雲路の果て | ナノ 27



空高くまで登った陽が、また徐々に下がってきた午後、蝶屋敷の門を潜って縁側を歩く。
ふと中庭に、胡蝶しのぶの姿を視界に入れその足を止めた。
植え込みの前でしゃがみ込んでいる背中に声を掛けるべきか迷うと同時
「随分と遅い到着ですね。名前さんと伊之助くんなら指令が来て今日は解散してしまいましたよ?」
明らかに背後に居る人物が義勇だと認識している言葉が飛んだ。
木製の鑷子(せっし)を持つ右手が不規則に動いていく。
「…花の手入れか?」
「えぇ。最近忙しかったせいか気が付いたら油虫が住みついてしまいまして、駆除している所です」
可哀想ですけどね、と一言付け加えてから、しのぶがまた手を動かす。
上空を飛んでいた寛三郎が急降下し、義勇の左肩に止まった。
「指令ジャ…義勇…」
弱々しい言葉はしのぶの耳にも届いていたらしい。
「名前さんが戻ってきたら冨岡さんの事は伝えておきますから、安心してください」
小さな背に純粋に浮かんだ疑問を口にした。
「何故そこまで俺に協力しようとする?」


雲路の


その言葉に、反応したように止まった右手も、またすぐに動いた。
「何か裏があるとでも思っていらっしゃいます?」
「…そうまでする論処が見えないだけだ」
若干ではあるが、緩まる口調にしのぶは葉の裏に隠れていた油虫を鑷子で掴むと排除する。
「雲の呼吸」
呟いてから視線を落とす。
「名前さんがその使い手だと聞いた時、妙に納得する自分がいました」

広大な空をただ静かに漂う真っ白い雲のようだと、そう思った。
都度、周りに受動し色も形も変え、確実に目に映ってはいるのに掴む事も出来ずただ流れていく様は、まるで彼女の存在そのものだと。

「誰かが傍で見ていないと、いつか良くないものに流されてしまう気がしまして」

それこそ、雲のように跡形もなく消えていくのではないか。
そんな風に思ったのはいつからか。

義勇の目が若干開かれたのは気が付かないまま、しのぶは小さく笑うと
「まぁ、私が勝手に思ってるだけなのですけどね」
鑷子で虫をつまんでいく。

その小さな背中を見つめながら、ずっと抱いていた疑問を、義勇はこの時、理解していた。
狭霧山を下りてから、再び距離が縮まるまでの間、それこそ文字通り遠くから眺めていただけで細かい事由など何ひとつ把握していない。
それでも名前は今でも、事そのものに関して一切の穢れがなかった。
恋愛に縁がなかった訳ではないのは、それこそ義勇自身が知っている。
今でさえその無垢な姿に自分と同じように、あわよくばを狙う隊員を数え切れぬ程に見てきているからだ。
それでも名前がそのままで居られたのは…

「…そうか。胡蝶…。お前が守っていたのか…」

突然の台詞に鑷子を持った手が、また一瞬動きを止めた。
「守るなんて、そんな大袈裟なものではありません。ただ一応、私の目につく限りの害虫は駆除してきたつもりです。でなければあの名前さんが今まで何事もなくいられる筈がないかと」

初めて会った時にはその純粋故の無防備さに苦言も呈したが、自覚などない名前が変わる筈もなかった。
ならばその周りを囲もうとする下心を潰していくべきだとしたのは必然の選択。
中途半端に手を出そうとした隊員を理詰めにした事もある。
いつしか名前に近付いた男は、胡蝶しのぶに抹殺される、そんな噂が水面下で噂されるようになった。
しかしそれも、彼女が甲になってからは、余程目に余る虫以外は目を瞑るようにした。
このまま駆除を続けていくと、完全に名前の人間関係を絶ち、孤立してしまう事になってしまうと判断したからだ。
随分前に甲の隊士と結婚するのではないかという話も何となく聞いてはいたが、名前本人が直接伝えてくる事はなかったため、それこそ自分が介入して良い事ではないと、甲間で起きている出来事には関与してこなかった。

「…何故、俺は排除しない?」

突然の発問に、思わず眉を寄せると振り返る。
「珍しいですね。駆除される方をお望みですか?」
「そういう意味じゃない。される者とされない者、その差がわからないだけだ」
「…あぁ、それなら簡単です。名前さんに害を及ぼすか否か、ですよ?私が駆除してきたのは中途半端に食い散らかしてボロボロにしていくような、本当に害でしかない虫でしたから」
「………」
「もしかして冨岡さん。今少し、私に感謝していたりします?」
図星だと認めるように動いた目蓋。
小さく笑うと顔を戻し、また鑷子で虫を摘まむ。
「…出来るなら、警戒心というものも教えておいて欲しかった」
ボソリと出した言葉に、今度は苦笑いが溢れた。
「…警戒心…まぁ、そうですね。少し隙は大きいですね。人よりかは」
「…少しどころじゃない。お前が目を光らせていたとはいえ、良くあれで無事だったと言わざるを得ない程に無防備だ」
「……。貴方、名前さんに一体何したんですか…?」
一瞬だがピリッとした空気を放つ背に、詰まりそうになった言葉も
「…俺がどうこうという問題じゃない」
一言答えると足元に視線を落とした。
「あいつは…、自分から勘違いされるような言動ばかりする」
「…名前さんが…?自分から?」
明らかに驚愕したといった様子で振り返る表情に、眉を寄せた。
「…ふむふむ。そうですか…。名前さんが、自分から、ですか…」
一人で納得した様子で何度も頷いた後、ニコリと微笑った。
「それって冨岡さんの事が好きな証なのでは?」
ドキッと脈打った心臓も、すぐに冷静さを取り戻す。
「それは確実に違う」
「そこまでご自分できっぱり否定しなくても…。悲しくなりませんか…?」
「俺に対して警戒しないのは共に育った仲だからだ。それ以上でも以下でもない。だが…」

