雲路の果て | ナノ 36


人喰い鬼が、ぱったりと姿を現さなくなった。
鬼殺隊が滅した訳ではない。
滅する所か未だに鬼舞辻無惨の影形も捉えられていないにも関わらず、ある時を境に全く姿を見せなくなった。

あの日
禰豆子が、太陽を克服した時から。

鬼が出没しなくなったという事は、当然ながら鬼殺隊としての出陣もない。

いつまでそれらが身を潜めるか確証はないため、その間、隊員の強化、そして、柱に至っては『痣』を出す訓練に取り掛かるよう、指令が下ったのはつい先日の事だ。


雲路の


「いただきます」

両手を合わせてから、顔を上げる。
そこには同じように、静かに手を合わせる義勇の姿。
討伐指令がなくなった事で、こうして夕餉を食べる時間が出来るようになった。
しかし、その表情は余り冴えたものではない。
寧ろ以前にも増して暗い影を落としている。

義勇が、水柱としての稽古を断ったと聞いたのも先日の事。
「俺にその資格がないのは、名前も知ってるだろう?」
悲しそうに伏せる群青の瞳に、掛けられる言葉など何もなかった。
今でも、最終選別の事を悔いているのを一番近くで見ている。

だから極めて明るく言った。

「じゃあ、一緒に夕飯食べよう?」

そうして今も、向かい合いながら夕餉を食べている。

隊員の柱稽古は、勿論名前も含まれていて、初日の元音柱・宇髄天元の稽古から始まり、甘露寺蜜璃、時透無一郎を経て、次は伊黒小芭内の稽古が待っている。
これは隊士として、とても優秀な経過だ。

黙々と食べ続ける義勇につられるように自分も箸を進める。
今日はなかなか美味くできたな、なんて考えていたところで

「………か?」

静かに飛んだ発問を、完璧に聞き逃した。
「ん?野菜炒め?今日のは結構美味しいでしょう?」
ニコニコしながらそう返せば、若干呆れた顔で見つめられる。
「え?違う!?ごめん、もう一回言って?」
狼狽えながら聞き返す名前に小さく息を吐いた。
「…明日も稽古か?」
「……。あ、うん」
義勇からその話題を出した事に少し驚きながら短く答える。
「どこまで進んだ?」
「伊黒様の、お屋敷まで」
「そうか。早いな」
目を合わせないその姿が何を考えてるのか掴めないまま、ご飯を一口運ぶ。
「…俺に気を遣わなくていい」
顔を上げる名前に対し、その瞳はどこか一点を見つめたまま。
「稽古の事も、柱の事も、話したい事があるなら、話してくれて構わない」

別段、無理をしていた訳でもない。
ただ無意識に名前なりの配慮はあった。
自分からベラベラと話すような事ではないと、今まで何となくその話題には触れないようにしていたが、義勇はそれを容易に見抜いていた。

名前が優しいのを、知っているから。
すぐに人の痛みに寄り添おうとするのを、知っているから。
ずっと、ずっと前から。

「……うん。ありがとう…」

義勇がまた黙々と食べ始めるのを笑顔で眺める。
そうしてふと、今日の事を思い出した。
「あ、そうだ」
返事はないものの、耳を傾けている事に気付いて言葉を続ける。
「最近ね、伊之助くんに会うとお芋をくれるの。今日も貰ったからお味噌汁にしてみたんだ」
視線を落とした先、色鮮やかな黄色いさつまいもにあの猪頭を連想する。
「だからここの所、さつまいも料理が多かったのか」
ぼそりと呟いたのも、反応がない事から恐らく名前の耳には届いていない。
昨日は蒸かし芋、一昨日はさつまいもご飯、その前は何だったか忘れたが…
「嬉しいし助かるんだけど…何でくれるんだろう?」
うーん、と小さく唸りつつ天井を仰ぐ名前に義勇の目が細くなる。
「…懐かれてるんじゃないか。野生生物だから」
動物は勘が鋭いと良く言うが、それは確かに的を射ているのかも知れない。
すぐ傍で丸まる黒猫といい、伊之助といい、"自分に害がない人間"、いや、寧ろ"受け入れてくれる人間"というのを察知しているのだろう。
ふふっと小さく笑う名前の
「伊之助くんは人間だよ?」
その無邪気な言葉に意味がわかっていないのだろうと小さく息を吐いた。


食事を終え、そのまま台所へ下げた食器を洗い始める名前の横、義勇が布巾で今しがた洗い終えたそれを流れ作業のように拭いていく。
そこに会話という会話はない。
時々名前が「ちょっと待ってね」や「これお願い」と言うだけで、それをただ黙々と拭きながら答えない横顔が別段不機嫌やそういう類からくるものではないのもわかっていた。

