雲路の果て | ナノ 42


「地面に潜ろうとしている!攻撃して無惨の体力を削れ―ッ!!」

悲鳴嶼行冥の叫びが木霊する。
「…皆さんはここで待機です!」
支えていた腕を擦り抜けた背中に
「苗字さん!!!」
その叫びは届かなかった。

望むように前に進まない。
それでも引き摺りながら辿り着いたその先
「…名前!?」
義勇の声がしたが、それが耳に入る事はなく、真っ直ぐ無惨を見つめるとへ右手を大きく振り被った。


雲路の


(…何故、今また…!!?)
拾ノ型を出しながら義勇が眉を顰めたのも無理はない。
先程あれだけの傷を負ったにも関わらず、この状況で再度その型を繰り出すのはもはや運否天賦ですらなく完全な自殺行為だ。

漆ノ型 渦巻星雲
息遣いを一切許さぬ型

呼吸法を深く知る手練れであればある程、それがどんなに危険な型なのか実際に目の当たりにせずとも手に取るようにわかる。
鱗滝は雲の呼吸の文献からそれを知り、どんな状況に陥っても使う事がないよう何度も言い聞かせた。
しかし今、実際にその型を繰り出した名前だけが得た事実がある。

漆ノ型は、人間にとって絶対的に不可能な技ではないのだ、と。

大きく振り被った姿勢から身体を捻るのは二回転半。
先程無惨を向かい討った際、完全に呼吸を止めざるを得なかったのは、呼吸の順番が間違っていたためだったのだと確信を持っていた。
本来の『漆ノ型 渦巻星雲』は、肺の空気を完全に排出してから呼吸を止める。
そして型を繰り出しながら半回転した所で息を限界まで大きく吸う。
そして二回転に達した所で肺に溜めた空気を吐く。
禁じ手とされた所以は、一秒の狂いも許されないその呼吸法の難しさだった。
千年余りを経て、漸く見えた真実を此処で証明するために大きく息を吸う。

『雲の呼吸』

肺に残る全ての空気を吐き切って、前だけを見た。

『漆ノ型 渦巻星雲』

義勇が繰り出した型に間髪入れず轟音を立てたその刃は無数の星が降り注ぐように身を斬り裂く。
一秒も狂わない呼吸で作られたその渦は、先程の威力とは桁違いに深い斬撃を与えた。
頸部で止まった切っ先と共に、一切の動きを停止させた無惨に、隠達の表情が期待に満ちていく。

「…………」

突如として訪れた静寂。
待ちに待った無惨の最期を迎えられるのだと、思わず歓喜の声を上げそうになった瞬間、また地面へ潜っていく動きに一気に空気が張り詰めた。

「…くっ…!」

刺さったままの切っ先を渾身の力を込め引こうとするが、追い詰められたこの状況にも関わらず未だ硬さを保つ無惨の身によって止められていた。
この体勢からでは漆ノ型は使えない。
別の型を繰り出そうと柄を握ろうとするも、激しく痙攣する右手はとうに限界を超え悲鳴を上げていた。
刀を離そうにもきつく結ばれた羽織はすぐに解けない。

それならば…

左手を添えると今自分が出来うる最大の力を込める。
身体中に走る激痛に上げそうになる叫び声は歯を食いしばって耐えた。

「苗字さん!?何して…!!離れないと!!」
届く事がないとわかっていても叫ばずにいられない。
刀を握り続ける名前の必死の表情に意図がわからず困惑していた。

「巻き込まれる…!」
「…そうだ!…手が放せないんだっ!!」
「苗字さん!!」
状況を理解し刀が抜けるよう更に傷を抉ろうと型を繰り出す隊士二人と同時、女隊士が名前の身体を全力で離そうとするも、尚地面へ向かう無惨の力には到底及ばない。
「…来ちゃダメ…ッ離れ…てください!!」
「ビクともしない!っそれ!取れないのか!?」
「解いてたら間に合わない!!」
徐々に無惨に引き込まれそうになる名前の両手は尚その身を斬り込もうとしている。
「離してください苗字さん!!」

ゴギ…ッ!

左腕から聞こえてくる何かが砕ける厭な音。
思わずその両手を掴んでいた。
「苗字さんやめてっ!!」
「早く離れてッ!!」

この状態で選ぶなら、それはもう身を護る道じゃない。
無惨の身に、僅かでも深傷を負わせる。
一秒でも長く、この場に留めさせるために。
鬼殺隊が尊い命で繋いだこの最期の好機を無駄にしてはならない。
命を賭して、無惨を討つのだと。
諦めたりはしてはいけない。
心臓が止まる最期の瞬間まで力は抜かないでいる、そう決めた。

