雲路の果て | ナノ 31



人一人が屈んで辛うじて通れるような岩穴の中
「…ひっ…く!」
小さく噎ぶ声が響く。
左太ももの出血を止めるために名前は自分の羽織を裂くと
「ごめんなさい。とても痛いですよ…」
ギュッと強く縛った。
「…アァッ!」
悲痛に満ちた叫びに眉を寄せる。
「…苗字さん」
女隊士を囲む二人分の不安な瞳に見つめられ、手巾を渡す。
「これで傷口を抑えてください。暫くしたら出血は止まります」
懐から取り出した竹水筒はもう一人の隊員の手に預けた。
「怪我のせいで体温が上がっているので脱水症状を起こさないよう少しずつ、こまめに飲ませてあげてください」
小さく頷いた二人に眉を下げる。
つい先程、蝶屋敷で見たばかりの笑顔はすっかり脅えたものに変わっていた。


雲路の


鎹鴉が伝えたのは山に潜む鬼の討伐。
隊士になったばかりの三人が、人間の倍はある異能の鬼の頸を斬る事など出来る筈もなく、名前がそこに到着したのは鬼の爪によって足を引き裂かれた直後だった。
次の攻撃が身を裂いてしまう前にすぐに型を繰り出しその腕を切断したが、驚いて退却していった鬼の頸はまだ討てていない。
隊員の応急処置が最優先だと判断し、この岩穴に一度身を隠す事にしたためだ。

「さっき指令が来た時、私も一緒に行くべきでした。ごめんなさい…」
「どうして苗字さんが謝るんですか!?」
「…だい、じょうぶです。この位…」

痛みに顔を歪ませながらも動こうとする肩を止めた。
「動いちゃダメ…!皆さんにはここで待機を命じます」
「…でも!」
ひとまず止血はしたが、すぐに蝶屋敷に運ばなくては足か命か、もしくはその両方を失ってしまう事になる。
不自然に変色し始めてる傷口が毒によるものだという事を言えなかったのは、余りにも三人が狼狽しているのを察したからだった。
この状態で錯乱してしまったら、それこそ命の残りが少なくなってしまう。

とにかく一刻も早く鬼を討たなくてはならない。

「…呼吸を意識してください。ゆっくり、身体の奥にまで届くように深く吸って、吸った分と同じだけゆっくり吐いて…」
指示通りに息遣いを繰り返す両目が不安げに名前を見つめた。
「そうです!すごく上手です!それをずっと繰り返していてくださいね」
黙って頷く表情が若干光を宿したのを確かめてから
「…絶対にここから出ないでください」
強めの口調で言ってから返事を聞く前に、走り出す。

他の隊員や隠の気配を所々に感じながら、先程鬼が逃げていった方角へ走った。
「…苗字さん!」
途端に乙(きのと)の隊士に呼ばれ振り返る。
「隠の人達が…!」
青ざめた表情で指を差した先、数名の隠が地面に転がっているのを視界に入れた。
「大丈夫ですか!?」
慌てて駆け寄りしゃがみ込むも、既に事切れた後。
まだ温かさを宿した身体に今しがた襲われたであろう事が窺える。
鬼がどちらへ向かったのか、周りを見回しながら立ち上がった。
その瞬間


ポ────────…


すぐ近くで、一定の音が響く。
それは電子音のように、長い短音。


前に居る隊員の口が動いているのにその音に掻き消され、声として伝わってこない。
それでも辛うじて必死に何かを伝えようとする口の動きだけで言葉を読んだ。


う え に お に が


その六文字を理解する頃には、目の前にそれが立っていた。

何が起きたかわからないままでは指先ひとつすら動かない。
ただ不思議な事に、死に直面した人間というものは全ての光景が緩慢に見えるらしい。
それは終わりを迎える境地なのか。それとも抗おうとする意志なのか。

永遠に感じた瞬間だったが、実際は降りてくる爪に対抗しうる術も走馬燈を見る暇もなかった。

* * *

「…傷は縫合したのであとの処置は任せます」
「わかりました」
テキパキと綿紗と包帯を用意するアオイから視線を外して、しのぶは考える。
あと三人か、と。
名前が任務に向かってから半刻に近い。

