雲路の果て | ナノ 26



それはある日の任務終わりの事。
朝日が昇り始め空が明るくなると共に、蝶屋敷へ戻った嘴平伊之助は診察室の前を通りかかった。
開け放たれた扉の向こう、机に向かう左斜め後ろ姿に足を止める。
それがいつもの見慣れた人物じゃなかったからだ。

「…お前、しのぶの所で何してんだ」

低めに声を掛ければ、別段驚くでもなく振り返ると、屈託のない笑みを向けられる。

「あ、伊之助くん。おはよう」

確かそう、紋次郎ならぬ炭治郎が言っていた。仕立て屋とかいう女だ。初めて会った時に自分の猪頭を褒めたから、何となく覚えている。

「報告する前にしのぶさんに指令が来ちゃったから、覚え書きを書いてたの」
「…何だその覚え書きって」
気になって近付けば机には全く以て意味不明な記号のようなものが並んでいた。
それが文字というものであるのは、伊之助にも理解は出来た。
「覚え書きっていうのはね、必要な事を伝えるために書いておく…うーん、簡単に言うと手紙みたいなものなのかな」
「だったら手紙って言えばいいじゃねぇか。何でわざわざ言い方変えるんだよめんどくせぇ」
正確に言えば、手紙は完全に相手に向けられたものの意があり、覚え書きは主に自分に向けたものの意があるが、名前がその違いを上手く説明出来る筈もなく、
「そういえば、そうだね。どうして違うんだろう?」
完全に伊之助に言いくるめられた。
じっと猪頭がその紙を覗き込んでいたと思えば
「…お前、文字綺麗だな」
ぽそりと呟く。
読み書きが出来ない自分が言える台詞ではないが、ただの羅列の筈のそれが、何故か温かい感じがした。
「そんな事ないよ。変なクセもついちゃってるし…」
困ったような笑顔を見せる姿に一度止めかけた言葉をそのまま口にする。
「俺も、書けるようになりたい」
その言葉に、名前は驚いたように顔を上げた。


雲路の


蝶屋敷のとある和室。
そこに伊之助と名前は居た。
用意された長机に、伊之助は左側、名前は右側にそれぞれ並んでいる。
目の前には真っ白な紙と、墨と筆。
部屋から何からは全て、しのぶから許可を得て用意してもらったものだ。
「…じゃあ、まず真っ直ぐの線を引いてみようか?」
名前の言葉にその猪頭がわかりやすく苛立つ。
「はあぁぁ!?俺は文字が書きたいって言ったんだよ!何で線なんか引かなきゃいけねぇんだ!」
「いきなり文字を書くより、まずは筆に慣れてからの方がいいと思うんだけど…ダメかな?」
困ったように眉を下げる姿に立ち上がると机へ右足を乗せる。
「俺様を誰だと思ってんだ!天下の伊之助様だぞ!文字なんかちょちょいのちょいで会得出来るに決まってんだろ!?」
「伊之助くん…。墨が零れたらしのぶさんに凄い怒られるよ…?」
ハラハラしながら出されたその名前に大人しく乗せていた足を下ろした。
「じゃあ平仮名から書いてみようか?」
「何だひらがなって」
「あ、い、う、え、おっていってね。こういう…ひとつひとつの」
白い紙に書いていく文字にまた眉間を寄せる。
「俺が書きたいのはそういうのじゃねぇ!!」
流石に名前が驚いて身を引く中、伊之助は立ち上がると勢い良く指差した。
「お前この間書いてただろ!?こう、カッコイイ文字!俺はそれが書きたいんだよ!!」
「…かっこいい、文字…?」
「そうだよ!こう!線がたくさん集まってて、カクカクしてカッコイイやつ!!」
伊之助の言葉に視線を落として考える。
「…あ、もしかして…漢字の事?」
「名前を言われても俺にはわかんねぇ!」
「そっか…えっと、こういう…」
何を書けば良いのか悩んで、咄嗟に目の前にある紙に
『伊之助』
と書いた。
「そうだ!こういうのだよ!俺が書きたかったのは!」
胡坐で座り込んだ姿に一度筆を置いて考える。
「いきなり漢字を書くのは少し難しいと思うけど」と言い掛けたが、それでも、書けるようになりたいと言われた時「伊之助くんなら出来るよ!頑張って練習してみよう!?」
そう言ってしまった手前、やる気を殺ぐ訳にもいかず
「きっと伊之助くんならすぐ書けるようになるね」
前向きに肯定した。

