二回の合図した後、 「…どうぞ」 引き戸の向こう側でする声は、その右耳には届かなかったが、絶妙の間でそれを開く。 失礼します、と言う前に畳の上、正座をしている栗花落カナヲを視界に入れた。 「おはようございます」 ニッコリと微笑む姿に 「…お、おはよう」 つい言葉に詰まってしまった。 「名前さんが来ると聞いて、待ってました」 穏やかに微笑むカナヲに、名前は何度か瞬きをしてから傍らにしゃがむ。 「無理してない?大丈夫!?」 自分と同じ入院着に身を包むカナヲの傷がまだ塞がりきっていないと聞いたのは、仏壇へ線香を供えて良いかアオイに許可を得ようとした時だ。 本来ならばしのぶの跡を継ぎ、家主であるカナヲに許可を取るべきだというのはわかってはいたが "お線香をあげたい" その一言で傷付けてしまうのではないかという危惧もあり、アオイに許可を得たのだが。 「無理はしてません」 ニッコリと微笑うその表情にカナエとしのぶの面影が重なって眉を下げる名前にカナヲは穏やかに微笑うと、もう一度 「どうぞ」 そう言うと座るよう五本指で促す。 「…失礼します…」 声が震えてしまうのを抑えながら、目の前に聳える仏壇を見上げる。 「…しのぶ、さん」 小さく呟いたその名前。 飾られたばかりの写真は穏やかな表情を浮かべていて、目頭が熱くなるのを感じた。 「…あの」 お線香を、と言いかけた言葉はまた 「どうぞ」 その三文字で遮られた。 雲路の果て 「名前さんは必ず焼香しに来る、としのぶ姉さんが言ってたので」 カナヲの崩さない笑顔に張っていた気も虚しく涙が溢れる。 「…ごめんなさい…っ…」 口元を覆うと顔を逸らす姿に、若干眉を下げた。 「謝らないでください」 胡蝶しのぶがカナヲに伝えたのは藤の花の薬を預けたのと同じく。 「恐らく私が亡き後、名前さんは焼香にやってくるでしょう。その時は辛くとも、笑顔で応対してあげてください。カナヲが泣いていたら、遠慮してしまうから」 あの時、しのぶが自分と名前の生存を仮定したのは、迎える事の出来ない未来への期待と希望だったのかも知れない。 「名前さんはきっと…、泣くのを我慢しても出来なくて、謝るでしょうね」 想像に難くないと小さく笑うしのぶを、カナヲは見つめる事しかできない。 「その時は、謝らなくていい。そう言ってあげてください」 最後に見た無邪気な笑顔がきっと自分の死を知った時、悲痛なものに変わる。 そう考えると胸が痛みはしたが、選んだ道を引き返すという選択など、するつもりはない。 どうにか自分の命が終わる前に、その危なげな手を掴んでくれる者はいないかと心配もしていたが、今はその手を繋ぐ冨岡義勇という存在がある。 あの義勇ならば名前の手を離すという懸念もないだろう。 生きている限り支えてくれる。護ってくれる。 これで思い残す事もない。 何とか間に合ってよかった。この点に於いても、そう思う。 「姉さん…。名前さんに何も伝えなくて、いいの?」 しのぶへ気を揉むカナヲの発問に一度目を伏せると思いついたように僅かに口を開いた。 「そうですね…。じゃあ、一言だけ…」 最後に聞いた言伝を思い出しながら、カナヲは焼香を終えた手が重なるのを眺める。 嘘偽りなく、心から悲しんでいるのだろう。 意思とは関係なく震え続ける身体と止まる気配のない涙から僅かにしか見えなくともそれが伝わってくる。 それと同時に、何故今まで此処に滞在しながら名前がこの仏間を訪ねてこなかったのか、恐らくだが理解もしていた。 そうやって、両手を合わせたかったのだろう、と。 「…乗り越えて、ください」 ゆっくりと上げられた瞳がカナヲを捉える。 瞬きをするだけでポタポタと落ちていく涙が入院着へ濃く染みていくのを目で追った。 「乗り越えてください。……そして、笑っていてください。姉さんからの最後の言伝です」 途端に口唇を震わせ両手で顔を覆うも、抑え切れない嗚咽に同調してしまいそうになるのをグッと堪え、視線を落とす。 先程より大きく震える肩に、カナヲは若干の安堵を感じていた。 蘇るは繰り広げられた死闘が嘘のように静まった後、カナヲを見つけるや否や、自分の方が酷い怪我を負っているにも関わらず、その身、そして心を案じる名前の姿。 その時に、最後の言葉を伝えようとした。 しかし、それにはしのぶがどういう経緯で死に至ったか、藤の花を摂取していた事実も話さなくてはならない。 