雲路の果て | ナノ 47



コンコン、と念のため合図をしてから扉を開ける。
ベッドの上、胡坐を掻きながら箸先で小豆を掴もうとする真剣な横顔に、ただいま、と出し掛けた声を止め、出来るだけ静かに戸を閉めた。

「…随分遅かったな」

視線は箸先へ向けながらも静かに発された言葉は名前には届かなかったが、その口が動いたのだけは窺い知れたため
「…ん?」
右耳を向けるその癖を、反射的に上げた顔が捉える。
「…悪い」
集中していたせいで声量も口の動きも思慮していなかった。
「遅かったな、と言った」
今度は意識してはっきりと名前に口元が見えるよう答える。
それと共に、目元が真っ赤になっているのに気付き、持っていた箸をその場に置いた。
焼香の許可を貰ったと聞いてはいたため、わざわざ訊ねなくともその原因はすぐに心付く。
「アオイさんに少し、目を冷やしてもらってたの」
痛々しく泣き腫らした瞳を細めて微笑うと杖を突きながら自分のベッドへ向かうのを目で追った。
「…よいしょ」
小さく呟いて腰を下ろしたのと同時、目が合って、何度か瞬きを繰り返す表情が少しは晴れているような気がする。
「…大丈夫か?酷い顔してる」
それでも出した言葉に名前が小さく笑う意味が理解出来なかった。


雲路の


不可解と言ったように眉を顰める義勇に気付き口を開く。
「…大丈夫。ごめんね、不死川様とアオイさんにも同じ事言われたの、思い出しちゃって…」
「不死川に会ったのか」
今度は驚きに変わる表情に小さく頷いた。
「……うん。そっちに座ってもいい?」
僅かに空いた間と、その質問に瞬時に考えを巡らせてから
「あぁ」
首の動きも合わせ答える。
聞き取り辛い上に、声を張る義勇への気遣いもあるのだろう。
僅かな距離ではあるが引き摺りながらも歩行が出来るようになった右足は順調な回復を見せているのが窺える。
それでも左手を差し出す義勇に気付き、笑顔を見せるとそれに応えた。
「…ありがとう」
ベッドの縁に左手をつくと上ろうとする名前に合わせ腕を引く。
御膳を挟んで横座りをする足に手を離しながら自然と眉が寄った。
「その体勢で痛くないか?こっちに伸ばしてもらって構わない」
「ううん。大丈夫」
義勇を見つめる朗らかな笑顔が
「あ、そうだ」
思い出したように続ける。
「不死川様ってすごく優しい人なんだね」
正直、見た目と口の悪さに勝手に怖いという心証を抱いていた。
しかし実際の不死川実弥という人間と相対してそう感じている。
「…何か言われたのか?」
「義勇のことすごく心配してたよ。あとね、今度一緒にご飯食べに行こうって、伝えて欲しいって言ってた」
「…まだおはぎも渡してなかったんだが…」
「…おはぎ、ってあの甘味のおはぎ?」
義勇を見つめる無垢な瞳に思い出す。
「不死川はおはぎが好きらしい。炭治郎が言っていた」
「そうなんだ!じゃあ今度お礼におはぎ持っていったら喜んでくれるかなぁ?」
「礼?」
「うん、助けようとしてくださったお礼と、さっきもね目を冷やした方がいいっておっしゃってくださったからお礼に…」
伸びてきた左人差し指が口唇に触れ、言葉を止めた。
「だから…遅かったのか」
そっと離れる指がまた箸を掴んだが、伏せられる目がどことなく寂寥としていて戸惑いながら口を開く。
「うん、義勇が心配するからって…」
「…そうか」
複雑だった心の騒めきも、その言葉で自然と上がる口角が素直に嬉しさを感じていた。
流れた静寂に、コロン、と小豆が落ちる音だけが響く。
一呼吸をする度に一つ、それが皿から皿へ運ばれていくのをじっと見つめながら名前はその集中を邪魔しないよう静かに口を開いた。
「すごく上手になったね」
「あぁ、だいぶ慣れた。これなら生活に支障が出る事もなさそうだ」
「…頑張ったもんね…義勇」
感慨深く呟きながら眉を下げる笑顔を一瞥してからまた箸先へ視線を戻す。
「名前がいたからだ」
その言葉で驚いたのであろう事は気配のみで察した。
「お前は…何も言わず傍にいてくれた」
「…義勇がしてくれたのと同じこと、しただけだよ?」
カラン、と皿が音を立てる。
また新しい小豆を掴もうとした手が止まった。

「…夫婦に、ならないか?俺達」

言葉として出した途端、波打つ心臓も平静を装いながら返ってくる言葉を待つ。
しかしいくら待てども返答は来ず、落としていた視線を上げた。
「……。そこまで驚く事でもないだろう」
瞬きも忘れたまま固まっている表情に、愛しさと呆れを含んだ溜め息が出そうになる。
「……だって…!義勇、突然言うから…!」
「こういうのは大体そうだと思うんだが…」
「そんな大事なこと、勢いで言っていいの…?」
「言葉として出したのは突然だが、意思は思い付きでも勢いでもない。ずっと考えていた」

