雲路の果て | ナノ 43



…終わった。
やっと、何もかも。

真っ青な空を見上げながら、冨岡義勇は息を吐いた。
それだけで全身に感じる激痛に眉を寄せたが、そのせいでまたいつ打ったのかもわからない頭が更にズキッと痛みを走らせる。

無惨を倒しただけでは終わりではなかった。
あの鬼は朽ちる直前、自分が取り込んでいた炭治郎を鬼にするという何とも最悪な置き土産を用意していた。
しかしそれも、駆け付けた禰豆子と胡蝶しのぶが遺したという人間に戻す薬をカナヲが炭治郎に使ったため、事なきを得たが…。

無惨襲撃からの上弦の鬼との対峙、そして炭治郎の鬼化。
これがたった一晩の内で起こった。
その激動を冷静に思い返せる程、今はまだ頭の整理が出来ていない。

「とりあえずの応急処置は…これで…」
「…助かった」
同じように手当てされている炭治郎達を安堵に近い気持ちで眺めてから、おもむろに立ち上がる。
「…き、傷が酷いのでもう動かない方が…!」
狼狽する隠に背を向け歩き出した。


雲路の


「…名前…」

隊士と隠に囲まれ、横たわる姿に傍へしゃがみ込む。
「…水柱…」
全員の視線が注がれるも意に介さずその右頬へ左手を添えた。
外気に触れ若干冷えてはいるがそれでも奥から感じるのは温かさ。

生きている

「…良かった…」

意識せず、そう呟いていた。

痛々しく巻かれた包帯と無数の傷に目を細める。
目蓋にこびり付いた血液を拭うため、指の腹で優しく触れると僅かに反応を見せた。
「……ん…」
その名を呼ぼうとしたと同時
「苗字さん!?」
「意識戻りそう!?」
三人の隊士が身を乗り出した事で完全に出遅れた。
ゆっくりと開かれた瞳は、ぼんやりと力なく瞬きを繰り返す。
「戻った!!」
「わかりますか!?」
「苗字さん!!」
三人の口の動きを同時に読む事が出来なかったが、何となくの意味は理解出来た。
未だにゴォ―…と重低音を響かせる右耳は回復まで時間がかかりそうだと自覚する。
どれくらい気を失っていたのだろう、と状況を把握するために動かした視線がその姿を捉えた。
「…ぎ、ゆぅ…」
「大丈夫か?」
「…ぎゆ…、は?」
「見ての通りだ。生きてはいる」
右手を失くしはしたが崩さない涼しい顔に安心し、起き上がろうと力を入れる。
「苗字さん、無理しちゃ…!」
止めに入る三人の合間を縫い義勇は左手でその背を支えた。
「…あり、がとう…」
嬉しそうに微笑う名前に、隠二人は空気を察知したかのように
「…私達は他の隊員の元へ向かいます!何かあれば呼んでください!」
矢継ぎ早に言うと早々に走っていく。
「…な、俺達も邪魔なんじゃないか…?」
耳元で呟く隊士に二人が迷いながらも小さく頷く。
「…わ、私達も他の隊員の手伝いに行ってきます!」
「また後で戻ってきますね!」
「苗字さんの事お願いします…!」
返事をする前に散っていく三人に、名前は瞬きを何度かすると
「…な、なん、て言ってたの…?」
義勇の瞳を見つめた。
「他の隊員の手伝いに行くと…」
そこまで言ってから言葉を止める。
瞳から口元へ移る視線ですぐに確信へ変わった。
「…耳が…」
小さく頷く名前に眉を寄せるも
「…鼓膜が…破れてる…だけ」
大丈夫、というように微笑う表情に胸を撫で下ろす。
「……ありがとう…」
傍らに転がる日輪刀を目端へ入れた事で先程の光景が蘇った。
ただ必死だった、なんて口には出せず目を細めるだけを返す。
「…ボロボロだな…」
「…ぎ、ゆうも…」
小さく笑いながらも名前の右手が二の腕に巻かれた包帯へ触れた。
「…腕、な、なくな、っちゃったね…」
「…大した事じゃない」

生きている。
それだけで良いと、今は嘘偽りなく言える。

その指が右腕から胸板、そして左頬へゆっくり動く。
まるで目の前の存在を確かめるように。

「……おかえり、…義勇」
「…ただいま…」

見つめ合うと小さく笑ってから自然と口唇を重ねた。

* * *

二週間後―
コンコン、と戸が叩かれた次に
「苗字さん、冨岡さん、こんにちはー」
溌剌とした声がし、戸が開けられる。
「…こんにちは」
ひとつのベッドの上、蝶屋敷の入院着に身を包み、将棋盤と向き合う名前と義勇から浴びる視線に女隊士の表情が見る見る内に険しくなった。
「…あー!何で寝てないんですか二人共!」
つかつかと入っていく背中に続いて、同期二人も
「お邪魔します」
小さく呟くと部屋に入る。
「手先を使う練習してるの」
義勇の左手、人差し指と中指には将棋の駒が挟まれているが、その動きは目に見えてぎこちなく小刻みに震えていた。
それでも盤に置かれた飛車に名前が小さく唸ると
「…負けました」
頭を下げる。
「義勇、強いねぇ。一回も勝てないや」
「名前が弱いだけだ。戦略が正直過ぎる」
もう一度再開させようと駒を動かす二人に

バンッ!!