必要以上に名前が傷ついてしまわぬように、簡潔に伝えたつもりだったが、言葉の意味を噛み砕いていく内に蒼白していく顔色、それと共に虚ろげに何処かを見つめたまま潤むことさえしない瞳は、これ以上ない程の失意を抱いていた。 何も知らされていなかったという絶望と、何も気付く事が出来なかったという失望。 だから、しのぶはその言葉を遺したのだと理解をしたが、あの場でそれを口に出来る程、カナヲはしのぶのように強い心を持てなかった。 どうか、責めないで欲しい どうか、気にしないで欲しい でも、優しさで寄り添おうとする彼女には出来ないから どうか、負けないで欲しい どうか、受け止めて欲しい もう、厳しさで護る事は出来ないから 自分には、その絶望を救う手立てはもうないから 「乗り越えてください。そう、伝えてくれますか?」 穏やかなしのぶの顔を名前にも見せてあげたかった。 だから、続けた。 「笑っていてください」と。 それはしのぶに託された言葉ではなく、カナヲの、カナヲ本人の心の内から出た願いだった。 勝手に遺言を付け足して、怒られないだろうかと口にした後すぐに思いもしたが、きっと間違っていないと思う。 しのぶもそう、願っている筈だ、と。 ありがとう 姉さんのために、泣いてくれて 自分より少し大きい身体を小さく丸めて泣き続ける姿が落ち着くまで、ただ見守った。 * * * 仏壇の胡蝶姉妹、そしてカナヲに深々と頭を下げてから病室へ戻ろうと歩を進める。 その小さな身体に気を遣わせてはいけないと、堪えた筈の涙は結局全て流れ出てしまい、漸く落ち着いた頃、何度も謝る名前に、笑顔を崩す所か 「謝りすぎです」 そう言って更に小さく笑う表情が、今はもういない二人に似ていた。 結局、カナヲに気を遣わせてしまった、と自己嫌悪に近い吐いた溜め息と同時、反対側から歩いてくる人物に目を止める。 同じ入院着に身を包むのは風柱である不死川実弥。 反射的に廊下の端へ寄ると、その姿が通り過ぎるまで続けるつもりで下げた頭も、目の前で止まる足を視界に入れた事で上げざるを得なかった。 完全に合った視線に何て言葉を出して良いかを考えてしまう。 管轄も違い、仕立ても依頼された事がなかったため直接的な関わりがなかった。 柱稽古でも二、三言葉を交わしただけ。 この蝶屋敷に入院してから、義勇は何度か顔を合わせたと言っていたが、自分とは生活様式の相違からかこうして顔を合わせるのも今の今までなかった。 実弥が、名前自体を認識しているかどうかすらも危うい。 しかしそれも 「…おまっ、すっげぇひでェ顔してんぞォ」 ギョッ。その効果音が似合うくらい目を見開いた表情に慌てて両手で顔を触る。 「…え!?そ、そんなに、ですか!?」 「白目も周りも真っ赤になってる。何したらそんなんなんだァ?」 「……あ…」 必死に泣き止もうと何度も目を擦ったせいかも知れない、と瞬時に原因が浮かぶも、それをどう説明しようか考えた所で上手く言葉が出ないまま動きを止めた。 「…何だァ…?冨岡のヤロウとなんかあったかァ?」 弾かれたように上げた視線の先、若干曲げられる眉で、泣いていた事を悟ったのを知る。 「え!?あの!ち、違います!!しのぶさんに!あの!お線香を上げに行ってて…っ!」 その名を出した瞬間、一気に緩まる涙腺に実弥は眉を寄せると左手で頭を掻いた。 「ワリィ。そうか、確かお前、胡蝶と仲良かったんだっけか…」 甲の隊士、苗字名前。 その存在自体は稽古を行う前から柱全員が把握していた。 一度伊黒小芭内が仕立てを依頼した際、白と黒の縞模様の均等を細かく指定したが寸分も違う事なく縫製してきた、と珍しく関心していたのが記憶として蘇る。 その仕立てを薦めたという胡蝶カナエとその意志を引き継いだしのぶとの関係が深かったのも知っていたがそれ以上は正直どういう人物かも把握しておらず、名前が義勇の恋人だと紐付く事が出来たのも、無惨との戦いを終え数日がしてから。 唯一柱の生き残りである上に、同じく右手が使えなくなった義勇が気になり所在を訊ねた所、名前と共に静養していると聞き、初めてそういう関係なのだと知った。 見下ろす存在が無理矢理目を擦るのを視界に入れ、あぁ、だからあんなに真っ赤になっていたのか、と納得をしている。 「お前!余計酷くなるっつの!」 つい反射的にその右手を掴むも、涙を溜める両目に脅えたように見つめられすぐに離した。 「…ごめんなさい…」 「いや、良いけどよォ。これじゃ俺が泣かせてるみたいじゃねェか…」 小さく呟くと眉を寄せ視線を逸らす。 