雲路の果て | ナノ 53


コンコン
いつもと同じ合図を入れて開いた先、ベッドの上、何をするでもなく一点を見つめている横顔を視界に入れた。
「た、ただいま!ごめんね、遅くなっちゃって…」
ゆっくりと向けられる温かい眼差しに笑顔を返すも
「今日は特に忙しかったと聞いている。クロには餌を与えておいた」
それだけを返すと布団へ横になろうとする義勇の空気に違和を覚え、傍らへ駆け寄った。
「あのね、義勇っ…ごめんね、違うの!ほんとはね…」

「誰にも言うな」

その言葉が過ぎったが、心の中で詫びてから続ける。
「義勇の怪我を処置してくれた方に会って…話してたから、遅くなっちゃったの。アオイさんはそれ知らなかったから、義勇に心配かけないように嘘ついてくれて…」
「……。知ってる」
横臥の姿勢を取ると向けられた背に言葉を詰まらせながらもその正面に回り込めば、早々に閉じられている瞳を見つめた。
「…知ってるって…?」
「部屋に戻る際、話しているのを見た」

一目で誰かと把握出来る程に見知った背の先、三毛猫を抱えた存在の仔細は炭治郎から聞いて把握している。
右手を失くし目を覚ました直後は、巻かれた包帯に疑問も沸いていたが、後々耳に入れた情報と、柱達を解毒した三毛猫の存在も手伝い、その人物だと悟る事も出来た。
「…確か、愈史郎、という鬼か」
僅かに開かれる瞳に答えるため、大きく頷く。
「うん。あのね、愈史郎さん、義勇の右手を「名前も…その時、一緒にいたんだな」」
小さく頷いた所で、無意識に組んでいた両手を包む左手の温かさに気付き、顔を上げた。


雲路の


不安そうに揺れる瞳を見つめながら、義勇は断片的な記憶を探る。
あの時、朦朧とした意識の中、錆兎を見た。
何も言わず押した背に感じた強さを思い出す。
言葉はなくとも、痛い程に伝わった。

お前は生きろ、と。

その温かさに、振り返ってしまいそうになる手を引かれた気がした瞬間には現実に戻っていたが、今漸く心付いている。

自分を優しく誘ったのは、他でもなく、今温かさを感じるこの存在だった。

「名前がいたから、戻ってこられた」

潤む瞳から涙が零れたのはすぐの事。
歪ませる顔を隠してしまわないよう上半身を起こすと身体を包み込む。
「……ほ、本当はねっ…こ、怖かったの…あの時ッ…義勇がし、んじゃうって…!こわかったっ…!」
回された両手の顫動を感じ、しゃくりあげるその背を撫でた。
「…よかった…っ!ぎゆ…、生きててッ…よかった…!!」
突いて出た言葉に、我に返ると両手で口元を覆う。
「…ごめんなさい…っ!私なんてことっ!」
「良い。大丈夫だ。俺以外誰も聞いていない」

生きてて、良かった。

無惨との戦いを終えてから、名前がその言葉を口にした事はただの一度もない。
それは自分にだけではなく、義勇を始めとした隊士や隠にも、その言葉だけは、頑なに掛けようとしなかった。
義勇がそれに気が付いたのは、炭治郎の意識が戻った頃。
目を覚ました途端に騒がしくなる周囲と共に見舞いに訪れた際、"良かった"その一言を言い掛けてすぐに噤んだ事で、何故かと考察し理解をした。

今も名前は、消えていってしまった尊い命に痛惜を抱き続けている。
その存在を想うと、生きていて良かった、など言葉にすべきのではないのだと。
だからこそ今、溢してしまった底意を悔やんでいるのを、涙は止まったものの震え続ける肩から伝わってきた。

「…俺は、生きていて良かった」

ハッキリと、その耳に伝わるよう真っ直ぐに声を出した。

「名前が生きている事も良かった、そう思っている。良かったと心の底から、何度も感じている」

敢えて強く口にするから、どうか、伝わって欲しい。
それは死者への冒涜などではないのだと。

「慶賀をした事で一層それが沸き上がった。俺達がその場で立ち止まる事は、弔いにはならない」

蹲り続けても何の意味も成しえなかった。
もう二度と、同じ間違いは繰り返さない。
その苦しみを味わわせるような真似も、絶対にしない。
そう、決めた。

「あるがままを受け入れ乗り越えていく。名前とならば、それが出来ると、俺はそう信じている」

「乗り越えて、くださいね」

ふと、胡蝶しのぶの声がすぐ傍で響いた気がして、勝手に震える口唇から嗚咽が零れる。

何処かで、後ろめたさを感じていた。
それは時が経てば経つ程に、強く深く身に沁みていく。
蘇る記憶は鮮明なのに、この世界の何処にも存在しない現実を知る度、悲傷が胸を掻き毟っていく。
前に進まぬよう足元を後悔が搦め取ってくる。

