「階級癸(みずのと)苗字名前です。先輩、今日からよろしくお願いします」 そう言って、小さな頭を下げた姿を俺はとても良く覚えている。 先輩なんて名称で初めて呼ばれたからだ。 鬼殺隊に入ってから出来た後輩という存在に、何だか嬉しいやら気恥しいやら、複雑な気持ちだったのもあって 「先輩なんて呼ばなくていいよ。俺もまだ癸だし。苗字さんと半年くらいしか変わらないし」 照れ笑いをすれば、彼女は 「いえ!私にとって先輩は先輩です」 そう言って、人懐っこい笑顔を見せた 雲路の果て 鬼殺隊に入隊すれば階級こそは違えど、皆やるべき事は変わらない。 鬼を討つ事。それだけ。 新入りだからといって、特別扱いや優遇はされない。 誰も何も教えてはくれないし、指令以外の全ては自分の判断に委ねられる。 それ故に、癸の隊士は無知や経験不足で死んでいった者が少なくなかった。 「…で、鬼殺隊の一番上の位が柱って言って、すっごく強くてさ!この間もほんっとあっという間に異能の鬼の頸斬っちゃったんだよ!」 「そうなんですか!そんなに凄い方々なんですね!」 男は、半年と少し、自分が得た知識や経験を名前へわかりやすく教えるようになる。 それは右も左もわからない五歳下の後輩への思いやりからだった。 名前は、男の話す事を良く聞いた。 楽しい話にはとても良く笑い、悲しい話には眉を下げ、わかりやす過ぎる程、素直な反応を見せた。 ひょんな事から、両親が鬼に殺されたと自分の生い立ちを話した所、酷く悲しそうな顔をし 「人食い鬼に苦しむ人が、居なくなる日がくるといいですね…」 目を伏せた横顔は嘘がなくて、綺麗だと思った。 左耳が聴こえないと聞いたのは、何度目かの任務で一緒になった時、同じ癸の隊員数名と現場へ向かう際、その事実を告げられた。 「すみません。隠しておきたくなくて…皆さんには知っておいて欲しかったんです」 寂しそうに、それでも強い意志を携えて微笑う名前に、男は思った。 守ってあげたい、と。 徐々に階級を上げていく名前を追い掛けるように、男は死に物狂いで努力をし、一年程遅れて甲(きのえ)の隊士となる。 「苗字!」 「先輩!お久しぶりです!お元気でしたか?」 自分の姿を見るなり駆け寄ってくる笑顔は、初めて会った時と全く変わっていないどころか、嬉しそうに見えた。 階級甲を手に入れた男の世界は、数年で少しずつ変化をしていく。 年齢も手伝ってか、周りが自然と『強い世継ぎを産み育む事』を重視するようになった。 そしてそれが名前の世界にも徐々に押し寄せてきているのも知っていた。 それでも誰が相手だろうと丁寧に断り続ける名前に、ある日男はそれを口にする。 「結婚を、考えないか?」 驚いたように何度も瞬きをするその表情に耐えられず 「…いや、勿論今すぐじゃなくて前提としてというか…ほら、俺達が世継ぎを産めば引いては鬼殺隊のためになるんじゃないかって思ってさ。皆そうしてるし」 自分の感情を隠すように乾いた笑いを付け加えた。 当の名前は俯いたかと思えば、すぐに頭を下げる。 「ごめんなさい。先輩とは…結婚出来ません」 その一言は、男の自尊心を切り裂いた。 何で何で何で何で何で何で何で何で何で有り得ない何で俺が断られる? 「…お前に!断る権利があると思ってるのか!?」 突然の怒鳴り声にビクッと肩を震わせた名前に我に返る。 「あ…悪い…ビックリさせてしまって…返事はゆっくり考えてくれたら、いいんだ」 それから男は、一方的な求婚を三ヶ月程続けたが、名前のはっきりとした拒絶に一度は身を引いた 筈だった。 「何でなんだよおぉぉぉ!!」 突然男が上げた奇声。 「俺がこんなにお前のために!!ずっと!何年も一緒に居たのに!!守りたかったのに!!何で今…そんな…!」 諦めた、つもりだった。 「嫌いなんです」 そうはっきり言われ、腹は立った。 立ったが、誰の求婚も受け入れず指令をこなし続ける名前の姿は凛としていて、相変わらず綺麗だと。 だから、未だ燻り続ける心を諦めようと自分に言い聞かせた。 それなのに、いつの間にか、本当にいつの間にか、その隣には水柱・冨岡義勇が居るようになっていた。 屈託のない笑顔を向ける名前と、それを当たり前のように受け入れる義勇。 現場で見かける度に、抑えきれぬ程の怒りが沸いた。 そこはお前の場所じゃない俺が元々居た場所だった何で俺に笑顔を向けない?俺が何したっていうんだ 「こんなに好きなのに!!何でなんだよおぉ!!」 そのまま泣き崩れる男を見下ろす義勇。 縋るように掴む羽織から、嫌でもその震えが伝わってくる。 