* * *

「今日は随分と騒がしいな」

定期的な薬の補充をしに診察室を訪れていた
水柱・冨岡義勇は、僅かだが此処まで響いてくる誰かの声にふとそう口にした。

「あぁ、伊之助くんの声ですね。名前さんも一緒にいらっしゃいますよ?」
その名前に一瞬でも眉が動くのが蟲柱・胡蝶しのぶは面白いと考える。
「様子、見に行ってみますか?」
「…いや、良い」
「そうですか。私は気になるので今から見に行きますが、冨岡さんはお帰りですね。わかりましたお疲れさまです」
椅子から立ち上がると診察室から出るが、義勇の姿が追ってこないのに気付き、足を止めた。
戸からひょこっと顔を出せばそのまま立ち尽くしている背中に苦笑いをひとつ。
「素直にならないと折角の好機も逃しますよ?良いんですか?本当に行かなくて。ついてくるなら今ですよ?」
「………」
黙ったままだったが大人しく歩を進め始めた姿に口角を上げながら名前と伊之助が居る和室へと向かう。

一応コンコン、と合図をしてから襖を開けた音も
「ああああぁぁぁぁもういい!やめた!!」
伊之助の叫び声に掻き消された。
「少し休憩しようか。お茶煎れてくるね」
そうして立ち上がろうとした時
「もういいっつってんだよ!やめだやめ!!大体何だよこの文字!」
紙に書かれた"嘴"を睨みながらバンッと叩いた机から置いていた筆が滑り落ちる。
やばいと思った瞬間、それを受け止めたのは名前の両手だった。
「…あっぶなかったね」
驚いた後、それでも安心したように微笑う表情に顔ごと目を逸らす。
「…何で怒んないんだよ」
「怒る?どうして?」
両手どころか羽織ってる着物の袖も、穂先が勢い良く跳ねたせいで墨まみれになっていた。
それ以上何も言えなくなった伊之助に漸く気付いたように、筆を戻す。
「手についた墨なら洗えば落ちるから大丈夫だよ。着物ならまた仕立てればいいし、気にしないでね」
手を拭くため自分の手巾を出そうとした所で、後ろから差し出されたそれに視線をそちらに向けた。
「…義勇」
驚いた顔で何度か瞬きしたが、その意味を理解して手巾を受け取る。
「ありがとう」
「げ。半々羽織…」
明らかに嫌な顔をしたのを義勇は見なかった事にした。
「何してるんだ?」
「あ、今ね、伊之助くんが自分の名前を書こうとしてるんだけど…」
さりげなくその右隣に腰を下ろす姿を眺めてから、しのぶはそっと襖を閉じると今来たばかりの廊下を軽い足取りで引き返していく。

名前がかいつまんで説明したのはこうだ。

漢字が書きたいと言うのであればと教えたのは、自分の名前である『嘴平伊之助』その五文字。
しかしそれも本人の集中力が続いたのはほんの十数分。
「…伊之助くん。筆の持ち方はね」
「漢字には書きやすい順番があるんだよ?この文字は下から上へはいかないの」
そんな事を言い過ぎてしまったせいで完全にやさぐれてしまった、までが経緯。

「ハン!こいつに説明したってどうせ馬鹿にされるだけだぜ!」
まだ若干臍を曲げている伊之助が片膝を付いたが、義勇は黙ったままミミズが這ったような文字を見つめていたかと思えば
「初めてにしては上出来だ」
短く言葉にした。
思ってもみなかった言葉に一瞬動きを止めた猪頭に視線は向けず続ける。
「書けないのは難易度の問題だろう。もう少し親しみやすい漢字から慣れていけばその内自分の名前も容易に書けるようになる」
淡々とした口調だが、それが伊之助への勇気づけなのがわかって、名前は口を開いた。
「私が伊之助くんの名前を書こうって言っちゃったの…ごめんね」
「謝る必要はない。名前を書けるようになれば後々役に立つと考えての事だろう?」
「…うん、そうなんだけど…。伊之助くん、もう少し違う漢字にしてみようか?」
二人が持つ空気に圧されたように、その頭が小さく縦に動く。
「…おぅ」
小声になってしまったのは、不思議な感覚がしたからだ。
半々羽織、基い義勇が纏う雰囲気が明らかに温かい、ほわほわしたものだった。
こんなにも優しい空気を放つ奴だったか?とつい狼狽えてしまった。