ずっと、そう
ずっと思っていた。
そうして生きていけたら、どんなにか幸せだろう、と。
それでも鬼が、人を喰う存在として在り続ける限り、その幸は望めない。
望んではいけない。
そんな諦めが何処かにあったのも確かだ。
今はその存在も滅ぼす事が出来たが、余りにも多くの犠牲の上に成り立った平穏。
痣が発現した事で義勇も名前も恐らく長くは生きられないのも互いに覚悟をしている。
だからこそ、今、強く願う。

ゆっくりと箸を置くとその瞳を真っ直ぐ見つめた。

「最期を迎える瞬間まで、名前と共に生きていきたい」

永遠でなくていい
この先、例え僅かな命であろうとも
その燈火が消えるまで
もう片時も離れたくない

「…私で、いいの…?」
「名前が良い」

先程泣き腫らした瞳から大粒の涙が溢れ出して、俯こうとする前に人差し指でそれを掬う。
「…嫌か?」
「ちがっ!違うの!嬉しい!嬉しくて…っ!」
胸の前で組む両手に力が入っていて、そのまま黙り込む口唇に続けた。
「…お前の口からきちんとした返事を聞きたい」
穏やかながら強い意思を持つ群青の瞳に、未だ涙を拭い続ける左手を両手で包む。
「……私で、よければ…義勇の傍に、いさせてください」
気が付けば、照れくさそうに微笑う目尻から伝っていく涙を口唇で拭っていた。
「……っ」
反射的に後ろへ引く身を追い掛けようと乗り出した膝で押し出した御膳。

ガシャンッ!!

音を立てて落ちたそれは派手に床へ散らばって、小豆がコロコロと四方八方へ転がっていく。

「…あ…!」
ベッドから降りようとするその肩を掴み、更に距離を詰めた。
口唇が重なる前の僅かな距離
「…拾わないと!」
「後で良い」
短い言葉を交わす。
「…ぎゆっ…っん…」
ゆっくりと音を立てて啄むのを制止するように顎に添えられた右手に眉を寄せた。
「待って…もうすぐ…」
その声を掻き消すように
コッ!コッ!
窓を叩く何かに再度口唇を重ねようとした動きを止める。
思わず視線を向ける義勇にその瞳が不思議そうなものへと変わった。
「…どうしたの?」
「窓から音がする」

コッ!コッ!!

先程より響くそれは名前の耳にも届き、途端にその表情が明るいものへと変わった。
義勇の手を擦り抜け窓に向かう足を止めるもなく、窓を開け放つ。
「お帰りなさい!」
そう言って迎えた右腕に乗る蹄に、思わず目を見開いた。

「…寛三郎」

小さく震わせる身がその声を耳に入れた途端、漆黒の翼を広げ、その主の肩へ乗る。
「…義勇…久シブリジャ…傷ハ、大丈夫カ?痛ムカ…」
「…大丈夫だ。心配を掛けた」
頬に擦り寄る小さな頭に返事をしてから名前へ視線を向けた。
「…何故、寛三郎が此処に?」
義勇が困惑するのも無理はない。
鬼舞辻無惨を滅した後、怪我を負った隊員達に支給されていた鎹鴉達は一度産屋敷邸へ集められた。
それは義勇、名前の鎹鴉も例外ではなく、あれから一度も姿を目にしていない。
何故突然此処に来たのか、疑問に思わない筈がなかった。
「輝利哉様にお手紙を書いたの。鎹鴉に会うことはできますか?って」

それは左腕が順調に回復していると感じたと同じ頃、義勇が清拭のため病室を後にしたのを見計らい、産屋敷家へ手紙を認め、定期的に蝶屋敷へ伝書を伝える鎹鴉へ託した。
その思惑はただ、義勇の傷が完治した際に寛三郎と再会出来たら良いという願いから来るもの。
その意思を汲んだ次当主、輝利哉が本日この時間に寛三郎を此処へ向かわせるという文を名前に向け送ってきた。

「義勇、ビックリするかなぁって思って内緒にしてたんだ」
嬉しさを隠せず頬を弛めながらまだ肌寒さを感じる風を遮ろうと窓を閉める。
散らばった小豆を拾い集める姿に、義勇がベッドから抜け出そうと身を乗り出すと同時に寛三郎が床へ降りると嘴で小豆を銜え名前の元へと運んだ。
「ありがとう、寛三郎さん」
両手でそれを受け取るとニッコリと微笑う表情に出遅れたものの義勇も床へ足を降ろすと拾い集める。
「…にゃー」
目の前にある小豆を興味深げに前脚でつつく黒猫に気付き、そっと回収しながら
「これは食べ物じゃない」
左手の甲でその頭を撫でた。


