雲路の果て | ナノ 02




鱗滝が言った六日後が過ぎ、二度目の朝を迎えた日、名前は落ち着かない様子で、寝床から玄関の戸の方へ視線を向けたり、天井を眺めたりを繰り返していた。
叶うならば今すぐにでも此処から飛び出して、先刻家を出た鱗滝を追いかけたいくらいだったが、傷が治りきっていないため、床から起き上がる事は難しい。
難しい、が正直に言えば、起き上がる事くらいは出来る。無理をすれば走る事も可能だ。
ただ、それをすれば確実に固定している骨がずれ、鱗滝に叱られる未来が目に見えていた。
ただでさえ出る前に
「此処から動いてはならんぞ。良いな?」
と天狗の面で圧をかけられたのだ。



雲路の


「…錆兎…義勇…」

何も出来ない苛立ちと、不安から小さく名を呼ぶ。
最終選別が終わっても、帰ってきていない彼らの情報が入ってきたのは、まだ陽が登りきっていない頃。
訪ねてきた隠の報告に、鱗滝が珍しく焦ったように身支度を始めた。
「…どうしたんですか?」
「生きて、いた…?」
それは名前の問いに対する答えよりも、自分自身に発せられたもの。
まるで思いもしなかった吉報を、噛みしめるように。

最終選別からとうに二日は経っている。
錆兎と義勇は、この狭霧山に帰ってきていない。
それだけで、鱗滝の中で答えは出ていた。

また、死なせてしまったのだ、と。

錆兎と義勇だけではない。これまで育手として何人もの子供達を最終選別へ送り、その亡骸さえ、終ぞ帰ってはこなかった。
だから、錆兎と義勇も、そうなのだろうと諦めにも似た気持ちでここ数日を過ごしていた。
しかし、今…

「夕刻には戻る」

何度も瞬きをしながら鱗滝を見つめる名前に、まだ事実かどうかも確定ではない情報を伝える事を躊躇った。
ただでさえ、今のただならぬ空気を察知してその重い身体で起き上がろうとしているのだ。
それをハッキリと知れば、無理にでもついてこようとするだろう。

「此処から動いてはならんぞ。良いな?」

有無を言わさぬよう強い口調で念押しをすれば、黙って頷くのを確認し、鱗滝は家を後にした。


* * *


「…またへばってんのかよ。置いてっちまおうぜ」
からかう口調、悪戯っぽく笑ういつもの表情。
「…ちょっ!!錆兎!?…ひどい!」
足元から膝辺りまで上がる視線で、自分が起き上がった事に気付いた。
「動けんじゃん」
「動けるけど辛い!今肋骨の辺りがビキッてきた!」
はははっと軽やかに笑う姿から視線が動き、大きな左手が目の前に差し出される。
それが義勇のものであるのは、すぐにわかった。
「掴まれ」
いつも差し出してくれていたその手に触れようと手を伸ばした所で、まるで作り物のように視点が変わった。
見えるのは手を差し出した義勇と、その手を掴む名前自身。

まるで優しく見守るように
これは、誰の記憶──?


いつの間に、眠っていたのだろう。
浅い眠りから覚め、もうすぐ夕刻を迎えようとしているのを空の色で認識する。

それと同時に、玄関の引き戸がガタッと音を立てるのを耳に入れた。
鱗滝一人の気配じゃないのが感じ取れる。
錆兎と義勇が帰ってきたのだと、確信した時には、もう既に床から抜け出していた。
「鱗滝さん!!」
今、自分が出る限りの声を出しただろう。

義勇を背負う鱗滝を視界に入れて
「……義勇!!」
左足を庇いながらもその姿へ走り寄る。
「最終選別生き残ったんだね!良かった!!良かった…!!」
ポロポロと勝手に零れ落ちる涙。
視界が滲む中、義勇に触れようとした両手はハッキリと拒否されるように避けられた。
「………義勇?」
明らかにこれまでの義勇とは違う、冷たい表情に戸惑いながらも、行き場のなくなった手を下ろした。
そうして、別の事に気付く。
「……。鱗滝さん、錆兎は?」
天狗の面に視線を向けるが、何も答える事はない。
その沈黙で、わかった。

死んだ…?
死んでしまった?
あんなに強かった錆兎が?