此処からの距離と事前に鎹鴉から伝達された鬼の特徴を考えると、そろそろ戻ってきていてもおかしくはない。
事後処理に手間取っているのだろうか。
そう思いながらもあちこちの骨が折れている隊員に視線を落とす。
「…随分派手にやられましたね。鎮痛剤です。飲み込む事は出来そうですか?」
小さく頷くその身体を起こすと、水と共に流し込んでいく。

開け放たれた扉の向こうから音も立てず現れた存在に気が付いたものの、視線を向ける事なく鋏を手に取ると隊服を切っていく。
「あばらが折れていますから、下手に動かないでくださいね?肺を突き破る可能性がありますので」
粉砕している右腕を確かめながらも
「…何か用があるなら手短にお願いします冨岡さん。見ての通り忙しいので」
静かに名前を呼んだ。
「……」
それでも答える事のない姿に眉間の皺が増えていく。
「…名前さんを探してるんですか?それな「違う」」
思わぬ否定に手を止める事はしなかったが、そちらへ視線を向けるも変わらない表情に何を考えているか読めない。
「違うならその用件とやらを話してください」
「此処に来る途中……、お前の妹と擦れ違った。とても急いでいるようだったから声を掛けなかったが」
名前を思い出そうとしたが思い出せなかった、と呟く姿に今度は別の意味で眉を寄せた。
「…カナヲが?」
慌ただしい中で失念していたが、確かに今その姿が何処にもない事に気付く。
重傷者を受け入れる準備をした時までは確実に此処に居たのは把握している。
しかし隊員や隠が入り乱れるように屋敷へ上がり込んできた時にはその姿は忽然と姿を消していた。
こんな時間に何処へ向かったというのか…。
カナヲの交友関係などほぼないに等しい筈。

「…まさか、あの子…」

何か嫌な予感がしたのは、名前の方ではなくこれだったのか、と納得している自分が居た。
「冨岡さん、大至急西北に真っ直ぐ進んだ先の山へ向かってください。名前さんもそこにいます」
早口で言うとその表情が若干驚いたものへ変わったが隠し切れぬ焦りが伝わったのか、すぐ走り出す姿に止めていた手を動かす。
鍛錬を続けていると言ってもカナヲは圧倒的に経験が足りない。
しのぶの見立てでは鬼の頸を討つ事は難しい。難しい所か不可能と言い切れる。
だからこそわざわざ名前を向かわせたのに、何故その背を追い掛けていったのか。
カナヲと名前はそこまで親しくもない。
何故?どうして?
感情が支配して包帯を手から滑り落ちそうになったのを寸での所で堪え、小さく息を吐いた。

* * *

ガッ!
音を立てて目の前で落ちた片腕に、名前は自分が息を止めていた事を知る。

「…大丈、夫っ、ですか…!?」

小さな背中が振り返ったかと思えば必死に問う表情にそれが誰か認識するのさえ時間が掛かってしまった。

「カナヲ…さん…」

何故彼女の姿が此処にあるのか、疑問より先に再生していく鬼の腕から逃れるように後ろへ跳ぶ。
いつの間にか響いていたあの音は消えていた。

「…どうしてここに!?」
「姉さんが…っ、貴方をっ、心配そうに、…見ていたから…っ!」
肩で息をしながらも両手で刀を構えるカナヲに、震えそうになる両手を無理矢理動かすと日輪刀を抜く。

しっかりしなきゃ。

頭の中で強く言い聞かせた。
今此処で自分が動けなくなったら癸の隊士だけではない。カナヲの命すら危うくなる。

「カナヲさん!私が鬼の動きを止めたら頸は斬れそうですか!?」
「…た、多分…!渦桃なら…!」
「お願いします!」
それだけ言うと鬼の元へ真っ直ぐ走り出していく名前に一瞬声を上げそうになったが言われた通り、型を出す事だけに集中した。