「ひーふーみーよーいつ、むーなーやー…」
皿に並べた小豆の数を確認する名前の手が不意に止まる。
「ん…?一つ足りないかも…」
「十四粒ないか?」
「あれ?十五粒じゃなかったっけ?」
丸くなる瞳も
「名前が勢い良く飛ばしただろう?」
笑いの発作を堪える義勇に「あ」と小さな声を上げた。
あの後、部屋の隅々まで探したがどういう訳かその一粒は未だに見つかっていない。
「じゃあ全部見つかったね!お皿割れなくてよかったぁ」
床に置いた御膳へ元通り戻すと両手で持ち上げると定位置となった棚の上に置く。

「義勇…無事デ良カッタ…」
「お前の気持ちは十分わかった。良い加減擦り寄るのはやめてくれ…」
嬉しそうな寛三郎と困惑する義勇の姿を眺めながら
「ふふっ」
耐え切れず笑声を溢した。


陽が暮れる前、産屋敷邸へ戻っていった寛三郎の姿が見えなくなるまで見送ってから窓を閉める名前。
「また会えるの、楽しみだね」
そう言って綻ぶ頬を撫でた。
見つめ合った事で自然と近付く口唇が重なって、舌を絡め合う。
「……っん…ぎゆ…っ」
苦しさを訴え顔を逸らしたが、追い掛けるように覗き込む群青の瞳に心臓が高鳴ったと同時、コンコン、と響く音に更に心音が大きくなった。
「は、い!」
義勇から離れると、上擦った声で出した返事を開けた主、女隊士は気に掛ける訳でもなく口を開く。
「失礼しまーす。お食事お持ちしましたー」
後ろから入って来るのは御膳を抱えた二人の隊士。
「あ、ありがとうございます!」
「手伝わなくていいんで座ってくださいね。ほら、冨岡さんも!」
名前を呼ばれ、義勇は返事こそはしないが、それに従った。

* * *

十一日後の事

「……あれ?」

ベッドの上、名前は生地を縫い合わせていた手を止めると唐突に考えた。
今日が何日なのかと。
そうして気が付く。
同じようにベッドの上で胡坐を掻く横顔を見つめるもその瞳がこちらを向く事はない。
アオイから拝借した小さめの机の上、何枚かの白紙と書き掛けの文字。
完全に意識がそちらに集中しているためだ。
それを始めたのは、名前と夫婦になる事を決めてからすぐの事。
自筆で婚姻書を認めるため、毎日毎日文字を書き続ける義勇を心配したが、自分を追い詰めている訳ではないと判断し、黙ってその様子を見守っていた。

「…義勇」
「どうした?」
「今日、誕生日だよね?」
名前の言葉に筆が止まり顔を上げる。
「…忘れていた」
気抜けしている表情が笑いを誘って、小さく笑声を零してから続けた。
「おめでとう!お祝いしよう!」
言ったはいいものも、この状態でどう祝うかまではこれから考えようとしていた所
「いや、良い。お前の言葉だけで十分だ」
その言葉に眉を下げる。
「…でも」
「それよりこの間の話の続きをしたい」
「…えっと、この間って…?」
「夫婦になるという話だ」
「あ、うん。ちょっと待ってね」
途中だった仕立てを針山に刺した後、義勇のベッドの縁に腰を下ろす。
「名前は、祝言を挙げたいか?」
その発問には考えるまでもなく出た答えを素直に出した。
「ううん」
それだけを返して俯いたのは、尊い命を賭した大勢の犠牲を考えての事。
「ならば報告だけにしよう」
その意思を汲んだ冷静な義勇の言葉に、顔を上げる。
「俺は名前と結婚する事を周りに告げたい。鱗滝さんには特にだ」
「…あ、そうだね。私も鱗滝さんにちゃんと言いたい!」
あれから見舞いに来た後、一度狭霧山へ帰ったのは知っている。
「また来ると言っていた。その時に話そう」
「うん。鱗滝さんビックリするかなぁ?」
「多少は、するだろうな」
それでも平静を装うであろう事も想像が出来る、と義勇は僅かに口角を上げた。
「…でも、本当に私でいいの?」
不安気に揺れる瞳に見つめられ、緩まっていた頬を戻す。
「この間も言った筈だ。名前が良い、と。お前以外と生きていく道など考えられない」
意味を噛み締めていく程に嬉しそうに綻ばせる
顔を両手で隠した。
「…何故隠す?」
「だって…私今多分すごい変な顔してるもん。恥ずかしくて…」
「隠さなくて良い」
ゆっくりとそれを解く左手の温かさに、また勝手に弛んでしまう表情筋も
「夫婦になるのだろう?」
優しさで満ちた瞳を見つめ返す。
「…うん」
短く答えた後、ふふっと小さく笑う口唇に義勇のそれが重なった。


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