だけどそれを
あるがまま受け入れて
乗り越える

胸が張り裂けそうな痛みも
楽しかった過去まで歪んでしまいそうな苦しみも
全て、受け入れて

一緒に生きていく


零れそうな涙を掬い取っていく舌先の感覚に目を閉じた。
「……っ」
「避けなくて良い」
目尻から落ちる雫をまた優しく啄む口に双肩が震える。
「責任を持って泣き止ませてるだけだ」
「…そんな…っ自分で拭けるから…」
徐々に桜色へ染まっていく頬に、義勇は小さく笑みを溢すとまた一筋流れる涙を舐め取る。
「…義勇っ…」
左腕に籠もる力強さを感じ、自然とその胸板へ両手を添えた。
涙が滲む度に落とされる接吻を感じながら半ば閉じていた瞳をゆっくり開ける。
「…あのね、義勇…」
「何だ?」
「あの…」
入院着を握る名前の指先が震えていた。
「…あのね、目じゃなくて…あの…」
言い淀む瞳が徐々に消沈していくも、意を決し動かした右手が下唇へ触れる。
「…ここに、して欲しい…」
潤んだまま上目で見つめる姿に、義勇の動きがピタリと止まった。
瞳孔を開く群青色に気付いた事で、赤らんでいた頬が蒼白したものへと変わっていく。
「…ごめん…私っ変なこと言っちゃっ」
悄然とする心を誤魔化すように後ろへ身を引くも、その左腕はいとも簡単に引き寄せると口唇が重なった。
ちゅっと小さな音を立て一度離れるが、すぐに深いものへ変わっていく。
「……んっ…ッ…」
固く目を瞑りながらもその優しい舌に応えた。
おもむろに身体を誘導する腕に気付いて、誘われるままベッドへ膝を立てる。
「…はっ…ッ」
距離が空いた隙に整えようと息は排出するだけで、すぐ絡みつく舌に息を止めた。
ポフッと音立てて義勇の背がベッドに沈んだ事で、必然的にその上に乗る体勢になったと気付いたのは、口唇がゆっくり離れた後。
「……!重っく、ない?」
密着する身体を起こそうと膝をついた所で内太腿に感じる感触と僅かに動いたその腰に心臓が脈打つ。
「……」
静かに上半身だけを離した名前を見つめる双眸が熱を帯びていて、戸惑いが沸いて出るが
「…泣き止んだな」
目元を撫でる親指の優しさに目を細めながら小さく頷いた。
「…うん。…ありがとう」
「お前は…」
愛おしそうにその指が髪に触れる。
「抱き締めると、泣き止むから」
頬を弛ませる表情を見下ろしながら、先程の行動の意味を知る。
だから、左腕を一切放そうとしなかったのかと。
両腕では、もう力強く抱き締められない。
それでも義勇が出来る全てを名前に惜しむ事なく、与え続けてくれる。
今も包み込まれる優しさで涙が滲みそうになるのをグッと堪えた。
「伊之助くんも、そう言ってた」
笑顔を作るも、見上げてくるその表情は驚きに満ちている。
「抱き締められたのか?」
「え!?ちがっ違うよ!私じゃなくて…!」
慌てて両手を振ろうと割座の姿勢を取った事で
「…ッ」
僅かに身体を震わす義勇に狼狽した。
「ご、ごめん!痛かった!?」
腰を浮かせようとした所で重量感を増した感触が丁度自分の足の付け根、秘部に近い部分に当たっている事を知る。
「…名前じゃなくて、何だ?」
「あ…あの、アオイさんを泣かせてしまって…義勇にあんまり、心配かけちゃダメだって…」

あの時、あの瞳から溢れた涙の意味を少し今、理解している。
アオイもきっと、同じように感じているのだろう。
日が経つにつれ、実感していく。
そうして、心に傷が付いていく。
胡蝶しのぶが居ない、その現実に。

「伊之助くんがたまたま来てね、泣き止ませるのは抱き締めるんだって義勇が言ってたってアオイさんの事抱き締めてたの。それで、アオイさんも元気になってね」
今しがた見たばかりの光景が眼底に再現されて笑みを深める。
「そんな事があったのか」
指背で頬を撫でる動きにすぐに眉を下げた。
「うん。ごめんね?怒ってる…?」
「怒ってない」
「…本当に?」
不安げに見下ろす表情は、数日前の事を気にしてなのだろう。
「本当だ」
極めて冷静にそう返せば、また笑顔を深めると
「よかった…」
小さく呟いたのを聞く。

義勇が、愈史郎と向き合う名前の背を見た時、僅かに心臓が動きもしたが、漏れ伝わる会話から正直そのような心配は無用なものだとすぐに気付いた。
それでもアオイが吐いた嘘が引っかかってもいたが、それは戻ってきた名前によってすぐに解決を見せる。
漠然と抱えていた不安が、完全ではなくとも薄れたのは確かで、真っ直ぐ自分だけを見つめるその純粋な瞳を曇らせないと誓った。

