カラカラ、と乾いた音を立て窓を開ける。 柔らかい空気が部屋を満たしていくのを全身で感じ、名前は深呼吸を繰り返した。 自然と閉じていた瞳を開ける。 「もう少しで、満開になりそうだね」 温かな陽の光に照らされ八分まで咲いた淡い薄紅の花々。 まだ残る蕾が昨日よりも僅かに膨らみを増しているのに気付き、笑顔で振り返った先にはまだ完全に覚醒し切れず半ば目を閉じている義勇の寝惚け顔があった。 「あぁ…」 短く返した声をその耳には音として認識されていないが、口の動作で返事をしたのであろうと悟る。 多少目が覚めたのか、おもむろに前屈を始めたのに合わせ、花紺青色に似た長髪が顔へ掛かっていく。 「義勇、運動するなら先に髪縛らなきゃ」 そう言うと引き出しから取り出した柘植の櫛と元結を片手に、傍らへ腰を下ろした。 「頼む」 伸ばした背筋へ回り込むと無造作に伸びた髪へ触れる。 全体へ丁寧に櫛を通してから纏めた束へ慣れた手つきで元結の紐を巻きつけていく。 「痛くない?」 「平気だ」 気抜けしているその両肩に自然と笑顔を溢した。 雲路の果て 「はい、出来たよ」 「…助かる」 名前の左手が自由になった頃から、毎朝こうして義勇の髪を束ね、毎夜解くというのが日課になっている。 「やって貰ってばかりだな」 「気にしないでっていつも言ってるでしょ?私にできることなら何でも言ってね?」 僅かな沈黙の後、 「それなら、補助を頼めないか?」 その言葉に瞬きを繰り返すも、向けたままの背はそれを認識出来ていない。 「負荷を掛けて貰いたい」 「…あ、うん、わかった!」 溌剌と笑うとその場に両膝をつく。 膝を伸ばすと、前屈の姿勢を取る丸めた背中に負担がないよう軽く両手で押した。 「もっと力を入れて良い」 「…これくらい?」 「まだ足りない」 「あんまり急に動かすと筋痛めちゃうよ?」 「大丈夫だ。最近はだいぶ解れるようになってきた」 完治とまではいかずとも、日常に支障が出なくなる程にまで回復したその身体を柔軟で解し始めたのは数日前の事。 ほぼ三ヶ月、歩行以外で身体を動かしていないため、明らかに衰えを感じている全身の筋肉組織を完全にとはいかずとも少しでも元の状態に戻したいと、機能回復訓練の合間にも、こうして暇があれば身体の隅々までを伸ばすようになった。 一度上半身を起こすと両膝を外側に曲げ、楽座の姿勢を取る。 呼吸を深く吐くと共に屈んでいく動作に合わせ、ゆっくりその背へ圧を掛けていく。 「全体重を掛けて構わない」 「…重くない?」 「名前の体重くらい容易い」 両手を放してから未だに屈んだままの両肩へ腕を回す。 ぐっと増した重さよりも、首に回された細腕、そして肩甲骨辺りに感じる柔らかさに眉を寄せた。 覆いかぶさるようにピッタリとくっつく存在に口を開く。 「…そういう事じゃないんだが…」 呆れに満ちながら聞こえない程の声量で呟いたのは、その言葉を聞けばすぐに狼狽しながら義勇から離れるのが目に見えてわかっているためだ。 此処で柔軟を止める事も同義であると察して、しがみつく名前の負担にならぬよう、屈んでは伸ばしてを繰り返す。 これはこれで、良い塩梅に負荷が掛かると思ったのと同時、 「苗字さーん!冨岡さーん!おはようございまーすっ!」 二回の合図の後、間髪入れず開け放たれた扉の向こうには女隊士。 二人を視界に入れるや否や笑顔が消えていく。 「あ、おはようございます」 屈託なく笑う名前の挨拶は 「じゃ、邪魔でしたね!!失礼しましたぁぁぁッ!!」 叫びと共に勢い良く閉められた扉で遮られた。 * * * 「そうならそうと早く言ってくださいよ!」 朝餉の準備をする手は止める事はないが、焦りを含んだ口調でそう言う女隊士に名前は配膳しながら眉を下げる。 「ごめんなさい、そんなにビックリさせちゃいました?」 「ビックリしましたよ…!私てっきり…」 言葉を止めると僅かに赤らめる頬に気付いたのは義勇だけだ。 あれから、逃げるように立ち去ろうとする姿を訳もわからず追い掛けた名前が 「柔軟運動をしてたんです。邪魔なんて思わないでください」 いつもと変わらぬ穏やかな笑みを称えながらそう言った事で、あらぬ誤解は解けた訳ではあるが、意識せずとも溜め息が出てしまう。 女隊士は炭治郎より歳下でありながら、これだけ過敏に反応するというのに、遥か歳上の名前は何ひとつして現状の把握を出来ていない。 これは最近になってから良く考える事案だが、胡蝶しのぶは過保護になり過ぎていたのではないか。 やはりもう少し、世の常は教授しておいて欲しかったようにも思うが、自分が言えた義理ではないので口を噤むしかなく、思考を配膳車の上に置かれた薬缶を向けると湯呑みに煎茶を注いでいく。 