」
「気にしないでいいのに…」
眉を下げたその表情も
「切ってくれないか?」
義勇が出した言葉によって驚きの余り、目を見開いたまま固まるしか出来ない。
「わ、私が!?」
「片手な上に自分では後ろは見えない。頼む」
「無理っ!無理だよ!私人の髪なんてそんなばっさり切ったことないもん…!もし失敗しちゃったら…っ!」
ブンブンと首と両手を振る仕草は必死なもので、必要以上の怯えように、説得した所で首を縦に振らないであろうと別の選択肢を探す事に頭を切り替えた。
名前の他に断髪を受諾しそうなのは…
「禰豆子ちゃんに頼んでみたら?羽織りみたいにきっとすごい綺麗に仕上げてくれると思う!」
同じ事を考えていたと僅かに驚きの感情が沸き上がる。
「…禰豆子、か」
思い当たる面子の顔を思い浮かべれば、それが現実かつ合理的だろう。
「…お前に、切って欲しかったんだが」
自然と出た吐露は、小さすぎてその耳には届いていないというのは無邪気なその表情で窺い知れる。
「禰豆子ちゃん、今大丈夫かなぁ?呼んできてみるね」
立ち上がる動きを止める術もなく視線を落としたと同時に聞くのは外側から叩かれる扉の音。
その主が誰かと思索した所で顔を上げる。
「あ…!」
声を上げた名前も義勇と全く同じ事を思い付いたのだろう。
キィッと僅かに木材が軋むと共に開かれ、姿を見せたと同時

「「鱗滝さん(!)俺(義勇)の髪を切ってくれませんか!?」」

綺麗な協和音の勢いに気圧される天狗の面が在った。



床に敷かれた数日前の日付が入った新聞紙の上で正坐をするのは義勇。
首元から真白い刈布を巻かれた姿を眺めながら、名前は喜々とした笑みを湛えその場にしゃがみ込んだ。
「よかったね、ちょうど鱗滝さんが来てくれて」
「あぁ」
鱗滝が蝶屋敷へ訪れると義勇達が聞いたのは昨日届いた文での事。
明日には生家へ帰参すると炭治郎からの知らせと、その前日に産屋敷邸にて柱合会議が開かれるという義勇の報告に、今日この日に訪問するという旨の文を認めていた。

「本当に良いのか?」

落ち着いた声が響いて、義勇は無意識に背筋を伸ばすと前を見据える。
「はい。お願いします」
応えるように理容鋏を右手に構えた鱗滝が襟髪を一束、掬い取ってから不意に動きを止めた。
暫しじっとしていた天狗の面が、興味津々に注がれる視線へと向けられた事で、何度も瞬きを繰り返す。
「名前、やはりお前が髪を切れ」
突然の指示に近い提言で表情が硬くなっていくが
「恐れる必要はない。儂が教える」
差し出される銀色の鋏を見つめる事数秒、決意を宿した瞳でそれを受け取った。
「…どう、すればいいですか?」
「まずこの襟足から後ろ毛を切る」
「え!?ここから?全部…ですか?」
「そうだ。迷いなく真っ直ぐ鋏を入れて良い。微調整は後からどうとでも出来る」
弱気な口調に鱗滝が強く教示するのを背後で聞きながら、義勇は張っていた双肩の力を若干弛める。
恐らく、と敢えて付けるが鱗滝が突然名前へその責を任せたのは心中を匂いで察知したのであろう事は明白で、それに応じた姿に喜びも感じていた。
たどたどしい指先が髪を掬っていくのに気付き、自然とその双眸を閉じる。

ジャキッ

首元で動く刃先が清々しい音を立て、右側の後頭部が僅かながら軽くなったような気がした。

特別、この襟髪に思い入れがあった訳ではない。
幼い頃から何となく
そう
何となく長くしていた髪を、たまに束ねてくれる姉の手が好きだった。
早くに両親が他界し、物理的には遺産という余裕はあれど、心の内はどんなに哀しかっただろう。
どんなに辛かっただろう。
それでも優しい笑顔を絶やす事はなかった。
今ならそれが、たった一人の弟を不安にさせない愛情だったというのも理解が出来る。

