雲路の果て | ナノ 52


祝言を上げた、正確には炭治郎達が祝いと称し、蝶屋敷で宴会を繰り広げた三日後の事だった。
未だ無惨との戦いで怪我を負った隊士、並びに隠が静養を続けている大部屋の一室。
夕餉後の薬の服用を確認に訪れていた名前は、一人一人と会話を交わした後、丁寧に頭を下げると
「お大事になさってください」
そう微笑んで扉を閉めた。
アオイへの報告内容を整理しながら、台所へ続く廊下を歩いていた所、分岐点の向こう、玄関へ伸びる道を進む後ろ姿を捉え、足を止めた。

「愈史郎さん…?」

恐る恐る出したその名に、一度動きを止めると振り返る青みがかった髪と瞳に笑顔を深める。
「よかった!合ってた…!」
二ヶ月以上前に一度相対しただけだった上、服装も異なる後ろ姿に確信はなかったが、思い浮かべた通りの人物だという事実に自然と安堵していた。
しかし当の愈史郎は訝しげにこちらを見るだけで、何も答えようとしない。
その腕の中には、同じくまんまるな瞳を向けてくる三毛猫の姿があった。


雲路の


「…あ、えっと苗字…、苗字名前です!」
あの時名乗っていなかった事に気付き頭を下げてから、自分の姿に気付く。
この入院着では余計に誰だか判断しかねているのだろうと更に言葉を続けた。
「あの!悲鳴嶼様の手当てをしている時に…声をかけさせていただいた…義勇とあの、耳を…」
しどろもどろになる口調も、耳、その単語で愈史郎の眉が僅かに動く。
「あの時の、…お前か」
多少驚きを見せたのは、あれだけ損傷が激しかった身体をこの短期間でほぼ快方させたという事実に心付いたのが要因だ。
「はい!あの時は…本当にありがとうございました!愈史郎さんのお陰で義勇も少しずつ元気になってきています」
そうして深く下げた頭。
愈史郎は念の為、それが戻されるのを待ってから自分の右耳を指す。
「耳は、聞こえるか?」
「少し聞こえづらい時もあるけど…大丈夫です」
「それなら良い」
著しく聴力が衰えているのは右側を傾ける動きで察したが、それに関して言及するのはやめた。
「あの右腕はお前の望み通り、隠とかいう人間に託し埋葬させておいた」
今の今まで伝える術がなかった事を思い出し、口に出すがそれを聞いたその表情は喜びではなく悲痛なものへと変わっていく。
それでも再度、深く頭を下げた姿と震える両手に勝手に記憶を巡らせてしまう。

地面に落ちた肉片でしかなくなったその右腕を、大事に、とても大事に包み込んでいたのを、愈史郎は強い口調で棄て置くよう諭した。
しかし左手を使えないながら離そうとしない意思の強さに根負けし、必ず弔うと約束を取り付け、それを解放させたものの、当時は生き延びた本体より何故そちらに重きに置いたのか理解が出来なかった。
今になっては、それも名前にとっては当たり前の事だと、その理解を示す事も出来なくはない。

失ってしまった事実を、心の何処かで認めたくなかったのだろう、と。

ふと落ちた沈黙に、その瞳が悲しそうに揺れたのを確かに見た。
何か言おうとする口が不自然に噤まれ、行動が意味するものを自然と考察する。

「…俺の事を、炭治郎から訊いたんだな?」

断定的な言葉を出したのは、否も応もない程、愈史郎の情報は鬼殺隊の中でもごく一部にしか共有されていなかった事にある。
ましてや愈史郎という名前を把握しているのは、恐らく今生きている中では、炭治郎ただ一人だろう。
「…はい」
短く答える声色が更に寂寥なものへ変化していくのに、恐らく愈史郎の経緯も全て知っているであろう事が窺えた。

「祝言を上げたらしいな」
弾かれたように上げた表情が背徳感に満ちていて、自分で話題を提示しておいたにも関わらず、言葉の選択に迷う。
「お前達の事、噂になってる」
特にその類の話を拾おうと意識を向けていた訳ではないが、此処に訪れると誰かしらが、「水柱が結婚するんだって」「今度祝言上げるんだよね」等と話題をしている光景を度々耳に入れてはいた。
水柱がどの人物かは把握していたので、その相手があの時、聾唖状態ながら必死に救出しようとしていた人物だという事も紐付けは出来ていた。
しかし今目の前に立っているのがそれと瞬時に判断が出来なかったのは、余りにもあの時の損傷が酷い印象が強かったためだ。
「……あの「鬼を滅したのと同じ位の朗報だと奴らが騒いでた」」
中には涙を流して喜んでいる人間もいた事を思い出す。
くだらない、正直そう思う瞬間もあった。
しかし、今こうして自分の幸せよりも見ず知らずに近い、ましてや鬼を慮る姿は、酷く儚げに見えて、何故そんな風に見えるのだろうと考えを巡らせる自分が滑稽だと、口角を上げる。