「……っ……!!」

その名前を叫ぼうとしたすんでの所を、両手で抑え込んだ。

涙を流してはいけない。
自分が悲しんではいけない。
今一番辛いのは誰でもない
義勇なのだと。

生き残ったとはいえ、傷を負っている。
精神面はそれ以上のものだろう。

叫びそうになる声を必死に飲み込んで
「……お帰りなさい、義勇」
無理矢理作った笑顔は、誰もが見抜いていたのだろう。
それでも、それに触れる者はいなかった。


* * *


「…義勇、薬と白湯、置いておくね」
眠ってはいないのだろうが、静かに目を瞑る姿につられるように、小声でそれを枕元の置く。
立ち上がると同時、右肩に痛みが走ったが、それは呼吸を整える事で何とか紛らわす事が出来た。

義勇が狭霧山に帰ってきてから一週間はゆうに経っている。
傷を負ったにも関わらず、ここ数日で幸いにも回復の兆しを見せていた。
見せてはいるが、最終選別から、正確には最終選別を終え帰ってきてから、義勇はまるで人が変わってしまった。

錆兎がいた頃は、小さな事でも楽しそうに笑っていたのに、帰還後の義勇はまるで氷のように、冷たい表情のまま、色をなくしてしまった。
そして、そんな姿を心配する名前を避けるようになる。

最初は、一時的なものかもしれない、と思った。
共に最終選別を受けられなかった事。
生き残れたものの、傷を負い鬼を倒す事なく気絶してしまった事。
そして何より、錆兎が死んでしまった事。

辛いだろう。
優しい故にすぐに切り換える事など無理に等しい。

きっと傷が完治して、義勇の心が落ち着けば…

その一心で、義勇の看病を続けていた名前に、鱗滝は特に何も口出ししなかった。
義勇を迎えた際、若干無理が祟った骨折痕もただ黙って医者を呼んだだけで、咎められる事はなく、今も自分より義勇を優先しているその姿を止める事なく見守っている。

それでも、義勇は名前に笑いかける事はなかった。

鎹鴉と日輪刀、そして、隊服を支給されたのは怪我が完治を迎える少し前。
鬼殺隊の隊士として責務につくため、狭霧山を離れる時が日が来た。

「…義勇!」
その頃には名前も快方に向かっており、引き摺る事なく両足を地面につけるまでになっていた。
鱗滝の後ろからひょこりと顔を出せば、その目が反らされる。
「これ!お腹空いたら食べて?」
両手で差し出したのは三つほどの握り飯。
竹皮の上から風呂敷に包まれているため、義勇にとってはそれが何か正確に把握できていないだろう。
それに視線を落としたまま動かない姿に助け船を出すように
「持っていけ。お前の力になるだろう」
静かに言えば、何度か瞬きをした後その包みを受け取った。
懐にしまう動作に安心して微笑む。
「…頑張ってね!私も最終選別受けたら…」
「やめた方がいい」
遮るように酷く冷たい声が響く。
「……え?」
「お前のような人間は生き残れない。無理だ」
反論も出来ず黙り込む名前に、義勇は最後まで目を合わせなかった。

義勇の言う事は、至極尤もだった。
錆兎ですら藤の花の山から帰ってこられず、辛うじて生き残った義勇は怪我を負った。
実力を考えれば、名前が最終選別に生き残れる可能性は限りなく低い。
だから、その言葉が出たのだろう。

泣いてはいけない、と。

そう思うのに、頬を伝うのは止まらない。
静かに項垂れる名前に義勇は目を伏せ、背中を向ける。
鬼殺隊の制服に羽織った着物の半分は錆兎のもの。

瞬間的に錆兎が重なったような、幻覚を見た。

「……っ!」

反射的にその羽織を掴もうと手を伸ばしたが、それもすぐに我に返り両手をギュッと握る。

「…気をつけてね!義勇!!」

振り返らず歩み始めたその背に掛けられる言葉は、それだけだった。


Pray
どうか、生きて

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