「俺は…!!俺は苗字を守りたくて!!」 「…そう思うのなら、尚の事その目で見てみるといい。名前が今、どんな顔をしているのか」 反射的に上げた顔を、義勇から斜め後ろに立つ名前へと移る。 「………」 どうして、そんな顔で俯いているのだろうと思った。 「…苗字?」 自分が呼ぶ声で、大きく肩を震わせ硬直する口唇。 「先輩!」 瞬間的に思い出したあの笑顔は一体いつの記憶なのか思い出せないくらいに、時間が経ってしまっていた事に気付く。 「……苗字…」 その笑顔を壊したのは、紛れもなく自分自身。 どんなに縋っても、その笑顔が戻ってこない事を今漸く理解した。 「…ご、めん…苗字…ごめん…」 泣きじゃくりながら蹲る姿に、名前は義勇の制止を擦り抜けると、その前にしゃがみ込んだ。 「…あ、の…、先輩…が、教えてくれた…たくさんの事、今でも覚えてます。これからも…ず、ずっと覚えています…!」 今でこそ、こんなに小さくなって震わせる背中も、当時の名前にはとても大きくて頼りになる存在だった。 「…私にとって、先輩は今も…先輩ですから…」 「…ごめん…ごめん苗字…」 更に何かを言い掛けようと口唇が動いたが、目を伏せた後、立ち上がると同時に左腕を掴む義勇。 「もう良い。入ってろ」 その言葉に、小さく頷くと大人しく屋敷の中へ入る名前を目端で確認してから、また男に視線を落とす。 「名前はああ言ったが、俺はお前を許していない。今後一切あいつの視界に入らない事を誓え。破った時には次こそ容赦はしない」 冷たくそう言えば、何度も首を縦に振る男。 そうして力なく立ち上がると、フラフラと歩き出す背中を黙って見つめた。 トントン、と一応合図をしてから引き戸を開ける。 竈の前に立つとお湯を沸かしているのを視界に入れる。 傍らには湯呑と急須が置かれていて、茶を入れるつもりなのだろうと予測したと同時に、 「…座ってて。今、お茶入れるね」 それはいつもと変わらない声色と、変わらない横顔。 言う通り居間へ上がろうとして、その肩が小さく震えているのに気付いた。 沸騰した薬缶を持ったかと思えば、その手もカタカタと大きく震え出す。 「…あれ…?おかしいね…なん、だろ…」 笑顔を作る名前に、義勇はそっと近付くと薬缶を持っている右手を支えた。 「良い。無理をするな」 火傷をしないよう、それをゆっくり竈へ戻させた後、震えたままの右手を左手で包む。 「…せ、先輩はね…私が鬼殺隊に入って…から色々教えてくれてね…」 声を震わせながらも懸命に話し出す姿に眉を寄せながらも静かに聞き入った。 「すごく…い、良い人だったの…私、すごく、助けられて…」 包み込んだ右手にギュッと力が入るのがわかる。 「…け、結婚を申し込まれた時、私の事…好きなわけじゃないんだって思って…諦めて欲しくて…き、嫌いって…言っちゃった、の…」 青ざめた表情に、答えるよう握る左手でもう一度強く握る事しか出来なかった。 こんな時、錆兎なら的確にその気持ちを救えるような言葉や行動を取れるのだろう。 無意識にそう考えてしまう自分が居た。 「…わ、たし…ずっと、先輩の事、き、傷付けてたんだね…」 「違う。あれは完全な逆恨みだ。名前が気にする事じゃない」 「……義勇、は…」 その瞳がまた不安そうに揺れる。 「…義勇は…ずっと知ってたの…?」 真っ直ぐ見つめられ、一度視線を落とすと口を開く。 「…ずっとじゃない。気が付いたのは、ほんの数日前だ」 あの時、凄まじい憎悪の中に、微かに名前への愛情を感じた。 それこそ、自分と似たような。 「…余計な不安を与えたくなかった。知ったらお前は…」 だってほら、もうこんなにも泣きそう顔で 「そうやって、自分を責めるだろう?」 その言葉と共にポロポロと落ちていく涙。 無理矢理拭おうとする両手を優しく制止した。 「…うっ…ひっ、…っ」 泣き顔を見られまいと俯いて逃げようとする名前の肩を掴み、自分の胸元へ引き寄せる。 「隠さなくて良い。俺の前では、無理しないで良い」 ゆっくり髪を撫でながら続けた。 「少しで良い。こういう時だけでも良い。お願いだから…頼ってくれ…」 恰好がつかない台詞だと、自分で思う。 それでも、その震えた両手が縋るように羽織を掴んだのに気付いて、力の限り抱き締めた。 「…っ…ぎゆ…!…ひっ…く…!」 咽び泣く声に固く目を閉じる。 この腕の中で小さく震える姿が、どうか、どうかこれ以上傷付く事がないよう、願い続けた。 Distance 縮まりゆく距離 [mokuji] [しおりを挟む] [back] ×
|