思いっ切りそれを叩いた。
その反動で駒が布団へと散らばった事で同時に動きを止め、瞬きを繰り返す。
「バカなんですか!?まだ二週間しか経ってないんですよ!?練習より静養です!!寝てなさい!!これはもう没収しますから!!」
「…ご、ごめんなさい」
余りの気迫に完全に押された名前が小さく謝るのに対し、義勇は聞こえていないふりで顔を背けた。


「…ほんっとに、何なのあの二人!」

廊下を歩きながら叫ぶ女隊士に、部屋を掃除した際に出た塵を纏めた袋と出た洗濯物を手に歩く同期二人が苦笑いをする。
「…気持ちはわかるけど、一応上司なんだし…バカはやめた方が…」
「苗字さんはともかく、良く怒らないよな…冨岡さん」

この三人が義勇と名前が静養する蝶屋敷の部屋に訪れたのは今日が初めてではない。
蝶屋敷の人員が足りないのならば自分達が二人の身の回りの世話をすると志願した。
最初こそ断られはしたが、三人、特に女隊士が強く所望した事で、名前達が折れる形となり、それから毎日欠かさずに此処に訪れては、片手ずつでは作業が難しい着替えや清拭、蝶屋敷の負担になる洗濯や食事の配膳、片付け等を担っている。
それも全て、傷を治す事だけに集中して欲しいという想いからなのだが、あの二人は目を離すとすぐ先程のように無茶をしたがる。
いや、本人達にとって無茶という認識はないのだろう。
実際このたった二週間、二人の回復力には目を見張るものがあった。
それは"痣"が発現した賜物なのもそうだが、名前に至っては『漆ノ型 渦巻星雲』を正しく使いこなした事が大きい。
漆ノ型の呼吸法は、単純に攻撃だけに徹したものではない。
自己再生力を最大限に高める役割も担っていたため、たった数日で身体能力を回復する事が出来た。
しかし本人を始め、誰もその事実には気付く者は居ない。

「…ほんともう…二人共似てるんだから」

呆れに近い溜め息を吐きながらも二人から放たれる独特の穏やかさを思い出し、頬を緩ませた。

* * *

並んで置かれた二つ分のベッド。
女隊士によって、ほぼ無理矢理に入らされたそれに横たわりながら、義勇は左掌を天井へ向け閉じたり開いたりを繰り返す。
失った右手とは違い、まだ指先まで思うように動かないそれにグッと力を入れた。
刀を持つ事は出来ても、細かい作業をするのには今のこの手一本では正直難しい。
早く日常生活に戻さねば、と眉を顰めたあと小さく溜め息を吐く。
名前を慕い、連日訪れる癸の隊士三人に助けられているとは言え、同じく片腕が使えないその細腕の負担にはなりたくない。
せめて名前の左腕の骨がつくまでには…
そう考えながら左へ視線を動かしたその先、天井を見つめる横顔に気付いた。

うつらうつらとする瞳は閉じたかと思えばすぐに開くも、また閉じて開くの繰り返し。
眠らないようにしているのだろうと気付き
「…名前」
声を掛けるも反応がない事で、あぁ、そうだったか、と心の中で呟いた。
鼓膜が破けた、そう言っていた右耳。
完全に再生しても尚、その聴力は僅か三分の一まで低下していると知ったのはあれから二日後の事だ。
この距離、かつ義勇の声量では名前の耳には音として認識出来ない。
もう一度
「名前」
今度は意識して声を張り上げた。
「…うん…?」
眠そうな瞳が義勇の方へ向けられる。
「眠いのなら寝て良い。俺が起きてる」
それが恐らく自分達のため動いてくれている隊士三人への配慮なのだと容易に窺い知れるためそう促せば小さく首を振った。
「…大丈夫…」
「大丈夫じゃない。昨日も碌に寝ていないだろう」
「…禰󠄀豆子ちゃん達、ご飯食べたかな?」
ぽつりと零した一言に、また自分の事より他人を優先しようとする、と出しかけた言葉は寸での所で飲み込んだ。
無惨を倒した後の事は、義勇からかいつまんで聞いてはいたが、自分が目を覚ました時には炭治郎はいつもの炭治郎に戻っていた。
「…今日もお見舞い行ったら迷惑かな?」
「迷惑ではないだろうが…連日はお前の身体に対する負担が増える上に隊士達に叱られるぞ」
「……そうだね…心配、させちゃうもんね…」
そうしてまた、天井を眺める瞳から涙が一筋伝う。
それが契機となり、ポロポロと零れていく。
声にならない嗚咽に、恐らくではあるが何を思っていたのか、理解をした気がした。

