雲路の果て | ナノ 39



それは、本当に、突然の事だった。

「…あとはこちらでやりますので、名前さんは休憩をどうぞ」
「ありがとう、アオイさん。でも大丈夫」
患者に飲ませた薬の廃物や湯呑をお盆に乗せながら、名前が微笑む。
「さっきね、町へ出た時お団子を買ってきたから、あとで皆で食べたいなぁって思ってるんです」
穏やかな笑顔、それが優しさだと気付いてアオイは小さく頷いた。
「……。わかりました。では」
しかしその言葉が終わらぬ内に
「緊急招集!!緊急招集!!」
あちらこちらで鎹鴉が鳴いた。
それは名前の鎹鴉も例外ではない。

「産屋敷邸襲撃ッ!!産屋敷邸襲撃ッ…!!」

途端に動揺する名前に、アオイが口を開く。
「…行ってください!」
真っ直ぐ見つめる瞳からすぐにその決断が出来ず目を反らす。
「でも…」
しのぶから任された仕事を放棄する事になる。

「蝶屋敷の事、お願いしますね」

そう言っていたのに…

「此処は私達でどうにか出来ます。名前さんは名前さんのやらなきゃいけない事を優先させてください」

一瞬伏せた目も
「…ありがとうございます。アオイさん」
大きく頷くと決意に満ちた瞳を向けた。

「預かります」
「…お願いします」
名前が持っていたお盆を受け取ろうとして、その姿が一瞬にして消えた。
正確には身体が消えたのではなく、その足元の床が突然なくなった事で落下していったのだが、その速度をアオイの目では追えなかった。
残されたのは割れた湯呑と、ガランガランと音を立てるお盆。

「……名前、さん…?」

アオイの呼び声も虚しく、其処にはただ静寂が漂っていた。


雲路の


突如、足元を失い墜下していく感覚に狼狽えはしたがすぐに状況判断へと思考を切り替える。

(…これは…多分、血鬼術!?どうしていきなり…!)

床に着地し、辺りを見回した。
鬼の気配は今のところだが近くにはない。
此処は、何処なのか。
同じような部屋がいくつも並んでいる上に、それが時折、不規則に"動いている"。

特徴を確認したところで、襖から隊員数名が雪崩れ込むように出てきた。
後ろには異能の鬼。

「…ギャアアア!!」

『雲の呼吸 弐ノ型 群雲』でその頸を斬れば、隊員達が腰を抜かしたようにへたりとしゃがみこむ。
その中には癸の三人の隊士の姿もあった。

「大丈夫ですか!?」
「…苗字さん…!」
「皆さんも此処に落とされたんですか?」
「そ、そうだと思います!いきなりの事で良くわからなくて…!」

「鬼舞辻無惨!!鬼舞辻無惨襲来!!柱ハ既ニ集結シマシタ!!」
名前の鎹鴉がけたたましく鳴く。
「お館様は?」
「死亡ッ!死亡ッ!!」
「……ッ…!」
心の奥底が冷えていくのを感じた。
深く長く、吸った息を吐く。
「まだ残っている隊員を探します。よろしいですか?」
背を向けたままの名前が初めて放つ威圧感に圧倒されるように
「…はい」
隊員達六名が小さく頷いた。

* * *

もう、何体の鬼を倒しただろうか。
しかし恐らくこれも、ただ罠のように張り巡らせられただけ。
"眼"を首に下げた鴉の指示で散り散りになっていた近くの隊員を更に八名、計十四名集める事は出来たが、無惨の所まではまだ遠い。
進もうと思っても、予測出来ぬ床の動きに幾度となく邪魔をされる。
名前自身が避けられても、後に続く隊員が落ちそうになり、その度に他の隊員と共に助けるの繰り返しで、進むのに倍以上の時間を要していた。

「ギャッ!」

今もまた、小さく悲鳴を上げて落ちそうになる隊員の腕を掴む。
「大丈夫ですか!?」
元々気弱な表情が、悲痛に歪んだ。
「…苗字さん…俺の事なんてもう気にしなくていいですよ」
「どうしてそんな事言うんですか!?」
「だって俺…さっきから足手まといなだけですから…此処で死にます。早く柱の所へ…」
そう言って名前の右手を剥がそうとする手を左手で掴む。
「良くない!!ダメです!!自分から諦めないでください!!」