「良かったな。目を背けなくて」

それもすぐに険しい表情へ戻したのは、その目が見る見る内に潤んでいくのに気が付いてしまったためだ。
ここで泣かれても、迷惑以外の何物でもない。
「そうは言っても全ては珠世様の薬のお陰だからな!そもそも珠世様がいなかったらお前ら全員死んでたんだ!珠世様に感謝しろ!」
捲し立てた口調に、狼狽しながらも
「ありがとうございます!た、たまよ様!」
深々と下げられる頭に弛まりそうになった眉を無理矢理上げる。
「馴れ馴れしく珠世様の名を呼ぶな!それにお前、あの後無惨に近付いただろう!?何のために俺が忠告してやったと思ってる!」
「は、はい!ごめんなさい!」
未だ顔を上げない名前に溜め息をひとつ。
この人間は非常に扱いにくい、正直そう思った。
早々に会話を終了させようと踵を返そうとした時

「愈史郎さんにとって、すごく大事な人なんですね」

その言葉に動きを止めざるを得ない。
ゆっくり上げられた表情は穏やかで、決して似ても似つかないのはわかってはいるのに、何処かに面影を探してしまう程、その存在が心を占めていると再度思い知る。

大事、な人…

「当たり前の事をわざわざ言うな。珠世様は俺の全てだ」

何の迷いもなく言い切る愈史郎に、返ってきたのは哀惜を含んだ笑顔だけ。
また流れる静寂に、今度こそ背を向けようとするも
「その子は、愈史郎さんの猫ですか?」
脈絡もなく飛んできた質問でまた出遅れてしまった。
「珠世様の猫だ。今は俺と暮らしてる」
「そうなんですね!私も猫飼ってるんですよ〜!黒猫のクロって言うんです」
随分安易な名前だな、という感想は心の中で思うだけにする。
「その子のお名前は?」
「茶々丸」
「茶々丸ちゃん?」
「オスだ」
「茶々丸くん!」
先程の消え入りそうな表情は何処へやら、無邪気な笑顔にこれ以上会話する必要はないだろうと考える。
「俺と此処で会った事は誰にも言うな。特に炭治郎には絶対に」
丸くしながら見つめてくる瞳が疑問に満ちていて、返事を聞く前に続けた。
「俺がまだ此処を訪ねていると知ったら探そうとするから厄介なんだ。しかも鼻が利く」
出来る限り炭治郎の嗅覚が届く範囲内には近付かないようにはしているが、それもいつ察知されるか気が気じゃない。
「…炭治郎くんには、もう…、会わないつもりなんですか?」
その質問に返ってくる言葉はなく、その沈黙が肯定だというのは名前でも容易にわかった。
「でも、炭治郎くん…また愈史郎さんに会えるの楽しみに…「炭治郎だけじゃない。もうお前ら人間とは、極力顔を合わさない」」
それだけ言うと向けた背からこれ以上の関わりを拒絶しているのが伝わってきて、何を口にすればいいか、思考を巡らせる。

先程愈史郎は、かけがえない存在を失くしたばかりだというのに、こちらを否定するどころか重きを成してくれた。
その痛切と絶望が少しでも和らいで欲しい。
けれど何を口にしたらいいのか、わからない。

「じゃあ、手紙くださいませんか!?」

考えが纏まるより先に放った提案も、振り返った表情が嫌悪に満ちていた事で失敗だったと早々に後悔する。
「断る。何故俺が珠世様以外に手紙なんぞ書かなきゃならない。お前に書く文など何ひとつない」
「あ、そ、それはそうなんですけど…!私に書くっていうか、あの、日記みたいな…」
慌てて両手を振ると、若干柔らかくなった愈史郎の雰囲気を感じ続ける。
「愈史郎さんが書きたいなって思った時に、あの、たまよ様の話とか…そういうの、書いてくださったら私が読むの楽しいなって…思ったんですけど…」
「気安く名を呼ぶなと言った筈だ。俺と珠世様の思い出は手紙一枚なんかでは到底収まらない」
「ご、ごめんなさい!」
またも頭を下げる名前に、溜め息を落とすと今度こそ本当に帰路につこうと背を向けた。
「…一枚で足りなくてもいいなら、送ってやらなくもないけどな」
聴力が衰えたその耳には届かないのは承知の上で敢えて背を向け呟く。
すぐに歩き出したため、どんな表情をこちらに向けているのかはわからずとも、愈史郎は自分の頬がほんの少し、弛んでいるのは気が付いていた。

