雲路の果て | ナノ 35



夕暮れと共に、冨岡義勇の鎹鴉、寛三郎が小さく指令を告げた。
日輪刀を腰に差し家を出て行こうとする姿に、無事を祈るのは変わらない。

「…気を付けてね!」

狭霧山に居た時から、何度その言葉を掛けただろう。
これから先、何度その言葉を言い続けられるのだろう。
そう思わない日はない。

それでも今までとは違うのは

「あぁ」
変わらず小さく返事をして戸を開ける背中に気付けば抱き着いていた。
「………」
思わずその動きが止まる。

「義勇、大好き」

伝えたい事は、沢山あった。

頑張って、だとか、無理しないで、だとか
でもそんな事を伝えたところで、何も意味がないのはわかっている。
だからせめて、その一言に想いを込めた。

生きて戻ってきてください、と。

その想いが伝わっているかどうか定かではないが、義勇は振り向くと返事の代わりに優しく接吻を落とした。
瞬間的に顔を真っ赤にさせる名前に口角を上げると髪を撫でる。
「行ってくる」
「…いって、らっしゃい…!」
動揺しながらもはっきりと見送る声は背後で聞いた。


雲路の


数日後―

名前の姿は蝶屋敷にあった。
「…今日はお薬飲みましたか?」
はい、とはっきりした口調で答える隊士に「もう少しで退院できますね」と笑顔を見せる。

それは本来、胡蝶しのぶの役目であるが、今此処にしのぶの姿はない。
急遽、名前に救援がかかったのは朝方の事。
刀鍛冶の里が上弦の鬼に襲われたとの報告を受け、蝶屋敷へ招集された際、
恋柱・甘露寺蜜璃、霞柱・時透無一郎、不死川玄弥、そして竈門炭治郎が運ばれたというのを聞いた。
蝶屋敷の人員は全てそちらに掛かりきりになってしまったため、既に入院していて容体が安定している隊員達の様子を見る事を依頼されて此処に居る。

「苗字さん!」
名前を呼ばれ、自然と笑顔が零れた。
「こんにちは」
蝶屋敷の入院着に身を包んだ女隊士の傍らへ移動すると、椅子へ腰を下ろす。
「体調はどうですか?」
「もうすっかり!元気です!」
「良かった…。あ、包帯を替えさせてもらってもいいですか?」
「はい!お願いします!」
掛けていた布団を捲ると差し出された左足の包帯を解いていく。
「…回復が早いのでもう少ししたら歩く練習に進めそうだって、しのぶさんが言ってましたよ?」
「ほんとですか!?やったぁ!」
右手でガッツポーズをした直後
「…あ、すみません…」
すぐに頭を下げる姿に笑みが深まる。
「…いえ、退院出来るって思うと嬉しいですよね」
「苗字さん、入院した事あるんですか?」
「もちろん!新人の頃はしょっちゅう怪我ばかりしてしのぶさん達にご迷惑をお掛けしてました…」
苦い思い出が蘇ってきて眉を下げるも
「…そんなに強いのに…。苗字さんにも私みたいな時があったんですね…」
心底驚いたような表情に小さく笑った。
「…そうなんです。あと、伝えなくちゃいけない事があって…」
真っ白い包帯を巻く手を一度止めると、また動かした。
あの声は、しなくなっていた。
「私、左耳が聞こえないんです」
「……え!?ホント、ですか!?全然…そんな風には…」
「呼吸で補っているので不自由はないんです。でももしかしたら、そのせいで皆さんにご迷惑をお掛けする事があるかもしれないので、こうやってお伝えしています」
「…そうなんですね…」
巻き終わった包帯を箱へしまうと同時
「…苗字さんってホント凄い人ですね…」
感嘆に近い声色で言う女隊士に思わず苦笑いをしてしまったが、その真っ直ぐ見つめられる瞳に穏やかに微笑う。
「私なんて全然…!でも…。ありがとうございます。嬉しいです」