名前が鬼殺隊の剣士として、階級・甲(きのえ)の隊士として、常に周りを把握し、その都度最善な道を選んできた事を関わった事がある人間ならば、誰もが知っている。
必要ならば自分をも犠牲にして、隊員を優先にした事も数え切れない。

だからこそ…

「…もう、苗字さんに、迷惑かけたくないんです…」
涙をポロポロと流す姿に、もう一度引き上げる腕へ力を入れた。
「死な、ないで!!死のうとしないで!!お願いだから!!」
その叫びに呼応したように、二人の隊士がその腕を掴んで、引き上げる。

「……ありが、とう…!」
その勢いと安堵でその場に座り込んだ。
「苗字さんが言う事じゃないです!」
「お前!苗字さん困らせんじゃねぇ!!」
「簡単に死ぬとか言わないでよね!バカじゃないの!?」
「そうだよバカ!お前バカだな!ほんっと!」
「…すみません…。ごめん…ごめんなさい…」
同期の二人の勢いに小さくなる隊員に
「…良かった…」
息を深く吐くと微笑うと立ち上がろうとする。

しかし、それも
「死亡ッ!!胡蝶シノブ死亡ッ!!」
"眼"をつけた鴉の鳴き声に、息を止めた。

「…え!?蟲柱が…!?」
「マジ…かよ…」

狼狽え始める隊員を落ち着かせなくてはならない。
わかっているのに呼吸が乱れていくのを感じて両手で口元を覆う。

息が、上手く出来ない。

「少しどころか、名前さんには全面的な信頼を置いてますよ?知りませんでした?」

昨日の事のように蘇る笑顔に、喉の奥が妬ける。
込み上げる叫喚は歯を食いしばって堪えたが、溢れる涙はどうやっても止めようがなかった。

「…苗字さん…?大丈夫ですか…?」

蹲ったまま動かなくなった名前の肩に手を触れれば、小刻みに震えている。
しかしそれも、数秒。
深く息を吸って吐き切った後、羽織りで無理矢理涙を拭ってから
「…行きましょう」
前を向くと、走り出す。

泣いている場合じゃない。
そんな事をしていたら、しのぶに怒られてしまう。
走りながらも勝手に流れていく涙を、何度も何度も強く拭った。

「苗字隊士が指揮する第三陣が出来ました」
見取り図を作成するかなたの報告に輝利哉が静かに頷いた。

* * *

隊員達が散り散りになるのを何とか阻止しながら、無惨の元へと走る。
途中で立ちはだかる異能の鬼の頸を悉く落としていく名前の動きは、もはや柱と肩を並べられる程の実力だった。

"眼"を持った鴉が状況を伝えるのを、耳だけで聞く。
「炭治郎!義勇!」
鴉が伝えるその名に心臓が跳ねたものの、それが上弦の参を倒したという報告で、全面的にではなくともひとまず胸を撫で下ろした。
しかしその後に続いた霞柱・時透無一郎、そして不死川玄弥の死を伝える鴉に、口唇を噛んだ。

「…苗字さん!もうすぐ無惨の元へ到着します!」

その言葉に返事をし掛けて、ふと気付く。

鴉からの報告で今現在、無惨が身体の回復を図っているのは聞いている。
だからこそ、それを阻止するため向かえという指示の元動いていた。

しかし今も尚、柱が一人も無惨の元へ到着したという報告がない。

そういえばあれから

どれ程の時間が経っている…?