「…でも義勇、どうして伊之助くんにあんなこと言ったの?」
その発問に一度思考を止めてから、数日前へ遡る。

「オイ!半々羽織り!お前名前が泣いてたらどうすんだよ!?」

漢字修練の際、一度は覚えたものの、距離が離れた事で抜けてしまったという頭が、またその名を呼び始めた頃、唐突にそう訊かれた。
答えどころか、質問の意図も理解出来ないまま目を細める義勇に、伊之助は支離滅裂ながらも一から説明をする。
要約すると、アオイが一人悲しみに暮れ泣いている姿を見たが、どうしたら良いかわからず逃げ帰ってしまった事を悔いている、しかし未だに答えが見つからない。
そこで思い出したのは良く泣きそうになっている名前の存在。
そんな弱味噌とケッコンする半々羽織り、基い義勇に訊けば納得した答えが聞けそうだという内容だった。
相変わらず敬意の欠片もない口調に「名前は弱味噌じゃない」とだけ先に返してから、"抱き締めていると割と早く泣き止む"という趣旨を伝えてから、しかしこれは名前に限った事だと続けようとした時には、猪突猛進の叫び声が遥か遠くにあった。

回顧していた事でいつの間にか沈黙を保ってしまっていた事に気付くも、不思議そうに首を傾げる表情は無邪気そのもので、あの猪頭の無垢さと少し、似ているのかも知れないと自然と思考を巡らせてしまう。
言動は似ても似つかないが。

一旦冷静になった事で鎮まり始めていた筈の自身に当てられ続ける柔らかさと温もりにまた膨張しそうな波を感じたが、意識を違う所へ向ける事で抑える事にする。

「名前は…子供が欲しいか?」

何の脈絡もない問いに、当然の如く瞬きを繰り返すその表情が想像通りで目を細めた。
この状況でも身動ぎひとつしない姿は、そもそもその仕組みを理解しているのかという疑問から始まる事に気付く。
「…どうしたら子供が出来るかの知識はあるだろう?」
故意にそう訊ねたのは、肯定が返って欲しいという願望かも知れない。
どう、説明すれば良いのか、頭を悩ませてしまいそうだからだ。
義勇も文献を齧った程度の知識のみだが、それでもこの無垢な瞳よりかは詳しいのは確実だろう。
「しのぶさんは…結婚したらお腹に宿るって言ってた…」
その名でまた思い出してしまったのだろう。
揺れる瞳が涙を溢してしまう前に言葉を出す。
「結婚しても、子供を作るか作らないか選ぶ事は出来る」
「…そうなの?」
まん丸にする瞳が驚きに満ちていて本当にそれ以上の知識を与えられていないのだというのを知った。
「その上で訊きたい。名前は子供が欲しいか?」
真剣に見つめる群青の双眸に、目を伏せる。
「…義勇は、三歳とか、四歳の時って覚えてる?」
「…正直言えば記憶は皆無だ」
断片的で色濃く心証を残すものは覚えているとは言える。
だがそれが何年前だったというのは定かではない。
その答えを受けて、哀惜に似た笑顔を浮かべる瞳は優しさも携えていた。
「私もその頃の思い出って全然ないんだ。その時に両親がいなくなっても、きっとその子も、覚えてないんじゃないかなって思う」

喩え二十五歳という期限の間、一生分の愛情を掛けたとしたって、恐らく記憶の片隅にも残らない。

「たった数年しか一緒にいられないってわかってるのに、その子だけ遺すのは…私…」
「大丈夫だ。もう伝わった」
震える言葉を遮るように指を押し当てた。
「…俺も同じ、思いでいる」

敢えて名前に選択肢として投げかけたのは、もし望むのであれば、たった数年でも家族を増やして生きていくのも悪くないと、僅かながら考えていた。
しかし恐らくは、その答えが返ってくるのも、予測していたのだと今小さく頷く姿に気付く。

遺された命の時間を二人で生きる。

改めてその意志を強固にした所で
「でも義勇。子供ってどうしたらできるの?」
落とされた問いに眉を寄せてしまった。
未だピタリと押し付ける、いや、名前本人は押し付けているつもりは一切ないのだろうが、その感触に疼く腰を抑える。
「…お前は知らないままで良い」
「なん」
言葉を遮るようにその手を引けば抵抗する事もなく重なる口唇の後、舌先がツンと義勇の口唇に触れた。
それでもすぐに頭ごと引くと真っ赤にさせる頬に驚きを隠せないまま口を開く。
「…今」
「…だって、いつも義勇がそうしてくれるからわ…私も…」
上手くいかなかった事で逃げてはしまったが、穏やかな笑みを浮かべる義勇にドキッと心臓が脈打った。
「…可愛いな」
優しさに満ちた声で途端に紅潮していく熱さを自分でも感じる。
「か、可愛くないもん…!」
「可愛い」
群青色の瞳と左手に誘われるように口唇が重なる手前、ゴクッと呑んだ息に気付き、義勇が小さく笑ったのをきつく瞑った目が捉える事は出来なかった。


Precious
恒常で在ると誓う

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