甦るのは先日の記憶。
握り飯を頬張る伊之助と優しく見守る
名前。

「誰にでも触れようとするのは、やめた方が良い」

あの時、本当は言いたかった言葉を今溢せば、しのぶは何も返さずにじっと義勇を見つめる。
「…何故そんな猜疑的な目で見る」
「存外、猜疑的な目で見ているのは冨岡さんの方では?」
意味がわからず寄せた眉間の皺に
「それは本当にそうだと言えますか?本当に名前さんが誰かに期待を持たせるような事をした、と絶対に言い切れます?」
大きな瞳が強く問いかけた。
グッと喉を鳴らす義勇に構わず更に続ける。
「そうなっては欲しくない焦燥から錯覚を起こしたのでは?」
「…随分、頑なだな」
「確かに名前さんは無防備ですし隙もありすぎる所はありますが…、自分から誰にでも思わせぶりな態度をする人ではありません。そんな事をしていたら既に私が叱っています」
妙に説得力がある言葉にあの時の出来事をもう一度最初から思い出す。

「…伊之助くん、お米が…」

そう言って動いた右手。
それは伊之助へ向かって伸ばされた…のではなく、真っ直ぐ上に向かって動いていた。

「ここについてるよ?お米」

僅かに開かれる瞳孔に、しのぶは眉を下げると問い掛ける。

「あらぬ疑いは晴れました?」
「……そう、らしい」

流れた静寂に、固まったまま動かない姿。
「そういえば冨岡さん?指令を受けている筈では?」
「……」
我に返ったように眉を寄せると踵を返す義勇の背中を、苦笑いに似た表情で見送りながら、相変わらず何処か抜けている、と考えていた。

* * *

それは五日後の事。
「よっしゃあああああ!!出来た!!」
蝶屋敷の一室に、伊之助の歓喜の叫び声が響いた。
「どうだ名前!半々羽織!この文字!!完璧だろ!?」
見せつける一枚の紙に、大きく頷きながら笑顔を深める。
「うん!すごいね伊之助くん!よく書けてる!」
「…良いんじゃないか」
素っ気なく一言で答えた義勇も、瞳は若干の温かさを宿していた。

自分の満足いく文字が書けたと自信をつけた伊之助はそれを片手に立ち上がる。
「これを渡してくればいいんだよな!?」
「うん。きっと喜んでくれると思うよ」
答え終わる前に既に走っていく後ろ姿を笑顔で見送った。

使いっぱなしで放置されたままの筆や墨を片付けながら
「…ありがとう、義勇」
穏やかな笑顔を右側へ向ける。
「…礼を言われるような事は特に何もしていない」
「だって義勇がほとんど伊之助くんに教えてくれたんだよ?私じゃ全然役に立てなくて…」
視線を長机へ戻すと徐々に下がっていく眉。
丁寧に半古紙で穂先を拭く両手を眺める。
「名前が居なければ、そもそもこの話は成立していない」
使う事のなかった紙を揃える義勇に
「あ、ありがとう」
今度は別の意味で礼を言うと、続ける。
「私も義勇に文字の書き方教わろうかなぁ」
「何でわざわざ…」
「だって伊之助くんに教えてる義勇の姿、かっこよかったんだもん」
反射的に止めた動きも
「…そう、いう台詞は誰にでも言わない方が良い」
あくまで冷静を装って返すが、名前は不思議そうに瞬きを繰り返す。
「…誰にでもじゃないよ?義勇にしか言ってない」

「それって冨岡さんの事が好きな証なのでは?」

期待を加速させそうな思考を無理矢理落ち着かせる。
あくまで平常心を保とうと気付かれぬよう深呼吸をしたが
「…嫌だった?ごめんね…。もう言わないようにする…」
分かりやすく落ち込んだ表情に狼狽えるのを隠せないまま口を開いた。
「…嫌な訳じゃない。俺だけになら…構わない」
呟いた声が上擦ったものの、名前は気付く事もなく
「…うん」
嬉しそうに微笑う。
熱を帯びそうな顔をさりげなく手にしたままだった白い紙で隠した。

* * *

「オイ」
突然後ろから飛んできた声に真っ白いシーツの皺を伸ばす手を止めると、静かに振り返る。
「何ですか?」
目に止めた猪頭に、若干眉を寄せた。
「やるよコレ」
そう言って渡された一枚の紙に、更に眉間の皺が濃くなる。
「…これ、私の名前ですね」
両手で受け取ったそれに視線を落とせば、書かれているのは『神崎アオイ』の五文字。
「すげーだろ!俺様が書いたんだぞ!」
「確か伊之助さん、読み書き出来ないって言ってませんでした?」
「だからだよ!だから練習しまくったんだっつの!!」
「…私の名前を、ですか?」
「そうだ!俺の初めての相手だぞお前は!!感謝しろ!」
その瞬間、紅潮するアオイにわかりやすく驚くと慌てだす伊之助。
「何でお前顔赤くしてんだ!?熱でもあんのか!?」
「…違います!大丈夫です!」
隠すようにくるっと後ろを向いたかと思えば
「…ありがとうございます。大事にします」
小さく呟くアオイに調子が狂う。
「…お、おぅ」
無意識に抑え気味に答えてから、自分の顔も熱くなっている事に気付いた。



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