「ただ文字を覚えるよりも、伊之助くんは何かわかりやすい目標みたいなものがあるといいのかなぁ」
名前が暫く天井を仰いだ後「そうだ!」と両手を合わせた。
「他の人の名前を書いてみるっていうのはどう?」
突然の提案に
「はぁ?」
良くわからないまま首を傾げる。
「それで、書けるようになったらその人に贈るの。きっと貰った人は喜ぶと思うし、伊之助くんは文字の練習になるし!どうかな?」
嬉々としたその表情と
「良いんじゃないか。明確な目標があると上達も早い」
義勇の醸し出す空気にまた圧されるように小さく頷いた。
「そしたらお前の名前でいいじゃん」
「私?…うーん、練習してるって知らない人の方が驚きがあると思うんだけど…」
また考え込むその姿。
「じゃああいつだ。かまぼこ権八郎!」
「……?」
「多分、炭治郎の事だ」
「そう!半次郎!あいつの名前なら簡単そうだ!どうやって書くんだよ?」
やる気に満ちた伊之助とは裏腹に、表情が浮かない名前。
「炭治郎くんは苗字がちょっと…」
そう言いながら書き出した文字に伊之助の動きが止まる。
「何これ迷路じゃね?」
"竈"の文字の事を言いたいのだろう。
言い得て妙な例えに苦笑いが漏れた。
「難しいよね…」
「じゃあ紋逸だ!あいつの字は!?」
「…紋…、あ、善逸くんかな?えーと…」
我妻善逸と書いた紙を間髪入れずにビリビリに破る伊之助。
「何だよこいつら!何でこんなカクカクしてんだよ!?」
理不尽な怒りを爆発させているのを苦笑いしながら、伊之助でも書けそうな名前の人物へ考えを巡らせた。
胡蝶しのぶ、栗花落カナヲ、宇髄天元…どれも文字を書いた事のない伊之助には難し過ぎるかと思った瞬間
「…あ」
ある人物を思い出す。
「伊之助くん!この人ならどう?」
そう言って筆を取ると紙へ滑らす。
「ね?書けそうじゃない?」
それを見つめたまま暫く考えるように動きを止めていた伊之助だったが
「これだよこれ!俺はこういうのが書きたかったんだよ!!」
俄然やる気に満ち溢れた。


その日から、伊之助と名前、そして義勇の三人は連日時間を見つけては蝶屋敷の一室へ集まるようになる。
最初こそ過程より結果を求めていた伊之助も、名前の励ましと義勇の的確な教授に随分と大人しく話を聞くようになっていた。

「"とめ"と"はらい"の違いはわかるか?」
「わかる訳ねぇだろ!?馬鹿にしてんのか!」
「馬鹿にしてるのではなく確認をしている。わからない事を恥だとは思わなくて良い」
黙り込む伊之助に、義勇は白い紙へ筆を滑らせる。
「これが"とめ"、そしてこれが"はらい"だ」
「は?何がどう違うんだよ?」
「剣術で言えば"とめ"は突き、"はらい"は力の流れに任せた斬りだと考えれば良い。実際に動いてみれば想像もしやすいだろう」
「そういう事ならわかるぜ!!」
双剣を抜くと突きと斬りを繰り返し始める。

「…お疲れさま!お昼ご飯作ってきたよ〜」
トントン、と音を立ててから襖を開けたのは名前。
先程までは二人と同じようにこの部屋に居たが、昼餉の時間に迫るにつれ、伊之助の集中力が途切れ途切れになるのに気付き、しのぶに許可を得て台所を拝借していた。
両手には大量の綺麗な三角の形をした握り飯と、二人分のお茶が乗った盆。
「少し休憩しよう?」
二人の目の前、畳にそれを置いた所で真っ先に反応し、猪頭を取ったかと思えばすぐに握り飯を貪り始めたのは伊之助。
釣られるように義勇もひとつそれを手にすると一口齧る。
「…これ、全部名前が握ったのか?」
「ううん。一人でこんなにたくさん作るのは時間が掛かっちゃうからって皆が手伝ってくれたの」
眉を下げて笑ったあとその表情が、また嬉々としたものに変わった。
「皆凄いんだよ?私がひとつ握る間に何個も握っちゃうの。ほとんど作ってもらっちゃった」

名前も知ってはいるが、蝶屋敷に仕える彼女たちには日常だ。
怪我人の介抱を主としているため、時間などいくらあっても足りない程に、やらなければならない事は山のようにある。
一つの作業に時間を掛ける訳にはいかず、自然とその技術を身につけた。

「…そうか。早く食べないとなくなるぞ」
「あ、私は大丈夫!実はさっきね、こっそり食べてきちゃった」
悪戯っぽく笑う姿が未だバクバクと握り飯に食らい付く伊之助を捉え
「…伊之助くん、お米が…」
そう言って動く右手首を阻止しようと左手で掴んでいたのは、完全に無意識だ。
「義勇?」
「……。野生動物の捕食中に手を出すのは命知らずだと鱗滝さんに教えられただろう」
「野生動物って…もしかして伊之助くんのこと?…ふふっ」
小さく笑う名前が右手を緩めた事で掴んだ手を離した。
「あ?何か言ったか!?」
そう言いながらも食べる事は止めない伊之助の声に名前は一度制された手で自分の右頬を差す。
「ここについてるよ?お米」
「…ん?あぁ」
手の甲で粗雑に擦るとまた食べ始める姿を眺めながら、笑顔を深める表情に出た重めの溜め息は、義勇本人以外気が付く事はなかった。


Limping
純粋無垢にも程がある

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