きっと、胡蝶しのぶに思いを馳せているのだろう、と。

「…ご、ごめんね…!」
義勇から顔を逸らすため寝返りを打った背中が小さく震えている。
思えば、こうして名前が涙を見せるのは無惨との戦いを終えてからは初めてだった。
ずっと我慢をしていたのか、それとも実感が湧かずにいたのか、もはや名前本人でさえ説明が出来ない。
声を押し殺す痛々しい姿に義勇は起き上がるとベッドへ潜り込み背中を包んだ。
「…義勇…!」
左手一本ではあるが今出来るだけの力を込める。
「隠さなくて良いと、前にも言った」
「……っ…っ、…」
しゃくり上げる声と共にパタパタと枕へ落ちていく涙の音を聞いた。
「…しの…しのぶさん…!帰ってくるって…笑ってたの…!」

きっと不安にさせないためだったのだろうと、今になって気付いても遅い。
蝶屋敷に運ばれた際、栗花落カナヲからしのぶの最期について聞く事は出来たが、それでまた、知ってしまった。
あの時のしのぶはもう、命を賭して鬼を倒す覚悟を決めていた事に。
知っていたら、止める事が出来たかと言えば、それも叶わぬだろう。
あのしのぶが、説得など聞く筈がないのはわかっている。
けれど、何かひとつ、何かひとつでも…と後悔が止めどなく湧き上がる。

「…しのぶ…さッ…!!…っひ…ッ…く!…しの…ぶさん…!!」

義勇の左腕に縋りながら泣き続ける背中を抱き締める腕を強めた。
名前に伝え聞いていた通り、不在が増えたしのぶを最後に見かけたのは無惨が襲来する三日前。
あの時には、彼女の中で何か既に感じるものがあったのだろう。
「ここ何年かずっと害虫駆除をしてきましたがそれももう、必要ないみたいですね」
微笑んだしのぶは
「やっと、手を離す事が出来ます」
寂しさを宿した瞳でそう言っていた。

あれは、どういう意味だったのだろうかと頭の隅で考えたが本人に訊く以外、答えがある訳ではなくそれはもう知りようがない。
こうして泣いている名前に、しのぶならどんな言葉を掛けるのだろうか。
それももう、正解を知る術もない。

あやすように頭を撫でる事は叶わないが、それでもただその涙が止まるまで抱き締めていた。



「……ごめんね…もう、大丈夫…っ」
鼻にかかった声でそう言った名前が離れようとしているのに気付き、逃がさぬように力を強める。
「何故すぐに離れたがる?」
義勇が眉を寄せたのを窺い知る事が出来ないが、不満そうな口調なのは声色で容易にわかった。
「…だって、私お風呂入ってないから…」
気が付いたのは勝手に溢れ出る涙が漸く止まった後。
湯を浴びられない代わりに毎日女隊士が清拭の介護はしてはいるが、今日に至ってはそれもまだしていない。
「…風呂に入ってないのは俺も同じだ」
「義勇は大丈夫だよ!わ、私…多分臭いから…」
「臭くない」
未だ腕の中から抜け出そうとするその頭に顔を埋めた。
「…義勇…!」
「…名前が、生きてる匂いがする」
噛み締めるように出したその言葉に、逃げようとしていた力が弱まる。

生きてる
生きて、いる…

そう実感した瞬間、鼻の奥がツンと痛くなった。

貴方にも、生きていて欲しかった。
そう思わずにはいられない。
此処でメソメソと泣いている自分を見たらまた厳しくも優しく、叱ってくれるのだろうか。

(しのぶさん…)

包まれる温かさに泣き腫らした重い両目が勝手に下がっていくのを感じる。
眠ってしまいたくはないと思うのに、ゆっくりと目蓋を閉じた。

微かに聞こえてくる寝息に、義勇は顔を上げると小さく息を吐く。
(…寝た、か)
多少なりともその心を蝕むものは拭えただろうか、と安堵した。
先程、昨日と限定的には言ったものの名前がここ数日、全くと言って良い程眠れていない事を知っている。
精神的な起因が大きかったのかも知れない。
怪我の治りが早いせいも手伝って、常に何か気が紛れるものを探しているように見えた。
炭治郎達の見舞いと称し松葉杖を片手に右足を引き摺る姿はとても痛々しく、だからこそ自分が早く日常へ戻らねばならないと考えていたのだが、少しずつ名前の中で、しのぶの死を始めとする全ての事実を、受け入れ始めているのだろうと感じている。

ゆっくり上半身を起こすと未だくっきり残る涙の跡を拭うよう接吻を落とした。


女隊士がコンコン、と音を立ててから戸を開けたのはそれから半刻程が経った時。
「…苗字さん、そろそろ身体拭き…」
続く言葉を止めたのは、ひとつのベッドの中、身を寄せ合っている二人に気付いたためだ。
腕の中で眠っている名前の表情は穏やかで安心しきっているように見える。
守るように抱き締めている義勇の寝顔も無防備なもので、自然と頬が緩まるのを感じながら、音を立てぬようそっと扉を閉めた。


Harmony
調和して混ざり合う

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