「そういえば今日はお一人なんですか?」 名前の発問に、小さく頷いたのを目端に入れた。 「アオイさんの手伝い…っていうか」 一度言葉を止め、その無邪気な表情を窺ってしまう。 「私達、鬼殺隊を辞めて此処で働かせて貰う事にしたんです」 口にした途端、心に滲む不安。 あれだけ入隊当初から目を掛けてくれた存在の前で、何の相談もなく決めてしまった事に、言い知れぬ背徳を感じている。 何度も、同期三人で話し合った。 自分達の進退について。 「苗字さんに相談しないか?」 そう出された提案は、考えるまでもなく却下した。 ただでさえ最初から最初まで、護って貰っていたのだ。 その上これから先の自分達の将来までもその優しい肩に背負わせる訳にはいかない。 だからといって、鬼によって身寄りもなくなった自分達が鬼殺隊以外で生きていく道など思い浮かぶ筈もなく、途方に暮れていた頃、現在この蝶屋敷で、ほぼ全体の指揮を取る神崎アオイに、此処で働かないかと誘いを受けた。 それは高圧的な提案ではなく、あくまでも打診という形。 アオイがその一案を三人へ与えたのは、単純に人員が不足している中、戦力になった頼もしさと、自分達の身の振り方に行き詰まる姿をいつかの自分と重ねたせいかも知れない。 迷うしか出来なかった両手を引いてくれた、胡蝶しのぶのように、誰かの力になりたいと思いから来たものだが、三人には何も告げてはいない。 そのアオイの思想の全てが伝わった訳ではないが、現実的に考えて三人はこの蝶屋敷に勤めるという選択を選んだ。 けれどその事で、名前を傷付けてしまうのではないかという懸念を、今も抱いている。 「…苗字さんには、感謝しています…!ありがとうございます!すみません」 その瞳が曇ってしまう前に頭を下げるも 「どうしてお礼を言った後に謝るんですか?」 若干低くなる声色で上げた視界に入るのは、何も変わらない穏やかな笑顔。 直視が出来ず、徐々に自分の足元を見つめるしかなくなった事で、言葉も止まってしまった。 「…昔、そう言われた事を思い出しました」 今度はあっけらかんとした口調に恐る恐る顔を上げる。 「…申し訳ないなんて、思わないでくださいね?」 柔らかく、けれど憂慮する瞳の温かさに滲んでいく涙を隠すように俯いた。 「…はい」 気丈なつもりで出した返事は明らかに震えてしまったが、慌ただしく動いた次に差し出される手拭いを視界に入れた事で瞬きを止める。 「………」 「あ!今手元にこれしか…」 「名前、それは昨日俺が使った手拭いだ」 「え?そうなの!?ごめん!」 若干焦ったように止める義勇の声に手拭いを握り締めると完全に狼狽している表情に落ちかけた涙が完全に引っ込んでしまった。 多少粗雑に配膳してから、胸の前で手拭いを抱く背を促すように押す。 「…鬼殺隊でなくなっても、私達は苗字さんと冨岡さんの傍で力になりたいと思っていますから!よろしくお願いします!」 右耳が聞き逃してしまわぬよう張り上げたが、力を入れ過ぎたようで想像していたより声量が大きくなってしまった。 「はい!」 「あぁ」 溌剌とした声と冷静な声だけを聞けば正反対に思えるも宿る温かさは同じもの。 それは陽だまりのように心地が良い。 だから自然と此処へ訪れたくなるのだろう。 「二人共早く座ってご飯食べちゃってください!」 その言葉通り各々ベッドへ戻る姿を眺めながら、安堵の笑みを浮かべたが、それもすぐに気合を入れるように頬へ力を入れ直した。 * * * 温かい陽が傾き始めた頃、機能回復訓練を終えた義勇は若干の疲労感の中、確実に向上している体力を感じながらそっと扉を開ける。 「あ、おかえりなさい」 屈託のない笑みで迎えられるも、その場にしゃがみこんでいる姿に自然と疑問が湧く。 「…どうした?」 「ん?クロと遊んでるの」 角度を変え窺い見れば、その足元には確かに黒猫が名前の持つ緑色のものにじゃれついているのが見えた。 横へ振る動きに合わせ、獲物を狩るように挑んでいくその動きは素早いもので、 「あ、また取られちゃった…」 それを抱えると甘噛みをする隙を窺うと取り直す。 「何だ?それ」 「えーと…、えのころぐさって、禰豆子ちゃんが言ってた」 「禰豆子が来てたのか」 「うん、中庭で日向ぼっこしてたら見つけたらしくてね、クロの尻尾にそっくりだからって摘んできてくれたんだ」 その言葉通り、色こそ違うがふさふさと長い穂先は酷似している。 「この季節に咲くのはすごく珍しいんだって。