雲路の果て | ナノ 37



トントン、と叩く音に戸を開けずとも、その音の癖で訪ねてきた人物がわかるようになった。
そして、わざわざ出迎えなくてもその戸が開かれるのにも、随分慣れた気がする。

「義勇、お疲れさま」

夕餉を作りながら、その姿を迎える名前の足元で「にゃー」と鳴く黒猫の姿。

穏やかな空気に弛んでしまう頬を下げながら
「また施錠するのを忘れている」
意識的に呆れた声を作る。
「そろそろ義勇が来てくれるかなって思って、さっきつっかえ棒取ったんだよ?」
曇りのない笑顔に眉を寄せるのも意識的。
「それでも無防備だ。僅かな時間でも油断しない方が良い」
そう言ったものの更に弛む頬に自分でもカッコがつかないな、と考えた。


雲路の

「今日はもう稽古は終わったのか?」
鍋を煮るその横顔に素直な疑問を口を出す。
「…あ、ううん、しのぶさんに呼ばれたからお休みをいただいたの」
「…そうか」
「お腹空いたでしょう?もうすぐご飯出来るよ」
「……。いや、まだ良い」
「何か食べてきたの?」
首を傾げれば、義勇は自分の腹を軽く擦る。
「炭治郎と、蕎麦の早食いをしてきた」

(なんで?)

一瞬そう思ったものの、また鍋へ戻そうとした顔は
「…明日から、俺も柱稽古を開始しようと思う」
その言葉に完全に止まった。

「………」

瞬きすらも忘れた名前の後ろで、ぐつぐつと泡を噴きだす。
「噴き零れてるが…」
「キャーッ!」と声を上げながら鍋を避けるが、竈の火は見事に消えてしまった。

「そんなに動揺するな」
「…ごめん…」
頑なに拒否していたのに何があったのか、と心配そうに見つめる名前に答えるように口を開く。
「…炭治郎に、言われた」
あの時思い出した左頬の痛み。
きっと、もっと早く蘇っていたら…
いや、覚えていればこんなにも長い間、きっと目の前の存在を苦しめずに済んだのだろう。

一方で、全く趣旨が伝わってこず、名前は更に固まっていた。

炭治郎に何を言われたのか、それが全くわからない。
義勇が前向きになったのは、確かだとは思う。
だがそれ以外の事は理解出来ていなかった。
それでも

「名前も、来るといい」

何かが吹っ切れたような柔らかい表情につられて微笑む。

しかし、そこで思い出すのはしのぶとの会話。
「…あ、でも私、明日から蝶屋敷で手伝いする事になってて、もう柱稽古には参加しないの…」
「…胡蝶に頼まれたのか?」
「うん。…すごく、思い詰めていらっしゃってて…少しでも力になりたいんだ」

いつにない、余りに深刻な表情に、詳細を訊く事が出来なかったが、二つ返事でその頼みを受けたのは、少しでもその小さな肩に圧し掛かる負担を減らしたかったからだ。

しかしそれは、義勇とほぼ会えなくなる事を意味している。
こうやって一緒に過ごせる夜は今日を最後に暫くはなくなるだろう。
もしかしたら、もう二度と来ないかもしれない。
だからこそ、鮭が手に入らなかった代わりに気合を入れて筑前煮を作ろうと思っていたのだが、完全な不注意で火を消してしまった。
「…まだ煮え切ってなかったんだけどな…」
小さく呟きながら、しゃがみこんで竈の火を見る。
噴きこぼれたせいで湿った火種は、再度火をつけるのは難しい。
「…あ、ごめんね、義勇。ずっとそんな所に立ってないで入ってて」
それだけ言うと、また火を点けようと苦戦する姿に同じようにしゃがみこんだ。
「完全に乾き切らないと無理そうだな」
「そうだよね…」
小さく溜め息を吐く名前にスッと立ち上がると、釜を覗き込む。
「米は炊けてるのか」
「うん」
「……わかった。それなら座ってろ」
それだけ言うと、おもむろに台所に立った。



数分後、名前の目の前に出されたのは、綺麗に握られた二つの握り飯。
向き合わせで座る義勇とそれに、何度も視線を往復させる。

「作って、くれたの?」
「夕飯を台無しにした詫びだ」
「…ありがとう!いただきます」
義勇の気持ちを汲み両手でそれを持つと小さくかじる。
「…うん、美味しい!」
笑顔で何度も頷く名前に、自然に頬が緩んだ。
「…義勇は?食べないの?」
「俺は良い」
まだ消化しきれていない大量の蕎麦を胃の中に感じて小さく息を吐く。

ふと、思い出して、口を開いた。
「あの時」
「…?」
その一言で、食べていた手を止める。
「名前が持たせてくれた握り飯を、思い出した」
「……えっと…」
「俺が狭霧山を離れる時だ」
「……あ」
「今でも覚えている」
「食べて、くれた?」
「あぁ。とても美味かった」
不器用ながら伝える義勇にその表情が喜びで満ちていく。
「…良かった」
心底嬉しそうにまた一口、握り飯を頬張った。

