雲路の果て | ナノ 03




義勇が、私と、もう今までのように接したくないんだろうなって事はもう、何となく感じてた。
そこまで、鈍感ではいられなかった。

最初は信じたくなくて、自分の頭の中で沢山の要因や原因を考えて、それならしょうがないって納得してたフリを、していた。

でもあれだけ態度に出されていれば、嫌でもわかる。
義勇は『私自身』を拒絶していた。

でも、私にとっては、義勇は家族みたいなものだったから、例え義勇にとってはそうじゃなくても、私はたくさん、助けてもらったから、きっと最後に顔を合わせる日に、それを渡した。

今までの感謝の気持ちと、謝罪の気持ちを込めた握り飯。
義勇が好きな塩加減と、米の硬さと、私が今出来る全てを込めて。
そういえば、錆兎と義勇の好みは違うから、鱗滝さんがいい塩梅を悩んでいたっけ。
それも、もう…遠い昔話みたい。

思い出の皆は、いつも微笑ってる。




雲路の



錆兎、義勇に遅れる事二ヶ月後、名前は藤の花の山の最終選別に挑む。
例に漏れず、鱗滝が持たせた厄除の面は最初に対峙した鬼に壊されてしまったが、何とか頸を切り落とす事が出来た。
七日間という期日の中、正確に何体か数えられる程の余裕はなかったが、鬼を倒している。
致命傷は、今のところ食らってはいない。
厄徐の面をつけていた左顔面に今はもう塞がりかけた切り傷があるくらい。
だが、それが問題だった。
確かにそれは、鬼の爪による単調な攻撃。
名前自身、それほど気にする必要はないものだと判断したのだが、問題は外傷ではなく内傷だった。
自覚すらない、内耳神経の炎症。
それは徐々に、そして確実に名前から左側の音を奪っていっていた。
もし、わずかでも違和感を覚えた時点で山を下り、医者に診てもらう事が出来ていたなら、大事には至らなかっただろう。

周囲から聞き取れる音より、自分の耳の中の音、つまり耳鳴りが大きくなっていると気付いたのは、最終選別七日目の事だった。

(…え…?…聞こえ、ない?)

気付いたと同時、左手を耳に当てる。
その時には、掌と外耳が擦れた音さえ聞き取るのが難しい状態だった。
低周波のように一定の音が、左耳を占領している。

一瞬、動揺はしたが、すぐに呼吸を整えた。
これが一時的なものなのか、それとも永続的なものなのか、今の自分に判断は難しい。
確かに時々、ツンと裂くような痛みが左耳にはあったが、その原因が何かはわからなかった。
そして幸い、耳鳴りに邪魔されはするが、音を全く聞き取れない状態でもなかった。

(…大丈夫)

自分に言い聞かせるように、心の中で呟いた。
この夜を越えれば最終選別を乗り切る事が出来る、と。

しかしその数時間後、名前は手鬼と出会う。
錆兎を殺した、あの鬼に。
それを名前が知る術は持ち合わせていなかったが、手鬼がどれだけ強く恐ろしいものかは、相対した瞬間にわかった。
震える身体を鼓舞し、頸を斬ろうとしたがそれは当然斬れるはずもなく、気付いた時には左脇腹を突き刺されていた。

「……ッ!…」

それは、自分でもわかる致命傷だった。
気が付かなかった。気付くのが遅かった。
左耳から、聞こえる筈の『音』が聞こえなかったから。

人間は、順応性が強い生き物だ。
身体の何処かが欠損すれば、それを補うため、他の部位や神経が順応し始める。
だがそれは、欠損したと脳が意識してから、その欠けた部分をどこが補うかを決定するのに時間がかかる上、補うための部位や神経は、すぐにはその役割を果たせない。

名前が左耳の不自由を感じたのは、ほんの数時間前。
その欠損を補える程、身体が変化する時間は残念ながら皆無。
もしもいつものように左耳が聞こえていたなら、避ける事が出来たのは事実だった。
それでも、僅かな違和感に身体を捻り、直撃を食らう事はなかったのは名前の身体能力のなせる技だった。

痛みに顔を歪ませながらも、両足を地に着く。
傷口を左手で強く圧迫してみても、広範囲過ぎて止血は容易ではない。

「グフフッ」

嘲笑うように、手鬼の笑声が響いた。

* * *

それはいつかと同じく、見慣れた天井だった。
ゆっくりと視界を右へ動かすと、傍らに座る天狗の面が見える。
「……う……、きさん…」
喉が張り付いて、上手く息が出来ない。
最終選別はどうなったのか、頭には浮かぶのに、声として出てくれなかった。
それに答えるように、鱗滝は静かに口を開く。
「最終選別、お前は生き残った」
名前が言葉を理解をする前に続ける。
「傷が酷い。起き上がるな」
思い出したように左脇腹に触れると、頑丈に巻かれた包帯の感触がした。

「……。帰って、こられたんですか…?」
「…あぁ」
その肯定で、じわじわと実感する身体の痛みよりも、強いのは心の痛み。
終わった、という安堵感よりも、逃げ帰ってきたという情けなさ。

きっと義勇も、こんな気持ちだった…?

