雲路の果て | ナノ 44

「……ッ…ぐ…う…っ!」

暗闇の中、必死に押し殺す声が聞こえ、名前は目を覚ました。
静かに起き上がると同じように上半身を起こし背中を丸めている影。
「…窓掛け、開けるね」
ベッドから降り、閉じられていた布を引くと月明かりに照らされるのは苦痛に満ちた表情で右手の切断面を押さえている義勇。
「…っ…すぐに…ッ治まる…ッ!…名前は…ッ寝てろ…」
そう言いながらも脂汗を流し項垂れる頭にそっと近付くとその隣へ腰を下ろした。
「…大丈夫」
右腕へ触れた手が優しく、そして柔らかく、力が入り固まる筋肉を解くように動いていく。
「……は…っ…」
傷みのせいで勝手に出る唸り声を耐えようと呼吸を止めていた事をその刺激で気付き、息を整えた。
「大丈夫だよ…」
そう言いながら按摩を続ける名前の右手の温かさに無意識に強張っていた肩の力が抜けていく。
「…悪い…っ…また…起こした…」
「義勇?謝らないでって言ったでしょ?」
ムッと口を尖らせた表情もすぐに笑顔へ変わり、その穏やかさで徐々に痛みが和らいでいくのを感じた。


雲路の


「…だいぶ、楽になった…」
眉間の皺が消えた事で名前は微笑むと
「もう少し解しておくね」
それだけ言うとまた優しく揉み始める。

なくなった筈の右腕が、まるでそこにあるような感覚に陥り痛むようになったのは、義勇が目を覚まし、割とすぐの事だった。
特にこうして、気が落ち着く夜中はそれが頻繁に生じる。
最初こそ右腕を押さえ悲痛な声を上げる義勇に、何かあったのではないかとアオイを呼んだりもしていたが、ある日の昼ひなか、未だ眠り続ける炭治郎達のついでと言いながら訪れた宇髄天元によってその身体に何が起きているのかを知った。

「冨岡、お前、右腕がものすごく疼いて痛む時あるだろ?」

まるで核心をついた台詞に食い付いたのは当の義勇より名前の方。
どうしたら改善されるのか訊ねた所、それが『幻肢痛』というものだと知らされた。
「俺も胡蝶に聞いたんだけどな」
そう前置きをしてから、かいつまんで説明されたのは、それは実際の痛みではなく、脳が誤認しているものであり、切断された直後は顕著に起こりやすいという。
そしてそれは、対処する術もないという事も。
「多分、此処数ヶ月は特に辛いと思うが耐えるしかねぇ」
そう言った左腕を視界に入れ、俯いた名前には、天元の嫁の須磨、まきを、雛鶴がその経験から最も効いたという按摩を伝授した。
それは顕著に効果がある訳ではないが、気が紛れはするだろうと、三人が言うのを天元は
「どうだ。俺の嫁は優秀だろ?」
と惚気に近い台詞を吐いて帰っていったのを思い出す。

教えられた通り、懸命に揉み解す真剣な表情に義勇は眉を下げたものの、左手でその頬を撫でると顎を持ち上げる。
「…義勇?」
途端に丸くさせる瞳に
「…もう大丈夫だ」
それだけ言うと触れるだけの接吻を落とした。

* * *

「…これ…。もしかして…もう骨くっついてませんか…?」
アオイが驚愕した表情でそう言ったのは、それから二週間後の事。
左腕の包帯を替えようとした所で気付いた。
通常、折れた骨が四週間足らずで接着する事などある筈がない。
例え全集中・常中を会得し痣を発現、そして漆ノ型を使いこなしていたとしても、骨という組織を急速な再生へ促す事は不可能であり、それ自体は、まだ完全に繋がってはいなかった。
しかしアオイがそう勘違いしたのは、再生を速められない骨の代わりに周辺の組織が変化した奇効によるもの。
欠損したままの骨を守るように筋肉を始めとする細胞全てが包み込んでいた。
「やっぱりそう思いますか?私も動かせるなぁって考えてたんです」
屈託のない笑みで答える名前もまた、その細胞の変化には気が付いていない。
「…どう、なってるんですか?苗字さんの身体…」
手伝いをしていた女隊士が畏怖に似た感情で呟くも、次に触れた薬指と小指の骨はまだ繋がっていない事に気付く。
そういえば先程替えたばかりの右足も此処まで急激に回復している訳ではなかった。
まるで左腕だけを身体が重点的に治そうとしているのが顕著に現れている。
何故?と考えようとした頭は
「冨岡さんの包帯替え終わりました」
義勇の清拭をするために別室に行っていた同期二人の声で遮られた。
「ありがとうございます」
深々と頭を下げる名前は、もはやいつもの事で、最初こそ頭を上げてください、だのそんな!だの狼狽えていた二人も、諦めて受け入れるようになっていた。
包帯から解放された左腕で早速伸びをする姿に女隊士が眉を寄せる。
「…だからって無理しないでください!?」
「はい!」
「わかってませんよね!?」
「は…」
言い掛けて慌てて噤んだ名前に、アオイと共に重い溜め息を出した。


