雲路の果て | ナノ 40



彼女は、外に出られたのだろうか。
遥か遠くに見える天井を眺めながら、考えた。
急降下していく身体はこのまま叩きつけられて簡単に砕けるだろう。
呼吸を整えると日輪刀を鞘から抜く。
遮蔽物が一切ない空っぽの空間は、まるで奈落の底だ。
水の呼吸とは違い、直下に対する勢いを相殺出来る型は雲の呼吸には正直ないに等しい。

一瞬、一つの型を思い浮かべるも現実的じゃないとすぐに意識から消す。

この状況を打破出来る可能性を考えるならば、陸ノ型 雲竜しかない。

上へ、竜が登るように上へ、その型を呼吸が続く限りそれを繰り返す。
やがて着く地の底が何処かも予測出来ないが、それでも今はそれしかない、と息を吸った。


雲路の


鳴女によって作られた無限城が崩壊し、鬼舞辻無惨を外へ引きずり出す事は成功した。
成功はしたが、夜明けまではまだ気が遠くなりそうなほどに長い。

甘露寺密璃、伊黒小芭内、竈門炭治郎、そして冨岡義勇が束になってかかろうが、無惨の再生速度に追いつけない。
間合いに入り込み過ぎた瞬間、盾になった隊士達が刻まれたのを見た。
「臆するな 戦え──っ!!」
一気に雪崩込んできた隊士に、義勇は思考を巡らせる。
(統制が取れてない…!何故だ!名前は…!?此処にいないのか!?)
一瞬、目端で捉えた光景を再度確認する。
隠に背負われたその姿は頭部から出血している上に、ぐったりとしたまま動かない。
(…まさか…!いや、違う。気を失っているだけだ…)
次々と隊員が犠牲になる中、義勇は叫ぶ。
「…名前!!目を覚ませ!!指示を!!隊員に退避の指示を頼む!!」
このままでは手遅れになる。
柱が全滅した場合に備えなければ、鬼殺隊は終わる。
終わってしまう。いとも簡単に。

「名前ッ!!!」

守りたかった…

右肩に、そっと誰かの手が触れた気がする。

「名前さん?」

優しくて温かい、笑顔。

胡蝶様…?

違う。
これは…

「…し、のぶ、さん?」

「あ!良かった苗字殿!!目を覚ましましたか!落ちてきた時にはどうしようかと…」
「…何で…」
途端に目に入る惨劇に、口唇を震わす。
無惨によって切り刻まれる隊士達の中には先程、行動を共にした隊士達も混ざっていた。

(…何で…っどうして…)

「名前!!」

義勇の声で我に返ると即座に状況を判断した。
「助けてくださってありがとうございます!」
早口で言うとその背から降りる。
「苗字殿!!走っては駄目です!!足が…!!」

「全隊員に告げます!!待機!!待機命令です!!柱より鬼舞辻無惨へ近付いてはいけません!!」

名前の声に、隊士達の動きが止まる。
「待機及び、怪我人の救護を優先します!!」
「…は、はい!」
無惨に向かおうとする踵を返した隊士達が、怪我人を運ぶ中、
「…大丈夫ですか!?」
その場に倒れる隊士へ手を貸し立ち上がろうとした所で、ぐにゃりと崩れるように倒れた。

(…足に、力が入らない…)

その右足が落下した衝撃で折れていた事を今漸く気付いた。
引き摺る事さえ難しいそれに動きを止めるしかない名前に
「…に、逃げて…逃げてください…」
血だらけの隊士が小さく呟く。
此処はまだ無惨の攻撃圏内だ。
早く、出来るだけ遠くへ退避しなければならない。
しかし現実を考えるとこれ以上、身体が動かない。