「…苗字さん!?どうしました!」
「…此処で一度、待機します」
「え!?でも!」
「動く床に細心の注意を払ってください。離れないように」
「無惨がこの先にいるんですよ!?何で行かないんですか!?」
「…"次"の指示を待ちます」
「…次?」

何故足を止めたのか、そしてそう判断をしたのか、名前自身にもはっきりとした根拠がある訳ではない。
ただこれ以上、足を進めるのを脳が止めた。
まるで線が引かれたように、この先は危険だと告げている。
それは恐らく、今までの経験からくる『第六感』のようなもので、上手く説明が出来ないのは当然だった。
しかしながら、隊士達には不安が広がる。
ざわざわとしだす周囲にも構わず、名前は日輪刀を抜き、ただ真っ直ぐ何かを見つめていた。

「…もしかして…」
「無惨の所に行くのが怖いんじゃ…」
小さくそんな声が聞こえてくる。

しかしそれも、
ガガガガッ!!
突然聞こえてきた轟音に掻き消された。

次に響くのは、何十という人間の悲鳴と肉を割く音。

「…今のは!?」
「恐らく、鬼舞辻無惨です…」

一体この一呼吸に近い間に何十人が犠牲となったのだろう。
ここまで漂ってくる大量の血の臭気に眉を寄せた。

「…もし、俺達がそのまま向かっていたら…」
一気に真っ青になる隊士に
「復活ッ!!無惨復活ッ!!至急集結セヨッ!!」
"目"をつけた鴉の声が重なる。

「…これから、鬼舞辻無惨の元へ向かいます」
「は、はい!!」
こんな状況でも名前の指示を素直に受け入れ返事をした全員の顔を見た。
「…でも、無理はしないでください」

鬼殺隊、甲の隊士でありながらこんな事を言うのは間違っているのかも知れない。
死を以てでも任務を遂行する。
その覚悟は遺書を認めた時点で皆が抱えているのもわかっている。

それでも…

「私は皆さんに、誰一人としていなくなってほしく、ないです」

考えなくともすぐにわかる。
きっと誰もが感じている。
此処に居る十四名、名前を合わせ十五名、束になっても鬼舞辻無惨には敵わない事を。
それでも柱達が来るまでの間、足止めをしなくてはならない。
命を賭して。
だからこそ、今伝えるべきだった。

「…出来る限り、自分が生き残る道を、探してね」

そうして向けた背中から、何人かのすすり泣く声が聞こえる。

「…行きましょう!」

そうして走り出した。

しかし無惨への距離がすぐ其処までと迫った時、突然大きな音を立て軋み出した建物に足を止める。
全体が地鳴りのように震え始めていた。
それは今までとは明らかに動きが違う。
状況が変わったのだろうか、そう考えながらも目まぐるしく変わる部屋の数々に、振り落とされないようにならないのだけで精一杯だった。
このままでは無惨と闘う所ではなく先に全員が潰されてしまう。

「…苗字さん!」
「外へ!外へ出る方法を探します!」
「はい!」

これだけ暴れ回るように動いてるのなら、どこかに出口も出現する筈だと四方八方を見渡す。

「苗字さん!出口ッ!出口ありました!!」
隊員の叫びに、外へ続く襖の向こうを確認する。
「全員向かって!!」
離れないように固まっていたのは正解だった。
隊員が次々と脱出していく中、変わり続ける足場に名前は合わせるように着地していく。

「苗字さん!早く!!」

あともう二度で良い。跳べば出口へと辿り着く。
しかし足に力を入れた途端、次に続く足場が無情に消えた。

「……」
ぽっかりと空いた暗闇の中、引き返そうにも何処にも足場はない。
「苗字さん!!!」

他の隊員は全員退避した事を確認する。
もうさほど時間がない。
次に建物が動いたら、出口はなくなってしまうだろう。
「…早く外に出てください」
「でも苗字さんが!!」
「甲の隊士としての命令です。外へ出なさい」
「…苗字さん…」
「外へ出たら何をすべきかわかりますよね?」
「…あ…皆が無事か確認、怪我人がいたら応急処置にて搬送…は隠の方が…」
教えられたそのままを反復する姿に
「あとはお願いします」
こんな状況でも微笑んだ顔は、とても綺麗だった。
音を立て消えた足場に真っ逆さまに落下していていく身体。
「苗字さん!!苗字さ────んッ!!」
その叫び声に返ってくる届く言葉はなかった。


Exist
自分が生き残る道を、探して、ね

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