両腕が使えるようになった事で、出来る事は飛躍的に拡がる。
左薬指、小指は未だ固定されたままだが今までの不自由さと比べれば何て事はない。

「クロ、お待たせ〜」
そう声をかけると擦り寄ってくる頭に頬が弛む。
別室で預かって貰っていた黒猫をこの部屋に招き入れて良いと栗花落カナヲ、そしてアオイに許可を得られたのも、左手が使えるようになったためだった。
同室である義勇の許可を取ろうとしたところ、訊ねるより先に耳には入っていたようで二つ返事を返された。
餌を入れる前に左手で撫でた温かい感触に嬉しさから目を細める。
「…ぎゆ」
顔を上げた先、険しいその表情に名を呼ぶ声を止めた。
目の前には御前に乗る二枚の皿。
その上には隊士に買ってきて貰った小豆が数にして十五粒並べられ、かたやもう一枚は空のまま。
その中の一粒を掴もうとするも、先が震えて上手く掴む事が出来ない。
それでも懸命に一粒掴むと、隣の皿へ移す。
ここ数日、ベッドの上でそんな事をずっと繰り返している。
怪我もまだ完治していない中、指先を使う動作の難易度を急激に上げたのは、思うよりも左手を上手く使えない焦りだというのは、名前も理解はしている。
しかし慣れない神経や筋肉を連日何時間も無理に使ったせいで何度も攣るようになった左手にアオイや癸の隊士達が止めようとするも
「良い。構わないでくれ」
その一点張りだった。

思い詰めたその表情に、名前は小さく「あ」と声を上げると自分のベッドの傍ら、小さな机の上に置かれた食べ終えた御膳から箸を手に取る。
今しがた片付けにいこうと思っていたのだが、ひとまず後回しにする事にして義勇の元へ立った。
「…どうした?」
口調こそ優しいものの、戻っていない眉間の皺に微笑むと左手で箸を持つ。
「私も機能回復訓練、一緒にしていい?」
「…好きにすれば良い」
「ありがとう」
一度手を止めた義勇の目の前にゆっくり座ると
同じようにツルツルと滑る小豆を掴もうとした。
しかしそれが、全く上手くいかない。
義勇が苛立つ気持ちを僅かではあるが理解しながらも、ブルブルと震える手でその一粒が掴めそうになった時、力を入れ過ぎたせいで箸先を擦り抜けると遥か遠くへ弾かれていった。

「………」

小豆が消えていった方向を向いたまま動かなくなる名前に
「…ブフッ…!」
耐え切れず噴き出す音。
項垂れながら肩を揺らす姿を捉え、眉を下げた。
「…何で、笑うの…?」
「悪い…余りにも見事に…飛んでいったから…っ…」
未だ笑い続ける義勇からは苛立ちと焦りが消えていて、安堵と共に何故か可笑しさが込み上げる。
「…ふふっ」
つられるように名前も小さく笑い声を上げた。