懐かしい
ただそう思う。

狭霧山に居た頃もこうして毎日のように一緒に食器を片付けていた。
錆兎も、一緒に。

どうにか、義勇の心を救えるものはないのか。
そう考えても、何も浮かんでこないのは、あの絶望に打ちひしがれた姿を今でも鮮明に思い出してしまうからだった。

意識をそちらに向け過ぎてしまったせいで左手から滑り落ちる長皿。
「…あ」
声を出すと同時、ボチャンッ!と音を立て桶に溜めていた水が勢い良く飛沫を上げる。
咄嗟に受け身も取る暇もなく目を閉じた。
次に開けた時、飛び散ってきた水滴を右手で拭ってから左横に気付き驚愕する。
「…義勇っ!?嘘!ごめん!!」
居た位置が悪かったのだろうか。
名前とは比べ物にならない程、水に滴る顔と上半身に慌てて手巾を取り出すと、拭いていた皿を持ったまま動かない頬を撫でた。
「…まさか、また水をかけられるとは思わなかった」
「ご、ごめんなさい!!」
必死にその顔を拭く左手を掴む。
「良い。大丈夫だ」
「…でも!」
まん丸の瞳で見つめる名前に、自然と義勇の顔が近付いていく。
口唇を重なっても目を閉じる所か瞬きすら忘れていた。
それでもすぐ離れた事で思い出したように瞬きを繰り返す。
「布巾が濡れた。新しいのを出して良いか?」
「…あ、うん。ちょっと待ってね!」
バクバクと脈打つ心臓を落ち着かせるため息を吐くと引き出しへ手をかけた。

 * * *

数日が過ぎた頃、名前は突然、鎹鴉を通じて胡蝶しのぶに呼び出された。

「わざわざ来ていただいて、すみません」
そう言った表情は、今までとは全く違う、とてつもなくピリピリしたもの。
「…いえ」
静かに椅子に座ると、しのぶの言葉を待った。
「明日から、私が不在時の屋敷をお願い出来ませんか?」
「……え?」
思わず目を丸くさせる。
「訳あって私は稽古ではなく、別件を担当する事になりました。これから昼夜問わず屋敷を空ける事が多くなりますが、変わらず稽古による怪我人も運ばれてきます。正直に言うと、全く人員が足りません」
しのぶの言葉をゆっくり、噛み砕いてから頷いた。
「…わかりました。私でできる事なら何でもおっしゃってください」
屈託のない笑みに、気を張っていたしのぶの眉がほんの少し下がる。
「…柱稽古を断念させる事になってしまいますが…」
名前が異例の速さで岩柱・悲鳴嶼行冥の屋敷まで辿り着いたのは、しのぶの耳にも伝わっている。
稽古を続ければ、これ以上の身体能力の向上を認められるのは確実だ。
もしかしたら、柱と肩を並べられるようにすらなるかもしれない。
それでも名前は気にした様子もなく、見せた笑顔は何ら変わらない。

「私、しのぶさんに頼ってもらえる事が嬉しいんです。どんな小さな事でも」

最初は、そう。
出会った時は、怖い人だと、思った。
当時のしのぶはいつも怒っていて、カナエが名前に関わるのを止めようとしていた。
しのぶ独特の強い口調に嫌われているのだろうか。
そんな事を思う時もあった。
しかしカナエが亡くなり、取って付けた笑顔を見せる小さな背中は、あの時とは違いとても哀しそうで、それが僅かでも楽になるような、そんな力になりたいと思うようになっていた。

「少しでも、しのぶさんに信じてもらえてるんだなぁって思えて…。だから、ありがとうございます」
いつもならば何かしら言葉が返ってくるのに黙って目を伏せるしのぶの表情で名前は狼狽えるとすぐに頭を下げる。
「すみません!生意気な事言ってしまって…!あの…」
「…どころか」
微かに聞こえた声に動きを止めた。
そうして顔を上げるしのぶは、小さく微笑んでいる。

「少しどころか、名前さんには全面的な信頼を置いてますよ?知りませんでしたか?」

目を丸くさせる名前に続ける。
「蝶屋敷の事、お願いしますね」
穏やかな笑顔に心臓が痛むのは、何故だろうと考えるより先に
「…しのぶさん、帰ってきます、よね…?ちゃんと帰ってきますよね?」
無意識の内に乗り出す身体。
「当たり前です。一体何を心配してるんですか?」
「…そう、ですよね…。わかりました!任せてください!」
心底安堵したように胸を撫で下ろす名前に、しのぶも口角を上げた。



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