この状況を、誰か、それこそ義勇本人に見られたら面倒くさい事この上ない。 またゴシゴシと強く擦る目元に更に眉を寄せたが、止める事はしなかった。 「…不死川様…」 返事の代わりに視線を戻せば、深く下げた頭をを見止める。 「あの…あの時はありがとうございました!」 戻った筈の眉間の皺が深く刻まれる。 あの時がいつの事を差しているのかを考察した所で 「…あぁ」 相槌ともまた違う声が出た。 名前が言うあの時は、無惨が最期に太陽にもがき苦しんだ時だろう。 刃を挟み込むその硬い肉をどうにか抉ろうと小芭内と型を繰り出したが、望む効果は現れなかった。 「別にわざわざ…、頭下げてまで言う程の事じゃねェだろォがァ」 気にするな、暗にそう言っても頭を上げようとしないその姿にやりにくさを感じて頭を掻きながら別の事が頭に浮かぶ。 「そういやアイツ大丈夫か?」 「……義勇、ですか?」 「この間見た時すげェ思い詰めた顔してたからよ」 その原因が何かはわからない。 訊いた所で義勇が素直に話してくるとも思えず、短い言葉を交わしてその場を去ったが、元々明朗ではない表情が更に翳を落としていたのは感じていた。 「…心配してくださってありがとうございます」 また深々と頭を下げる姿に 「いや、心配はしてねェよ。気になっただけだァ」 眉を寄せるも上げた表情は全く意にも介していない。 「…多分、少しは…元気になったと思います」 若干困ったような笑顔が何故なのか、それも実弥には知る由もないが、その答えに小さく頷いた。 「まァ、それなら良いけど。お前、病室戻んのか?」 話を切り替えればゆっくり上げられた顔が答える前に続けた。 「冷やしてからのがいんじゃねェ?」 未だ赤みがかった瞳が瞬きを繰り返す。 「目だよ目ェ。冨岡が見たらそれこそ心配するどころの話じゃねェぞォ」 「……あ、はい…!そ、そう、します…!」 慌てて答えるそのオドオドした態度に、不敬ではあるのは承知だが、これが本当に鬼殺隊の隊士、しかも甲として現場の指揮を取っていた人物なのかと疑ってしまう。 それでも、柱稽古で見せた身体能力の高さと、最期に無惨へ振り下ろした刃は紛れもなく柱に並ぶ、いや、それ以上の実力だった事実も同時に思い出す。 …そういえば 「お前、竈門炭治郎が鬼化した時その場に居たか?」 ふと浮かんだ疑問に名前は少し間を置くと首を横に振った。 「いえ、気を失ってしまって…」 「あぁ、じゃあ俺と同じか」 何故そんな事を訊くのかとその両目が訴えているが、答える事なく視線を逸らすと考える。 (そうか、俺らの中で最後まで動けたのは冨岡だけだったか…) あの時、自分が気を失っていなければ… 結果論にしか過ぎないが、僅かに負い目も感じてはいる。 聞き及んだ情報しか持ち合わせていないが、竈門兄妹のために命まで賭けた程だ。 結末としては最悪なものにはならずとも、炭治郎が鬼化した時の絶望は、どれ程のものだったのだろうか。 推察してしまうのは、自分の記憶と擦り合わせてしまっているかも知れない。 「今度…」 自然と出た言葉を止めようとするも、続く台詞を待つ瞳にじっと見つめられ、小さく息を吐く。 「今度冨岡に、飯食いに行こうって言っといてくれやァ」 不愛想な口調になってしまったが、名前はさして気にする様子もなく笑顔を見せると 「はい!伝えておきます!義勇も喜ぶと思います!」 そう言うものだから苦笑いが零れた。 「…アイツが喜ぶ所とか想像出来ねェんだけど…。まァ良いや。じゃあなァ」 これ以上話す事も見当たらず、早々にその横を通り過ぎた後 「…あの!」 慌てて呼び止める声に足を止めそうになる。 しかし続く 「…不死川様は…大丈夫ですか…!?」 その言葉に目を見開いた。 名前が、何処まで自分の身上を把握しているかは不明だ。 広範なその質問はもしかしたら単純に、怪我の具合を訊ねているのかも知れないし、実弥が義勇の身を案じた事で同じ質問を返してきただけかも知れない。 それでも詳細を訊く事も答える事もしようとはせず、目を閉じた。 僅かに上がる口角を見せないように、右手を軽く上げると歩を進める背中。 深々と頭を下げる名前の姿を、当たり前に気付く事はなかった。 Sorrow それぞれ形を変えて [mokuji] [しおりを挟む] [back] ×
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