泣き言ひとつ言わず苦労を背負い続け、やっと幸せになれる、そんな矢先の事。

見るに耐えぬその姿に、現実のものとして捉える事が出来ず、ただその存在を確かめるように呟くしかなかった。

「姉さん……」

ジョキッ

軽快な音が耳に響き目を開ける。
パラパラと落ちていく髪の音を聞きながら、もう一度目蓋を下ろした。

あの時から"動いてはいけないのだ"と心の何処かでずっと思い始めていたのかも知れない。


「義勇を頼むッ!」

名を呼ぶよりも速く、獅子色の髪を揺らしながら樹海へ消える背中は、朦朧としていた意識でも目蓋に焼き付いている。

失意の中、逃げ帰るように戻った先
「……お帰りなさい、義勇」
今まで一切曇りもなく自分へと向けられていた笑顔が、その時から悲痛なものでしかなくなって

全て
そう、全て
崩れ去ってしまった気がしていた。

ジョキ…

また音を立てて落ちていく髪
「禰豆子は違うんだ!!」
唐突に木霊す声で、俯いていた顔を上げる。

あぁ、と心の中で深く感慨に似た声を出した。

圧倒的な力の差に成す術なく、深雪へ手を付き頭を擦りつける炭治郎に感情をぶつけたのは、他でもない。

無力な姿に、自分を重ねてしまったからだ。

泣き崩れ
立ち止まり
悔やんでは
蹲って
何ひとつ成し得ようとしなかった

炭治郎が怒りを生み出す事で、
自分を憎む事で、
同じ道を辿らないで済むのなら、それで良いと思った。


それは…

「義勇!」

狭霧山で最後に見た笑顔への贖罪のようなものだったのかも知れない。

ジョキッ

最後の一束がはらりと肩へ伝った瞬間、何故この髪をごっそり切ろうと思ったのか理解をしたと同時に、刈布から手を出すと軽くなった襟足へ触れた。

「ごめん、痛かった…?」

表情は窺えずとも眉を下げているであろう表情が容易に汲み取れて頬を弛める。

「…いや、だいぶ、軽くなったな、と思っただけだ」
冷静に答えながらその手を戻す。

鱗滝に示唆されながら襟足を処理していく鋏が落ち着いた頃、目を開けるとただ窓から見える桜の雨を見つめた。

変わってはいけない。
何処か無意識に、心の奥底でずっとひしめいていた。
先述の通り、長い髪に思い入れがあった訳ではない。
けれど、何処かで根底にあったのだろう。

錆兎が生きていたあの時と、
"何ひとつ変わってはいけない"
そんな、楔に近い感情が。

「義勇、できたよ!」

嬉々とした声色と共に鱗滝の手で外された刈布。
綺麗に揃えられた襟足に触れた瞬間、自分の意思とは関係なく流れ出る涙が頬を伝った事で漸く気付いた。

何故、名前による断髪を望んだのかを。

反応を示さない事で覗き込んでくるその瞳が次には慌てふためくであろうのを見越し視線を落としたが、そっと涙を拭う人差し指に息を止めた。
温かさを宿した瞳は目が合った事で更に優しく微笑む。

不意に頭上へ置かれた右手の温もりが鱗滝のものだと気付き、視線を落とした。

「…今まで良く…頑張った、義勇」

あやすように掻き撫でられた瞬間、堰を切ったかの如く溢れ出す涙。

「…っ!」

喉が詰まった事で混ざる嗚咽に、呼吸を整えようと深く息を吸うも、包み込む両腕によってまた息を止めてしまった。
見開いた瞳からは止めどなく滴が頬を伝い、名前の肩を濡らしていく。
力の限り込められる優しさが滲みて、しがみつくように抱き締め返した。