禰豆子ちゃん、色んなこと知ってるからすごいよねぇ」 つい先程、同じ事を本人に伝えたところ 「山育ちなんで山菜とか植物は結構知ってるんですよ〜」 朗らかな笑顔を向けてくれたのを思い出す。 手に合わせ素早く爪を立てる動きを眺めながら、隣にしゃがむ義勇に気付き視線を上げた。 「機能回復訓練、どうだった?」 「順調だ。炭治郎もあと数日で退院許可が出ると言っていた」 「そうなんだ!じゃあお家にも帰れるんだね!」 屈託のない笑顔が自分の事のように喜んでいて、義勇も僅かに口角を上げる。 そうして浮かんだそのままの思考を口にした。 「俺達は、どうする?」 手が止まったかと思えば、向けられる瞳はやはり意味を理解していないのだろうと続ける。 「此処を出たらどうするかを話し合っていなかった」 夫婦になる、とは決めたは良いがそれ以上の事を突き詰めていなかったと気付いたのは、退院という現実が目の前に迫ってきてからだった。 「あ、そっか…」 「俺の家に住むのも良いが…」 途中で言葉を止めたのは、何となく迷いが生じているためだ。 広さや設備を考えると義勇の屋敷の方が最適と言える。 しかし思えば、名前は一度もそこに足を踏み入れた事がない。 目の前で狗尾草を甘噛みしている存在を考えると、何が最善かを考える。 「名前はどうしたい?」 委ねるように発問を出した後、顕著に迷う表情から答えが出るまでただ黙って待った。 黒猫の顎を撫でるとゴロゴロと鳴る音だけが響く。 「…私は、退院してもここのお手伝いもしたいなって思ってて…」 たどたどしく紡ぐ言葉が止まったのに気付き、そちらへ視線だけを向けた。 寂寥が混ざる微笑みがどういう意味を持つのかは 「…義勇、本当にずっと…、ずっと私の傍にいてくれてるね」 穏やかな言葉に依って僅かながら理解をする。 「言っただろう?その前に名前を散々傷付け「もう、言わないの」」 柳眉を逆立てると口唇を押さえる指先に黙るしか出来なくなった。 ゆっくり瞬きをする義勇の表情から険しさが消えた事で、指先を放すと微笑む。 「義勇との想い出がいっぱい詰まってるなぁって思ったの。あのお家」 年月だけで見れば、独りの時間の方が圧倒的に長かった。 出逢っては消えていってしまう命の重さに耐え切れず、泣き明かした日も一度じゃない。 それでも何度も立ち上がって戦う道を選んできたのは、深淵の哀しみを抱えながらも同じ鬼殺隊として生きるその存在がいたからなのだと、今は強く感じている。 冨岡義勇という一人の人間がそこで生きている。 様々な苦悩を抱え続けても、そこにしがみついていたのはそれが理由だった。 あの時の自分は、気が付けなかったけれど。 「…だから、あの家で暮らしたいな…。義勇と、クロと…あとできたら、寛三郎さんも一緒に」 黒猫を見つめる慈しみに満ちた横顔が愛おしい。 心の底から湧き上がる感情に、義勇は撫でていた指を止めるとその髪へ触れた。 「わかった。そうしよう」 「…でも、義勇のお屋敷は…?」 「元々水柱邸として与えられたものだ。思い入れがある訳じゃない」 「…そっか」 安堵したような表情も唐突に何とも言えぬものに変化していく。 「どうした?」 「あ、ううん。一回でいいから、義勇のお屋敷、行ってみたかったなぁって思っただけ」 外観だけは、すぐに思い出せる程に目に焼き付いていた。 産屋敷邸への来往等で通り掛かった際、門の前で足を止めた事も幾度となくある。 けれどそこから先へ進む勇気など、当時の名前は持ち合わせていなかった。 その経緯を義勇が知る由はないが、極めて明るい口調ながらも何処か寂し気なのを感じ取れて口を開く。 「まだ引き払った訳じゃない。来たいなら来れば良い」 「ほんとに?良いの!?」 「あぁ」 「楽しみだねぇ!クロ!」 わかりやすく浮沈を繰り返す表情が今度は喜びを満面に表していて、口角を上げた。 暫く禰豆子が持ってきた狗尾草で黒猫との攻防を続けていた所で、コツコツ、と窓を叩く音を聞く。 名前の反応がない事から、聞こえていないのだろうとおもむろに立ち上がると窓へ向かった。 「…義勇?」 そのまま窓掛け、そして引き窓を開けた瞬間、日中とは違う冷たい風が吹き込む。 夕陽に照らされた漆黒の身体を見止めたと同時 「伝達ッ!!デンタツッ!!」 良く通る声に真っ先に反応したのは名前だった。 「柱合会議ノ知ラセッ!!水柱・冨岡義勇ッ!五日後正午ッ!産屋敷邸ヘ向カイナサイ!!」 Clamp 久方振りの伝令 [mokuji] [しおりを挟む] [back] ×
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