守りたかった

出来る事なら
叶う事なら

この目に見える全ての命を

でもそれが無理なのも、わかっていた
たくさんの人が目の前で死んでいった

だからこそ、いくつもの可能性を、生きる選択肢を探す癖がついた

死なせたくなかった
お母さんとお父さんも、錆兎も、胡蝶様も、しのぶさんも、柱も、隊士の方々も、隠の人達も

…お館様も

皆…

皆、生きていて欲しかった

ただ、生きていて、欲しかっただけなのに…



「…名前──ッ!!!」

義勇の叫ぶ声に視線を上げる。
目の前には無惨が繰り出す腕。

此処からでは、柱達の攻撃も間に合わず、足が動かぬ名前に避ける術もない。

死を、覚悟するしかなかった。

それでも背後で隊士が息を止めたのに気付いて、呼吸を深く吸う。

『雲の呼吸 壱ノ型 層雲』

突き刺そうとする無惨の腕を下方から振り上げた刃が寸での所で弾いた。

「……ッ!!」
「…え!?苗字さん、凄い…!!」
蜜璃の声が響く。

それでも状況は全くと言って良い程好転していない。
緩急つけず再度飛んでくる無数の攻撃を迎え撃つため立ち上がると、大きく後ろに振りかぶる姿勢を取る。

「……ッ!駄目だ!!それはッ!!」

咄嗟に叫んだ義勇にしか、その行動の意味はわからなかった。
制止も虚しく名前は息を深く吸うと完全に呼吸を止める。

雲の呼吸、最終奥義

「漆ノ型だけは、絶対に使うな。良いか?何があってもだ。わかったな?」

何度も強く言い聞かせたのは、鱗滝左近次だった。

漆ノ型、そのもの自体の威力は最強に近い。
広範囲による螺旋状に切り刻む技から逃げられる者はいないためだ。
義勇の凪を持ったとしても、致命傷は免れない。
しかしその威力に支払う代償は、余りにも大きかった。
その型は、完全に呼吸を止めることでしか使う事が出来ない。
呼吸法を駆使出来ない中、身体を大きく捩じる動きは、四肢の骨を千切り、五感の神経を切断する。

雲の呼吸が派生してこの千年余り、この型を使い生きていた者はただ一人としていなかった。
いつの日か使い手の中で、禁じ手となったこの漆ノ型。

それでもこの局面において対抗しうるのはもう他に何も残っていない。

この身の全てをその可能性に賭けた。

命を、護るために―…。



『渦巻星雲(うずまきせいうん)』



大きく渦を巻き、無惨の両腕を巻き込んで捩じり斬る。
その斬撃は無惨の再生速度を僅かにだが遅らせた。
そして更に、豪速の風圧でその身体を跳ね返す。

「…あの女…。無惨と対等、いや…それ以上の技を…」

小芭内が呟いてから目を細めた。
名前の右手の甲に、雲の紋様に似た痣が発現している事に。

「……っ」
ゴボッ!と音を立て口から噴き出した血液がボタボタと地面へ落ちるのに遅れる事数秒、その身体が倒れる。
「…け、、が…にん、をっ!は…やく…!」
辛うじて呟く名前を素早く抱え必死に走る三人の隊士を朦朧とする意識の中で見た。

「…わ…たし、じゃな…くて…ゆう、せん……じゅ…いを…」
「何言ってんですか!苗字さんも立派な怪我人です!!」
「苗字さんが俺達の中で一番優先です!」
「大丈夫です!あの人は他の隊士が運んでくれてます!!苗字さん言いましたよね!?生き残る道を探せって!だったら自分も探してください!!死なないでください!!」
必死で叫ぶもその身体から静かに力が抜ける。
「…え…!?嘘でしょ!?苗字さん!?しっかりしてください!」
「落ち着け!大丈夫!!まだ息はある!!」
「今のうちに応急処置だ!!」
退避して行く背中に、義勇は小さく息を吐いた。

(…生き、てる。良かった…生きてる…!しかし、あれだけの技を繰り出したんだ…かなりの負担が…)

漆ノ型を出して尚、僅かでも意識を保てていたのは直前に発現した痣の賜物。
もし痣が出るのが数秒遅れていたら、今頃確実に名前は死体として転がっていた。

「…柱でもない隊士が…目障りな技を使うな。まぁ良い」

斬られた両腕をすぐさま再生し、無惨は続ける。

「竈門炭治郎は死んだ」




此処は、何処なのだろう?