* * *

「…湯浴み、ですか?」
「はい。まだ無理…ですか?」

炭治郎達への見舞いに足を運び、自分の部屋へ戻ろうとした廊下でバッタリと会ったアオイに入浴の許可を貰おうとして声を掛けた所、若干眉を寄せられた。
「今日はまだ包帯も変えてませんし名前さんの傷が痛まなければ可能ですけど…ちょっと今は介助出来ないです」
忙しい上に人員が足りないのは今も変わらない。
先程まで居た癸の隊士三人も帰宅してしまった。
「大丈夫です!もう左手も使えますし」
「…わかりました。じゃあ準備してください」
「あ、あと…」
「なんですか?」
「義勇は、まだダメ、ですよね?」
「ダメです。右腕が化膿する可能性があるので」
「…頭を洗うのだけでも、ダメですか?」
眉を下げる名前に、暫し考えてから答える。
「洗髪くらいなら…。でも今は介助が出来ませんから…」
「私が洗います!」
「名前さんが…ですか?え!?」
「湯浴衣(ゆあみぎ)を着れば頭を洗うこともできますよね?」
一瞬悩んだアオイだったが、食い下がってくる瞳が真剣なもので「…はい」と小さく頷く。
「準備してきますね!」
松葉杖を突きながら軽い足取りで部屋へ戻る背中をただ黙って見送るしかなかった。

* * *

湯浴衣に身を包み、椅子に腰掛ける義勇の背後、名前は桶にたっぷり入った湯を持つ。
「かけるね?」
一言断りを入れてからゆっくりと頭の上から流していく。
「髪洗うよ?」
もう一度確認を取る姿に小さく「あぁ」と答えると久々に感じる湯の温かさの気持ち良さに目を閉じた。
名前は石鹸をある程度両掌で泡立てると、その長い髪へ馴染ませていく。
満足に手入れが出来ていなかった分、固く絡まった毛束を優しく手櫛で解しながら地肌から毛先まで丁寧に洗い上げた。
「…義勇、傷、痛くない?沁みたりしてない?」
「平気だ」
「良かった」
ふぅっと小さく息を吐いてから
「流すよ〜?」
またゆっくり湯をかける。
それを二回繰り返したあと、滴る水滴を優しく絞り手拭いで拭いた。
「あと少しで普通にお風呂入れるようになりそうだね」

切断した右腕の経過から見てアオイ曰く、あと一週間もすれば通常通り湯浴みも出来るだろう、と。
それでも義勇に対して洗髪の許可を急いたのは、日を追うごとに段々と思い詰めていく表情を少しでも弛ませられるものはないかと考えた結果。
温かい湯で髪を洗う事で少しは気分転換にもなるのではないかと、そう思った。

「義勇!一緒にお風呂入ろう!?」
戸を開くなりそう言った名前を見つめたまま箸先で掴んでいた小豆を落とす義勇に、事の経緯を説明すれば納得したようではあったが「俺は良い」の一点張りだったためほぼ無理矢理に浴場で連れてきた。
多少強引に誘ったものの、柔らかい雰囲気を放っているのを感じ、正解だったと考える。
「今日は身体拭くだけになっちゃうけど…」
そう苦笑いをすると、義勇の目の前にしゃがむと丁寧に顔を拭いていく。
「それくらい自分でやる」
「左手使えるようになったからそんなに気にしなくて大丈夫だよ?」
「そうじゃない」
小さく呟いた声を聞き取るため
「…ん?」
上目遣いで右耳を差し出す。
聴力が衰えてからそれは名前の癖となり、更にその仕草が義勇にとって愛しいものとなっているが、当の本人は知る由もない。
「この状況で余り近付かれるのは困る」
ただでさえ今もその耳に接吻を落としたい衝動を抑えているというのに、所々濡れた湯浴衣が身体に張り付いている事でくっきりとわかる身体つきに何処に目をやれば良いか正直悩んでいる。
「…義勇?」
意味が伝わっていないまま首を傾げた視線が考えるように下へ落ちた事で、突然熱が上がったのは、明らかに不自然な湯浴衣の膨らみに気付いたためだ。
「…気にしなくて良い。生理現象だ」
眉を寄せたまま手拭いを浚うと目を逸らす義勇はまた無理をしているようで、迷いながら口を開く。
「…我慢、しなくていいよ?義勇の傷が痛まないんだったら…あの…」
「良い。まだ骨折も完治してないお前に無理をさせたくない」
「…無理なんてしてないのに…」
困惑し口を曲げるその表情が、思い付いたようにその膨らみに触れる。
「…何を!?」
「こういう時ってどうすればいいの?どうしたら直るの?」
「何もしなくて良い…!放っておけばそのうち勝手に治まる」
「…そうなの?あ、ごめん!触っちゃった…!」
パッと放す右手と同時、また赤くなっていく頬に惹かれるよう勝手に動いた身体は、その腕を引き寄せると接吻をしていた。


Endurance
頑強も崩れゆく

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