そうして診察、とまではいかないが一通り隊員達の話を聞いた後、一礼をして部屋を後にした。

しのぶに報告する内容を整理しながら通りかかった処置室から考えていた人物がひょっこりと姿を現す。
「あら、名前さん。そちらも終わりましたか?」
「あ、はい」
そちらも、という事はしのぶの方も一段落ついたのだろうと判断し、話を切り出した。
「えっと、薬の確認と、包帯の交換、機能回復訓練の前体操は一通りしておきました」
確認するように指折り数えていた手が止まる。
「しのぶさん、あの、左奥のベッドにいる隊士の方なんですが…」
「あぁ、名前さんも気が付きました?」
それは階級乙(きのと)の男隊士。
怪我自体は酷いものではなく、退院の算段はついている。
しかししのぶが気に掛けていたのは彼の精神面。
何か塞ぎこんでいるのはわかっていたが、頑なに会話をしようとしない姿にどう対処すべきか迷っていた。
しかしそれも
「婚約者の方に鬼殺隊を辞めるよう言われてしまったらしくて…」
名前の言葉に僅かに目を見開く。
「…成程。そういう事でしたか」
「でも少しお話をしたら落ち着いたみたいです。退院したら話し合ってみると言ってました」
その報告に、しのぶの表情が少し柔らかくなる。
「ありがとうございます。細かい指示が出来なかった事が気がかりだったのですが…、やはり名前さんにお願いして正解でした」
「…いえ。それより皆さんは大丈夫ですか?」
「…えぇ。傷は深いですが、何とか…」
そう言いながら表情が冴えないしのぶだったが、ふと何かに気付いて顔を上げた。
「…名前さんは大丈夫ですか?」
「…え?」
若干見開く瞳に、自分の右耳を人差し指で差す。
「耳鳴りです。その後の経過は?」
しのぶの言葉に、思い出したように「あ」と声を上げた後、考えるように眉を寄せた。

「それが…あれから続いていたのが、急にパッタリと鳴らなくなって……。きっとしのぶさんの薬のおかげだと思います!」
「いえ、違いますよ」
バッサリと切られ、動きを止める名前に気にせず続ける。
「私が渡したのはただの栄養剤ですから、何の効果もありません」
「…え?…えっと…え?そうなんですか?あれ?」
わかりやすく混乱している表情に、しのぶはいつもの名前に戻ったという安堵感を得た。

あの時、自覚はなかったのだろう。
酷く思い詰めている表情に、心因性と判断したのは間違っていない。
ただ、本人がそれを理解していなかった。
根底にある『不安』に気付かなけば、それは治らない。
『気休め』という言葉で濁して、薬を処方したのは、それで少しでも偽薬効果が出ればいいと考えたからだ。

「良くなったのなら、安心しました。予期不安もないようですし」
小さく微笑むしのぶに、名前はつられるように微笑うと頭を下げる。
「はい、ありがとうございます」
二、三言葉を交わしてから去っていくその背中を見つめた。


しのぶが言う言葉の意味を、名前は理解していない。

予期不安とは、一度経験した恐怖がまた襲ってくるのではないかという不安から、それと同じ症状が引き起こされる精神的な現象である。

名前の場合、元々の症状は疲労や軽い心労からくる眩暈、そして耳鳴りだったが、命の危機に瀕した事で更に自分の精神を追い詰めていった。
そしてその耳鳴りを最終選別で起きた経験と結び付けてしまった事で、短期間の内に症状が加速したと言っていい。

耳が聞こえなくなったら。

この不安が大きな心労となり、耳鳴りを呼応する。

名前本人も気付かぬ内に、とてつもない悪循環に苛まれていた。

しかし、それを救い上げたのが冨岡義勇。

これもまた、義勇本人に自覚はない。
自覚はないが、義勇が名前へ想いを告げたあの時から、耳鳴りが鳴る事がなくなった。

それは紛れもなく、左耳が聞こえない今の現状と、右耳すら聞こえなくなるかも知れない未来を受け入れてくれる存在そのものと、それによって与えられる自己肯定感を得た事にある。