「…苗字さ…」

名前の気迫に圧されたものの、すぐに決意に満ちた表情に変えると、女隊士は両手にグッと力を込めた。

「離れません!!」
その叫びに呼応した同期二人が更に加勢に入るもその刃が僅か動くだけで、地鳴りを上げながら姿を隠そうとする動きは止まらない。
「ッくっそ!!かってェ!!」
「この!!さっさと苗字さんに斬られなさいよッ!!」
「…わ、私のこ…よりっ!早く!!は、離れ…ッ!!」
「…チィッ!」
風柱・不死川実弥、蛇柱・伊黒小芭内が型を繰り出す刹那、義勇は名前の元へ走り出した。

片手でいくら型を繰り出そうと名前の日輪刀を無惨から引き剥がすのは至難だ。
ならば右手を犠牲にしてでもその命を選ぶしかないかと思考を巡らせた所で、ひとつの可能性に気付いたが、それが実証的かどうかを冷静に熟考する時間もない。
間合いに入る僅かな間、目を凝らし探し出した。

その刀身に存在する刃毀れを。

名前が無限城を抜け出すまでの間を想像すれば、それは間違いなく存在している筈だった。
上弦の鬼に遭遇していなかったとしても、魑魅魍魎と張り巡らされていた下弦程の強さを持つ鬼と名前が戦っていない訳がない。
隊士達を連れていたのなら尚更。
案の定、いくつかの刃毀れを確認した中、一番深い一つの傷に下方から上方へ刀を振り上げた。
行冥が無惨へ絡めていた鎖が千切れたと同時、義勇が振るった刀が寸分の狂いもなく垂直に刺さる。

「刀は縦の力には強いが横から、特に垂直の力には弱い」

鱗滝左近次の教えを思い出したのは上弦の参・猗窩座に刀を折られた時だったように思う。
拳で刀を折るなど、到底真似出来る芸当ではないが。

ピタリと止めた刀身と共に目を見開く名前を視界に入れる。

パ、キィッ!

乾いた音を立て真っ直ぐ折れた日輪刀を認識するより早く
「離れろッ!!」
力の限り叫ぶ義勇に隊士三人はすぐに名前の身体を担ぐと走り出した。

「大丈夫ですか!?ってそうか聞こえないんだった!」
「…呼吸は!?」
「してる!」
「心臓も動いてる…!」
お互いに確認しながら開いてしまった傷口に布で押し当てる。
「…苗字殿!大丈夫ですか!?」
走り寄ってくる隠二人に
「手当てを手伝ってください!右足を固定し直して…!」
早々に指示を出せばすぐに返事が返ってきた。
「刀外しますね!」
「……む、…ざんは…」
口元から流れる血液を手巾で拭くと、背後で聞こえる「無惨を倒した!」と湧き上がるこれ程にない歓声に涙が溢れた。
「…苗字さん」
「無惨…た、倒れました…!倒しました!」
「…苗字さんのお陰ですよ…!」
「………」
安心したように力なく微笑むと、フッと意識を手放した名前に声を上げそうになったが
「…気絶しているだけだと!」
隠の言葉に涙を拭う。
正真正銘、最後の力を振り絞ったのだろう。
「…左手は?もう一度包帯巻き直す?」
「いや、腕自体は大丈夫。でも小指と薬指が折れてる」
「…俺が巻くよ」
意識がないといえ、出来るだけ痛みがないよう丁寧にその細い指へ包帯を充てた。
「…ずっと、守って貰ってたな…俺達」
「こんなに…なるまで…俺達、何にも…出来なくて…」
「…悔しいな…」
「うん…」
「…謝らなくちゃ…」
「…うん…」
名前が居なければ、自分達は確実に無限城で命を落としていた。
その身を犠牲にしてまで無惨を止めようとした今も、何ひとつ力になれなかった。
身に染みた事実に二人が涙を流す中、
「…バカじゃないの」
冷たく飛んだ声に顔を上げる。
「アンタ達、そんな事言って貰って苗字さんが喜ぶと思ってんの?すみませんって言って何か変わるの?」
悔しさを感じているのは二人だけじゃない。
何も出来なかった、その事実に打ちのめされそうなのは自分も同じ。
同じだからこそ、前を向くんだ、と名前に教えられた気がする。
「苗字さんが目覚めた時に絶対にそんな事言わないでよね」
「…でも…じゃあ何て言ったら…」
「…それにどういう顔して会えば良いか…」
「そんなの自分達で考えなさいよ」
巻き終わった包帯をしまうとすぐに額の傷を確認する。
「私はすみませんって謝るより、苗字さんに生きててくれてありがとうって伝えたい」
「……。そっか…、そうだな」
「…うん、そうだ…。そうしよう…」
遠くで聞こえ始めるざわめきに
「…どうしたんでしょう?」
隠が僅かに顔を上げたのにつられて二人がそちらへ視線を動かすも、此処からでは判断出来ない。
完全に動きを止める姿に眉を寄せると強い目を向けた。
「手、止まってる!」
「あ、あぁ…!」
「悪い!」
その言葉に慌てた様子で手当てを再開させた。


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