あの時、名前はどんな気持ちで、自分にそれを持たせたのだろうか。
ずっと目も合わさずに話す事もしなかった自分に、一体どんな気持ちで…
そう考えると、今も胸が痛かった。
鱗滝が口添えしなければ、きっとそのまま受け取る事もしなかっただろう。

今、こうしているのもそうだ。
竈門炭治郎が現れなければ、此処にこうして居る事はなかった。
ずっと逃げるように避け続け、きっと名前は今頃どこかの誰かと寄り添っていたかも知れない。

そして、名前の優しさに甘えてきた。
自分を責める事もしなければ、受け入れてくれた事で、ずっと、
いつまで、逃げ続けていたのだろう。

それが今日、はっきりわかった。

「…炭治郎に言われ、思い出した」

手を止めると小さく首を傾げる名前に、何処に視線を向けたら良いのかわからず床を見つめたまま続ける。
「繋いでいかなければ、ならないのだと」
どんなに願おうとも錆兎はもう、此処には居ない。
自分をかばってくれた姉も、もうずっと遠い昔の記憶になってしまっている。
どれだけ願っても、戻ってはこない。
戻ってはこない、と痛い程にわかっているから辛かった。
立ち止まっては振り返り、そんな事を繰り返していたせいで、何処が前かもわからなくなっていたように思う。
けれど今は迷いはないと言い切れる。

「…俺は、水柱・冨岡義勇だ。錆兎から受け継いだものを繋いでいきたい」

「……義勇…」
握り飯を両手に持ったまま、ボロボロと音が聞こえてきそうなくらい大粒の涙を溢す両目をぎゅっと瞑ると大きく頷く名前に変わらないな、と小さく笑った。

錆兎が此処に居たのなら「お前また泣いてんのかよ。泣き虫だな」なんて呆れ顔で言いながら、乱暴にその頭を撫でたりするのだろう。

叶うのならば、そんな光景を見たかった。
後悔が消えた訳ではない。
存在を忘れた訳じゃない。
ただ、その過去を乗り越えていけるのは、今こうして自分のために泣いてくれる存在が居るから。

「…あの時は、すまなかった」
突然の謝罪の言葉に、大きく開いた瞳からまた涙が流れる。
「……握り飯を受け取った後だ」

「お前のような人間は生き残れない。無理だ」

冷たく言い放った言葉を思い出したのだろう。
僅かに曇った瞳に胸が痛んだ。

「名前には錆兎のように…死んで欲しくなかった。傷付ければ…最終選別を受けるのを諦めるんじゃないかと底意があったが…結局ただ名前を泣かせただけだった…。すまない」
「……義勇、私に謝ってばっかり、だね…」
「それくらい酷い事をしてきたからだ。本来ならお前にこうして笑顔を向けて貰う事さえ…「そんな風に言わないで?」」
また涙を溜める瞳が哀しそうに揺れた。
自分を責める義勇が痛々しくて見ていられない。
「…だって私、あの時全然、錆兎にも義勇にも敵わなかったんだもん。そう思ったのも当たり前だよ」
実際、運が良かっただけで実力で生き残ったとは言い切れない。
けれど今は思う。
どんな形でも、生きていて良かった、と。
「私は義勇とこうしていられるだけで嬉しいから…もう、過去のことで自分を責めたりしないで…お願いだから…っ…もうっ…謝らないで…」
また堰を切ったように溢れる涙。

ずっと、そう言いたかった。
義勇が抱える哀しみを、後悔を、同じように感じる事は出来ない。
だからこそ隣に居たいと思った。
そこでずっと蹲る背中を独りにさせないように。

「…悪い。また…泣かせてるな」
「…またっ、謝ってるよ…!?」
手巾を取り出すとそっと目元を拭こうとした所で、その口元に米粒がついているのに気付いた。
「名前」
「…ん?」
「此処についてる」
自分の口元を指して伝えれば、慌てて反対側を触る名前。
「そっちじゃない」
近付くと、口唇でその米粒を掬い上げた。
「………」
途端に涙を止め真っ赤になって固まる表情をそのまま観察していれば、突然我に返ったようにくるりと義勇へ背を向ける。
身を小さくしながら食べ始める後姿が小動物のように見えて
「そんなに警戒しなくても、もう何もしない」
頬を緩めれば、その背中の緊張も少し解れた。

暫くして、名前が手を合わせると
「ごちそうさまでした」
明後日の方向を向いたまま小さく頭を下げ、振り返る。
「ありがとう、義勇。美味しかった」
先程の泣き顔は穏やかな笑顔に変わっていて、返事をする前に食器を片付け始める姿をただ眺めた。

「あ、そうだ」
水場にそれを置いてから思い出したように振り返る。

「今日は、泊まっていかない?」

今度は、義勇が動きを止める番だった。

こんな大胆な誘いがあるだろうか、と一瞬思い掛けて、いや違う、とすぐにそれを否定した。
ここ最近、夕餉こそ一緒に食べてはいたが、時間を共にしていたのは一刻もあればいい方。
義勇はすぐに自分の屋敷へ帰っていた。