何処まで行っても、赦されない
もがいても、闇は晴れない
手を伸ばしても、届かない

動いてはいけない
変わってはいけない

何も望む資格など、俺には、ないのだと

だけど、本当は還りたかった
ずっと、還ってきたかった
他でもない、この温かさに

頭を撫でて欲しかった
抱き締めて欲しかった

その目に映る本当の俺を
覚えていて欲しかった




勝手に震え続ける背中を擦る手から、
その温もりから、

「泣いていいんだよ」

言葉などなくとも、確かにその声を聞いた。


* * *

鎹鴉が伝えた時間の少し前、産屋敷邸へ向かう義勇の背中を見送ってから、広げられたままだった新聞紙を片付けようと名前はその場にしゃがんだ。
切り落とされた花紺青色の髪を眺めながら、先程の義勇の姿を思い出す。
涙が止まった頃、義勇は冷静に鱗滝と名前へ詫びを入れた。
それでもその表情は、何処か憑き物が落ちたかのように、穏やかなもの。
それ以上何も語らなかった義勇から推察するしかないが、恐らく少しは未だ心に重く圧し掛かっていた何かを、払拭出来たのではないか。
そう考えている。

「…名前」
「はいっ」

背筋を伸ばすのは、もはや癖に近いのかも知れない。
声がした方へ顔ごと向ければ、窓際に立つ背中が在った。

「…儂は、お前達二人を出逢わせた事を、後悔していた」

表情を見ずとも、背後の存在が驚きに満ちていくのが匂いでわかる。
鱗滝が、名前と義勇の関係性について心情を吐露したのは、初めての事。
これまでの事由は、ほぼ匂いで知覚していた。

絶望的に開いてしまった二人の距離
義勇が残していった傾慕と焦燥
突然休暇を取ったと狭霧山に帰ってきた名前から伝わる寂寥と昏迷

義勇とは違い、名前が発する感情は自覚がない分、色濃くはなかったが匂いとして感じるのには十分だった。

しかしそれは、交わる事のない想いだと。
いや、正確には折良く交わった所で、刹那的なものであろうというのを鱗滝は知っていた。

義勇が抱える後悔に名前が与える優渥は、そう長くは続かない。

錆兎の死という事実はそれ程に重く暗い影を落とし、いつかどちらかが、或いはどちらもが、互いを疎ましく思う未来が、あの時は鮮明に予見出来ていた。

だから、一切に触れる事をやめた。

交差する事で壊れるのなら、このまま平行線でいて欲しいとさえ考えていたかも知れない。

しかし無惨との戦いを追え、相対した傷だらけの二人は、極限の状態で互いを支えあう姿は、ただ純粋な愛慕に満ち溢れていた。

風になびく花弁から名前へ顔を向けると、吃驚した表情で固まっていて、人知れず口の端を上げる。
「何故、お前に断髪をさせたかわかるか?」
その言葉を噛み砕くも、途端に迷いに満ちていく匂いを感じ言葉を続けた。
「義勇が強く望んでいた」
「義勇、が…?」
「あぁ」
恐らくは隠し通すつもりだったのだろう。
正直、その髪を一束手にするまで鱗滝もその匂いに気が付く事が出来なかった。

「義勇は、名前の手で、過去を葬りたかったのだろう」

見開かれた瞳が徐々に床へと落とされ、その髪へ触れる。
慣れていた筈の感触は、主を失くした事で酷く無機質に感じた。
意を決し、丁寧にその髪を中央へ寄せると包んでいく。
大事に両腕で抱えると塵箱ではなく棚へとしまう動きに面の下で目を細めた。
「…どうするつもりだ?」
「家に帰ったら埋めようと、思って…」
鱗滝の言う通り、これが抱えてきた過去とするならば
「…弔いたいんです」
そっと撫でれば、新聞独特のざらりとした手触りがする。
物音ひとつ立てず、隣に立つ天狗の面に顔を上げると同時
「強く、なったな」
感慨深く呟く言葉と共に頭頂部に置かれた温かい右手の懐かしさに、涙が溢れないように笑顔を深めた。


Burial
その全てが土へ還るように

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