ゆっくりと目を覚ました先、眩しさにそれを細めた。
こちらを照らす暖かい、とても優しい光を浴びて唐突に
"そこへ行かなければならない"
そう、思った。


「…苗字さん!?しっかりしてください!」
地面へ寝かせ気道を確保するも、明らかに息遣いが弱い。
「…これは、酷い…左腕の骨が粉砕…肋骨が一、二…四本…右足も骨折しています」
隠の一人が小さく呟いたのを女隊士は両目に涙を浮かべる。
「どうしたら良いですか!?どうしたら苗字さん助かりますか!?」
見る見るうちに腫れ上がっていく右額。膿瘍のように膨れ上がり変色していく様子に小さく悲鳴が上がる。
「…なに!なんだこれ!?苗字さん!?」
「…毒が…!」
最初に壱ノ型 層雲で腕を弾いた際、完全に防ぎ切ったように見えていたが、無惨の切っ先は確実に名前へ届いていた。
更に漆ノ型で呼吸を止めた事で毒の回りが倍以上の速さで進んでいる。
「…早く血清を打たないと…」
「血清って何ですか!?」
「無惨の毒を分解する薬です…!確かあちらに居た隊士の方が持って…」
「俺行ってきます!」
すぐさま走り出す隊士に、隠は
「…とにかく傷の手当てだけでも先に…!」
そう呟くと名前の腕に触れた。


ゆらゆらと揺れる光は、まるで手招きをするよう。
この先は他の誰でもない。自分を待っている。
ずっと前から、名前の事を待ってる誰かが居る。

そう、確信を持っていた。

行かなくちゃ

それでも進もうとした足が止まった。
振り向いた先には真っ暗な闇。
呑まれてしまいそうな感覚に恐怖を覚え、もう一度光の方へ戻ろうとして前を向き直す。

行かなくちゃ


微かな息遣いが今にも止まりそうな事に気付き、女隊士は涙を拭うと名前の胸元に手を当てた。
その横では同期の隊士が必死に左手へ包帯を巻いていく。
「苗字さん、聞こえますか!?呼吸を…!」
弱くなっていく心音に、溢れる涙をもう一度拭いながら、血清はまだかと先程走っていった方を見つめるが、期待した姿はまだ見えない。
とにかく呼吸を継続させなくてはならない。
瞬時にそう考えたのは、名前が自分を助けた光景が走馬灯のように蘇ったためだ。

「…呼吸を意識してください。ゆっくり、身体の奥にまで届くように深く吸って、吸った分と同じだけゆっくり吐いて…」

(そうだ、冷静に呼吸を…)
右耳へ顔を近付けると今自分が出来る精一杯の落ち着いた声色を作った。
「聞こえますか?今から私と一緒に呼吸をしてください」
当然反応がある筈もないが、それでもあの時教えてもらった全集中の呼吸を繰り返す。
胸に添えた手は息を吸う間は離し、吐く時は優しく添えた。
(戻ってきて…!)
何度も何度も寸分の狂いもなく繰り返す。
一度止まった呼吸に上げそうになる悲鳴をグッと堪えた。

その暖かい先はきっと望むものが待っている。
逸る心を抑え、走り出そうとしたと同時、背後の闇が足元へ伸びてきたのに気が付いた。

もう一度振り向いた先、僅かに何かが聞こえる


「……スゥ…」

僅かに聞こえた深い息遣いに、止めそうだった手を添えるとゆっくり吐く。
「…フゥ―…」
(戻ってきた!戻ってきてる!!)
しかしまだ毒の進行を止められる程深いものではない。
一連の動作が狂わないよう、目を閉じると呼吸だけに集中する。

「応急処置終わりました!」
「こちらもです!」
同期と隠の会話を耳だけで聞いた。


誰かが、呼んでる?
…誰?
思い出そうとしても、何も浮かんでこない。
まるで独り、此処で立ちすくんでいるようで急に怖くなった。
早く行かなくては、と闇から逃げるように動かした足は

「名前」

その声によって止める。
はっきりと、両耳で聞いた温かい声。
それは暗闇の中から響いていた。

行かなく、ちゃ…
ううん、違う

両手に力を込めると未だ温かく揺れる光に向かって呟いた。
「ごめんね…っ…」
それが、誰に対しての謝罪かはわからない。
しかし何度も強く思った。

ごめんね
ごめんなさい

あの優しい背中をまた、独りにしたくないの


「…フゥ──…スゥ──…」

しっかりと深くなりだした呼吸に女隊士は自分の呼吸を止め顔を上げたものの、まるであやすように合図する手の動きだけは継続させた。

「血清…!貰ってきました!!」

息を切らしながら片手を見せる同期。
しっかりと握られた注射器に、隠が目だけでホッとした様子を見せる。
顔を見合わせながら頷くと、名前の右腕に血清を刺した。


Please
お願い、戻ってきて

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