『雲の呼吸 参ノ型 雲翳(うんえい)』

雲の翳に隠れるように擬似連撃を繰り返しながら懐へ入り込んだ所でその頸の右側、皮膚と骨の間を突き刺す。
鬼の硬い頸にも貫通はするが、すぐに次の呼吸へ移行するのは難しい型だ。

「カナヲさん!!」

自分の名前を呼ぶ声に反応し突き刺された名前の刀に当たらぬよう、更にその傷を抉れる角度に目を凝らし『花の呼吸 陸ノ型 渦桃』を鬼の頸へ繰り出す。

想像以上の硬さに一度止まりかけた刃も、名前が『伍ノ型 紫雲』に切り替えた事でその雲に導かれるよう刀が動き、鬼の頸が飛んだ。

「…斬、れた…」

全速で走った挙句、奮起したせいか未だに整わない呼吸で呟けばへたへたと腰を抜かす。
「…ありがとうございます、カナヲさんが来てくれなかったら…」
言葉に詰まる名前に、カナヲは返事をする事はなかったが安心したように微笑んだ。

* * *

「彼女をよろしくお願いいたします」
隊員を背負う隠に深く頭を下げる。
カナヲの力によって最短で鬼を討てたため、太ももに負った傷と毒も今から蝶屋敷で看て貰えば、大事には至らないだろう。
「…苗字さんのお陰です。ありがとうございました」
大粒の涙を溢しながら向けられる感謝の言葉に視線を落とす。
「…無事で、良かったです」
それでも一言返し笑顔を作ると隠を見送った。

「…あ、水柱」

そう呟いたのが誰かはわからない。
恐らく事後処理をしている隊員だろう。
名前、そしてカナヲの視線が向けられる。
「胡蝶が心配していた」
短く言葉に出したのがカナヲに向けられたものだとわかり、名前は事後処理へ向かう事にした。

「ここは私が引継ぎます。庚(かのえ)の皆さんは隠の方々の埋葬を手伝っていただけますか?」
「あ、はい…」

しっかりしなきゃ。

もう一度自分に言い聞かせるように心の中で何度も呟く。

今になってみれば良くわかる。
あれは…、あの音は外から聞こえたものじゃない。
自分の内側から聞こえた、紛れもなく耳鳴りだ。
あそこまで酷いものは初めてだったが、確かに聞き慣れたものだった。
それこそカナヲが追い掛けて来てくれなかったら確実に自分の首が地面に落ちていただろう。

しっかり、しなきゃ…。

鬼が根城にしていたであろう小さな小屋を隅々まで調べる手が止まったのは
「…名前」
その優しい声を耳に入れたから。

部屋の隅で、しゃがんだ姿勢のまま振り向けない。
振り向いてしまえば、溢れそうになる涙が止まらなくなってしまうのがわかっていた。
「…義勇。お疲れさま」
見えない筈なのに笑顔を作ったのは、声色で気付かれてしまわぬように。
そうして背を向けたまま立ち上がった瞬間

キ────ン

今度は甲高い音を聞いた。

右耳の、中で。

咄嗟に右手で外耳に触れるも擦れる音は聞こえる事に安堵し息を吐く。

しっかりしなきゃ。

「他に被害はないみたいだから帰るね。しのぶさんに報告しに行かなきゃ」
その顔を見られず通り過ぎようとした時、掴まれた右手に息を止める。
「…何故、俺の目を見ない」
「………」
「ずっと聞こうと思っていた。何をそんなに思い詰めているのかと」
「思い、詰めてるかな…。いつもと変わらないと思うんだけど…」
困ったように力ない笑顔を返せば握っている右手首から温かくも強い力を感じる。
それだけで涙が溢れてしまいそうだった。

しっかり、しなきゃ。

「苗字さん!」

自分の名を呼ぶ隊士に
「はい!」
極めて明るい声で答えると、その優しく掴む手を振り解く。
「…ごめんね…義勇」
代わりにそう言ってから走り出した。



Kindness
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