(…名前さんの様子を見る限り、当たっても砕けなかったんですね)

心の中でそう呟いてから笑顔を深めると診察室へと向かった。

* * *

「…あ」

廊下を横切る姿を視界に入れ、背中を追い掛ける。
「あの…!」
立ち止まるとゆっくり振り返るのは栗花落カナヲだ。
「この間はありがとうございます」
「…どういたしまして。でもお礼ならもうこの間何度も聞きましたので、もう大丈夫です。お気になさらず」
「…あの、そうなんですけど…これを…」
持っていた風呂敷から外套(がいとう)を取り出すと両手で差し出す。
「助けてくださったお礼に仕立ててきました。カナヲさんさえよければ受け取ってください」
「……私の、ために…?」
驚いて瞬きを繰り返すが、差し出されたそれを受け取った。
「…本当にありがとうございました」
深く頭を下げる名前に自然と弛む頬に気付く。
(…姉さんから聞いてはいたけど、ほんとに変な人…)
心の中で呟いて「失礼します」と去っていこうとする姿に出そうとした言葉に迷い、一瞬目を泳がせたが
「…あの、私に敬語っ、使わないでください…!」
はっきりと口にすれば、その両目が驚いたように見開かれた。
名前がカナヲに丁寧な言葉遣いをするのは、今まで挨拶くらいで面識がなくというのもあるが、しのぶの継子であるという理由も大きい。
カナヲ本人にもわかってはいたが、炭治郎達とは違い、自分との距離感にふと一抹の寂しさを感じてしまった。
そんな気持ちを名前が汲み取れる訳もないが、恥ずかしそうに俯くカナヲに考えるように天を仰いだ後、笑顔を見せる。
「…カナヲちゃんって、呼んでもいい?」
「…は、はい…」
気恥しさから吃る返事も、向けられる笑顔につられ徐々に口角を上がっていくと、嬉しそうに微笑んだ。

* * *

蝶屋敷を出る前にふと、すみ達の姿を見つけて挨拶をしようと声を出そうとした所で、名前は息を止めた。
「…禰豆子ちゃん!?」
思わず声を上げたのは、鬼である彼女が陽の光の下でのびのびと歩いていたから。
「……あ、名前さん!」
すみ達の視線を受けて、庭に出る。
「どうしたの?禰豆子ちゃんは…どうして…」
「私達にも良くわからないんですが…太陽を克服したってしのぶ様がおっしゃっていられました」
鬼が太陽を克服したなど、この千年余りの歴史で一度たりとも体現した事がない事象だ。

「…禰豆子ちゃん?」
その小さな後ろ姿に声を掛ければ、ゆっくりと振り返る。
枷のようにつけられていた口元の竹もなくなっていた。
「……」
しかし名前を視界に入れた途端、飛び付いてくるのはあの時と変わらない。
「良かった!禰豆子ちゃん!元気そうで!」
そう言いながらギュッと抱き締める禰豆子を抱き返す。
「…よ、良かったねぇ」
ヨシヨシと撫でられる頭を上げた。
「話も出来るんですか?」
それに答えたのはすみ。
「それはまだ…。でも禰豆子さんは、今言葉を吸収してるみたいなんです」
「そうなんですか…」
落ち着いてよく見れば、その爪も瞳もまだ鬼化したままだ。
太陽を克服した事は禰豆子にとって、鬼殺隊にとって光明となるのだろうか?
ふと考えるも、抱き着きながらずっと一点を見つめる禰豆子に考えを止めた。
「どうしたの?」
視線の先を追えば、それは処置室に繋がる廊下。

「…炭治郎くんが心配なんだね」
その言葉に禰豆子が僅かに反応したのに気付き、その頭を撫でる。
「…お兄ちゃんは、大丈夫だよ」
「……だ、だいじょうぶ」
「そう、きっと大丈夫」
「だいじょ、うぶ」

大丈夫
皆、元気になる

願う事は、それだけだった。

All right
まるであやすように

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