明日からはこうして会える事もなくなる。
だからだろう。
ただ単に、寂しいというだけで、他意がないのがわかる。

「…あ、でも明日から義勇、忙しくなるし…無理だよね…」
何も答えないせいか、狼狽えながら自己完結させる名前に慌てて口を開いた。

「いや…、泊まっていこうと、思う」

照れくささが混じったせいでたどたどしくなってしまったが、その言葉に見る見るうちに表情が明るくなっていく。

「お風呂沸かしてくるね!」

そうして嬉しそうに走っていく姿を見送った。

* * *

「ピッタリだね。良かったぁ」

湯に入り、名前が用意した寝間着である浴衣へ袖を通し、居間に戻れば、安心したようにそう言われた。
風呂に入る前、何種類かの浴衣を並べてどの大きさの型が良いか悩む姿を横目に入れた事で、疑問が湧く。
「これ、名前が仕立てたのか?」
「あ、うん。蝶屋敷に入りきらない軽症の方とかたまに受け入れてるから用意してるの。あとは仕立てのお客様とか」
「…これまで泊めたのは?」
「うーんと、癸(みずのと)の隊士さんとか、隠の方々とか…正直全員は覚えてないけど…あとは…、そうだ炭治郎くんと禰豆子ちゃん!」
「炭治郎も此処に来たのか」
「うん。仕立てを依頼されて」
「柱は?」
「柱の方々は来た事ないよ?しのぶさん以外はいつも鎹鴉を通じて連絡してるし。仕立てたら私がお屋敷に届けるから」
「…そうか」
安心している、自分が居る。
何年も避けておいて嫉妬、なんて口には出来ないが。
「布団、敷いてくるね」
微笑みかけると和室へ向かう背中を少し遅れて
追った。
押し入れから一組の布団を抱える名前の横からそれを持ち上げる。
「…義勇」
驚いて見上げる瞳は見ないままそれを運んだ。
「何処に敷けば良い?」
「…あ、ここに…」
止める間もなく敷いていかれ、もう一組出そうと動いたがすぐに義勇が抱えていく。
「…ありがとう」
手持ち無沙汰を紛らわすように敷布と枕の皺を丁寧に伸ばしていく。
その手の動きを義勇は無意識に見入っていた。
女性らしい細く長い指、柔らかい掌に触れたいと思った瞬間、そっと添えている右手に自分で驚く。
「……どうしたの?」
「…いや、手が小さいな、と思った」
取って付けた言い訳だが、実際、片手で包めそうな左手に男女の差はあれどこんなに顕著に違うものなのかと考える。
「義勇が大きいんだよ」
小さく微笑うと右手をその甲へ重ねた。
「指も長いから大きく感じるのかな?」
見比べるように伸ばす指先は義勇の第一関節に届くか届かないかの所。
「昔は手の大きさも、そんなに変わらなかったのにね」
不思議、と呟く横顔は、昔の幼顔を残しながら、あの頃には感じなかった艶やかさがある。
込み上げる愛おしさに堪え切れず口唇を重ねた。
触れた瞬間にビクッと震わせる肩に、すぐに離せば真っ赤な顔で俯いている。
気恥ずかしさから逃げようとする両手を空いていた左手で掴むと、もう一度口唇を押し当てるが、逸らす顔に眉を寄せた。
名前を呼ぶ前に
「…ぎ、義勇!さっき何にもしないって、言った!」
苦し紛れに出した言葉に掴む手が弛まる。
「…それはさっきの話だ。嫌なのか?」
「い、嫌じゃないけど…!でも急に…あの!心の準備が…」
「こういうのは大体急なものだと思うんだが…」
「……ど、ドキドキしてっ!息が…苦しいの!ちょっと待ってね…整えるから…!」
必死な訴えに思わず笑ってしまいそうになりながらも言われたまま待つ義勇から顔を逸らすと全集中・常中を繰り返す。
暫くしてふぅ…っと小さく息を吐いたかと思えば
「…もう、大丈夫。心の準備できたよ!」
真っ直ぐ見据える両目で押さえていた笑いの発作がついに弾けた。
「………っ」
項垂れるように顔を隠すと小さく肩を震わせる義勇にわけがわからず眉を下げる。
「何で…、笑うの?」
「…悪い…っ…」
元々世間知らずなのは知ってはいたが、此処までとは思わなかった。
その疎さ故、ずっともどかしい距離を保っていたのに、想いが通い合った今となっては不思議な事で愛しさが増している。
曇りのない一生懸命な姿にすっかり毒気を抜かれてしまい、添えていた両手を離すと髪を撫でた。
「…明日は早い。もう寝よう」
義勇の一言に何度か瞬きをした後、小さく頷く動きにまた頬を弛むの感じていた。


Cherish
その全てが大切だ、と

[ 37/91 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]
[back]
×