その名前を思い出しただけで、寂しさが心を支配した。

「傷は深い。が、気を失う直前まで全集中の呼吸を使っていたため、失血を最小限に抑えていられた」
暫し落ちる沈黙から発せられたのは、震えた声。
「…良く、生きて戻った…」
グッと握られる手の温かさに、名前はようやく戻った事を実感した。


名前があの状態で生き残れたのには、三つの偶然がある。
目を覚ました名前自身は露ほど覚えていないが、あの時、死の危険を感じ、意識が朦朧とする中、呼吸を繰り返す以外の策がないかと辿り着いた先、意識を失った場所が藤の花の入口だった事。
そして、厄徐の面をつけていなかったため、手鬼は名前を鱗滝の弟子だと判断出来なかった事。
更に、手鬼は最終選別の人間を三人喰らっており、さほど飢餓状態ではなかった事。
それでも放っておけば死を免れなかった傷も、隊員の処置のお陰で命の峠は超えた。かと言って、起き上がれる程に回復した訳ではないが。

「…鱗、滝さん」

か細く呼ぶ声。
鱗滝は面の下、静かに眉を寄せると
「喉が渇いたか?」
傍らに置いてあった水差しを手に取るが、名前は小さく首を横に振った。

「……片耳が…聞こえない人間でも、剣士になれますか?」

その言葉に目を見開いたのは、面で見えないため気付いてはいないだろう。
それでも言葉に詰まる鱗滝に応えるように、声を出す。

「左耳が、聞こえないんです」

それは、最終選別の時よりも鮮明だった。
あの時も耳鳴りは確かにしていた。低い一定音がずっと続いていた。
だけど意識を集中すれば辛うじて周りの音が聞こえていたのを覚えている。
だけど今はどんなに呼吸を使っても、くぐもったまま。

「もう何も、聞こえてこなくて…」

呼吸法を使っても改善されない事で、名前の中でもう二度と戻らない事を悟った。

天狗の面は変わらない。
変わる筈がない。

けれど、その下の表情が悲痛のものだと感じる。
見えない筈なのに、酷く悲しそうな顔が浮かんで、どうかそんな顔をしないで欲しいと願った。
「だけど、剣士になりたい」
長く話せず、一呼吸をする。
「鬼に苦しむ人達を、救いたいんです」
はっきりとした口調に、鱗滝はそこに深い覚悟を見た。

両親を失った時から、狭霧山に来た時から、その意志があったのは良く知っている。
しかし、藤の山で更にその想いが濃く強くなったのだろう。
真っ直ぐな瞳に、人知れず小さく息を飲んだ。

「…呼吸は、身体を強くするものだが、欠けた能力を補う役割も持っている。鍛錬を続ければ…」
そこで一度、言葉を止めてから、今度はわかりやすく溜め息を吐く。
「その前に、今は傷を治す事を第一に考えなさい」
柔らかな口調に、名前は何度か瞬きをした後、小さく頷いた。

流れる沈黙に、ふと気付く。

「……そういえば、鱗滝さん…。私が眠っている間に…誰か、此処へ来ましたか…?」
「………。いや」
ややあった間に、違和感を覚えたが、疲労も手伝って
「……そう、ですか」
と返すだけにした。
ゆっくりと目を閉じたかと思えば、すぐに規則的な呼吸を繰り返し始めた名前を眺める。

鱗滝は一つだけ、嘘を吐いた。

本当は、名前が帰ってきた翌晩、冨岡義勇は此処にいた。
鱗滝が知らせた訳ではない。
恐らくではあるが、どこからか名前が最終選別へ向かった事を伝え聞いたのだろう。

布団の傍らに座り、ただ眠り続ける姿を眺めている背中に、声を掛ける事はせず、見守るだけにして部屋を後にしたため、その後義勇がいつ出ていったのかすら把握はしていないが。

「……義勇。これで良いのか?」

そうして空を見上げた。

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消えていく問い

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