* * *

愈史郎が向かった先とは真逆を歩きながら名前の口から出るのは落胆の溜め息。
上手く伝えられなかった。
そんな後悔が心を占めている。
何を言えばその心を少しでも軽く出来たのだろうか。
そんな事が頭をぐるぐると回り続けていた。

「お疲れ様です。皆さん、薬は飲んでましたか?」

無意識の内に辿り着いた先、食器を洗う背が、確実に名前だというのを認識して出された台詞に若干驚きながらも頷いた。
「はい。皆さん状態も落ち着いていて、元気でした」
特に何も問題はない旨を伝えれば、その両手を止める事なく
「わかりました。ありがとうございました」
淡々とした口調に、忙しいであろう事を知る。
「あの、私も…」
「大丈夫です。それより薬の確認だけならこんなに時間はかからないですよね?何処で油を売ってたんですか?」
投げ掛けられる質問に、先程愈史郎に言われた言葉を思い出した。
「…薬の確認をして、る途中、隊士の方々と話を…」
「嘘ですね。口調でわかります」
言い除けたアオイの言葉に黙り込んでしまう。
すぐに大きな溜め息が聞こえた。
「水柱様が名前さんを心配していました。まだ戻ってこないと」
「…義勇が?」
「私が他の仕事を頼んだせいだと言っておきましたので、納得して部屋に帰っていかれましたが」
「そうですか…。あの、ごめんなさい、アオイさんに嘘を吐かせてしまって…」
会話を交わしながらも一切止める事のない手が若干粗雑に食器を置く。
「名前さんが私達の事を想い、こうして手を貸してくださるのはわかります。でも一番大事なものを優先なさってください。貴方は…」
珍しく言葉に詰まったのに気付いたと同時、僅かに震える肩。

「貴方がどんなに頑張ったって、しのぶ様は…戻ってこないんです…!」

悲痛に満ちた声は名前を責めているのではない。
ただ溢れ出た感情に蓋が出来なくなった。
「…ごめんなさい…アオイさん、あの…」
近付くも初めて見た涙に更に狼狽えるしかない名前の背後、
「オイッ!腹ァ減った!何か食うモン寄越せっ!」
響いた声に振り返れば見慣れた猪頭。
それも涙を溜めるアオイを視界に入れると
「何やってんだ仕立て屋テメェッ!」
怒りに満ちた口調で素早く詰めてくる距離に身を引いた。
「伊之助さん!?名前さんは悪くないです!」
アオイが止めに入るも返ってきたのは全く想定外の返答。

「泣いてる時は抱き締めんだろッ!?」

言うが早いかその手を引っ張ると包み込む両腕に、アオイが一瞬息を止めた。
「そ、そっそんな事誰に聞いたんですか!?」
「半々羽織りだよ!こうやったら泣き止むって…いっでぇ!!何すんだテメェ!」
猪頭へ命中した平手と共にアオイの強い目が向けられる。
「それは名前さんと水柱様に限った事です!!」
「折角泣き止ませようとしてやったのに何だその態度!」
「そんな事しなくても勝手に泣き止むのでお構いなく!」
「…あの、ごめんなさい…私が…」
「名前さんは黙っててください!」
「仕立て屋は黙ってろ!」
言葉は違えど同時に重なる声の迫力で更に身を縮める。
「名前さんに怒鳴らないでくれませんか!?怯えてるんで!」
「アオイだって怒鳴ってんじゃねェか!」
「私は怒鳴っ…」
言葉を止めたかと思えば、驚きに満ちる表情に、伊之助は一度動きを止めると前のめりになっていた姿勢を引いた。
「…何だよ!名前間違えてねェぞッ!?」
「わかってます!!」
キッと目を強くするアオイとは裏腹に、伊之助は両腕を組むと胸を張る。
「ほーら、やっぱ泣き止んだじゃねェか!」
得意気にそう言うと、鼻息を荒くさせる姿にぐうの音も出なくなったその表情。
しかしすぐ我に返る。
「だ、誰にでも抱き付いてるんですか!?」
「誰にでもじゃねぇ!お前が初めてだ!!」
途端に顔を紅潮させるアオイに伊之助がわかりやすく狼狽え始めた。
「お前何だ!また熱出たのか!?」
「違います!ほっといてください!!」
先程とは打って変わって、穏やかな空気が包むのを感じ、名前は密かに笑顔を湛える。
未だに言葉の応酬を続ける二人へ静かに頭を下げてからその場を後にした。


Natural
花が咲くまでもう少し

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