雲路の果て | ナノ 25



「…ほんとに?ほんとにやっつけたの?」
上から聞こえる物音が止んだ事を気にし、部屋へやって来た女将は、鬼を討ったという報告に心底驚いたように目を丸くさせた。
「はい。あの、他のお客さんは大丈夫でしたか?」
部屋の損壊自体は免れはしたが、あれだけの闘いを上で繰り広げて気付かない筈がない。
眉を下げた名前に、女将は豪快に笑うとその肩を叩いた。
「でっかいネズミが暴れてるって誤魔化しといたよ!」
それで騙される人間は皆無だと思うが、それでも大きな混乱が生じなかったのはこの女将の人徳によるものなのだろう。
「ごめんなさい。畳を汚してしまって…」
目に入るのは女が遺した血痕。
「こんくらいどうって事ないよ。拭いて落ちなかったらどうにか誤魔化すだけさ」
この状態でも旅籠として続けていこうとする根性も見上げたものがある。
「あ、じゃあ私雑巾取ってきます!」
「あぁ、良いよ良いよ!って…あの子足速いね…」
すぐに見えなくなった背中に苦笑いをすると、窓の外をただ眺める義勇へ視線を向けた。


雲路の


「…どうしたの?ずっと喋らないけど」
「…喋らないのは元々だ」
「それはまぁ見れば…ってそうじゃなくてさ。名前ちゃんにフラれたの?」
観察眼を持つ割に直球で人の心を抉っていく女将は無意識で無自覚だ。
フラれる所か告白するという土俵にすら立つ間もなく終わった、というのは心の中だけで思う。とてもじゃないが口には出せないし出したくもない。
「おやまぁ、冗談のつもりだったんだけどホントに?」
沈黙を貫く義勇にそれが肯定なのだと勝手に判断し憐れみの目で見る。
「脈がない訳じゃないと思うんだけどねぇ…」
「根拠のない慰めは不要だ」
これでは完璧に認めてしまっているようなものではないかと気付いたのは口に出してしまってからだ。
しかしどんなに望みを持たせるような事を言われても、今の義勇には更に心が抉られるだけで、続く言葉を止めるしかなかった。
「根拠はあるよ。人を見る目だけは誰にも負けないからね」
「随分と自信満々だな…」
「そりゃそうさ。何十年此処で人間相手に商売してると思ってんの?三十年だよ三十年。ひよっこのあんたが生まれるもっと前から鍛えあげてるんだからね」
そう言われると説得力もあるかも知れないが
「…俺はひよっこじゃない」
その言い方に若干眉を寄せた。
「ひよっこみたいなもんだよ。一回フラれたくらいでそんな所でウジウジしてんだから」
「フラれてもいない」
「なんだ。フラれてないなら余計じゃない。何があったかは知らないけど今落ち込む必要なんてないでしょ?」
「………」
会話を終わらせるようにだんまりを決め込み始めた義勇に、女将は溜め息を吐くとまだ名前が戻ってきていない事を確認してから口を開いた。

「傍にいるんだよ。何でも良いから、とにかく傍にいるんだ」

優しく諭すような言葉に、義勇の視線がそちらへ動く。
「人の気持ちなんて何処でどうなるかなんて確証はないけどね。ないからこそ…、育てる事も出来るんだよ」

譬えるなら、それは花のよう。
種を蒔き水を与え、芽吹いたら、枯れてしまわぬよう腐ってしまわぬよう、ずっと目を離す事なく傍に居れば、きっといつか…

「いつか想いが花開く時が来るって信じて、傍にいなさい。それがひよっこに出来る人生の大先輩からのアドバイスだよ」

「…だから俺は」
言い掛けてやめたのは、その目が真剣だというのがわかったからだ。
何かを答えるべきだろうと迷いながら動かした口は
「まぁ咲いてもすぐ枯れるかもしんないけどね!あはは!」
豪快に笑う女将に噤むしかなかった。

* * *

玄関の前、名前は深々と頭を下げると
「本当にお世話になりました」
丁寧にそう言った。
「気を付けてね。名前ちゃんとひよっこくん」
ひよっこ?と首を傾げる隣で眉を寄せる。
「名前みたいに呼ばないでくれ」
「あはは、じゃあね!しっかりするんだよ!えーと…あぁそうそう、義勇くん!」
背中をバンッと叩かれ、意外に力強いそれに若干前のめりによろけたのを出した片足で支えた。
名前を呼ばれた事に反応しようと考えたが、これ以上此処に居ると良からぬ事を言われそうで、そのまま背を向け歩き出す。
「…女将さん、お元気で!」
もう一度頭を下げるとその背中を追い掛ける名前に
「あんた達もね!」
声を張り上げると大きく手を振った。


まだ夜が更けたばかりの道中を歩きながら、名前は数歩先を歩く義勇に声を掛ける。
「女将さんと仲良くなったんだね」
「…あれの何処が仲が良いと言えるんだ…」
随分と小馬鹿にされていたのは、確実に気のせいではない。
「…だって女将さん、楽しそうに笑ってたから」
その言葉に歩く速度を緩めた事で横に並んだ。
答えずとも次の言葉を待つ横顔に名前は静かに続ける。
「…昔ね、今回みたいに鬼が出る騒ぎがあったんだって。その時も鬼殺隊が来たらしいんだけど…あんまり良い思い出がなかったみたいなの」
思い出したくなさそうな態度に詳しく何があったかまでは聞けなかったが。
「だから私が鬼殺隊だって知った時はすごい怒っちゃって…でも、正体を絶対に隠すって約束で何とか入れてもらえたんだ」
「…そうだったのか」

二人は仔細を知らぬまま去ったが、鬼がその旅籠を根城にしていると鬼殺隊が突然乗り込んできたのは二十年前。
十年掛けて徐々に基盤を作り、順調に進み始めた旅籠の経営に自信を持ち始めていた矢先の事だ。
鬼と、その鬼を斬るためなら犠牲も損失も厭わない隊員達に壊された建物と奪われた客の命に、自信も何もかも打ち砕かれた女将は酷く激昂したが、それをしたところで何かが変わる訳でもない。
客が来なくなってしまった旅籠と産んだばかりの赤子を抱え何度も人生を終えようとした日々を、二十年間、鬼殺隊への恨みへと変え生きてきた。
それも名前、そして義勇に出会った事で止まったままだった女将の時間が進み始めたのを、二人が知る由もない。

「女将さんと義勇が仲良くなってくれて良かった」
穏やかに微笑うその表情に、目を逸らして小さく息を吐く。

きっと、数日前に出会ったばかりの女将と自分への『好き』はこれまた同等なのだろう。
瞬間的に、そう思ってしまったからだ。


暫く黙ったまま歩いた所で、名前が思い出したように口を開く。
「…あ、そうだ。義勇、すごく演技うまくなったね」
唐突な質問に、目を細めた。
「何の話だ?」
「ほら、さっき!鬼を誘い出そうとした時!」
鮮明に思い出してしまうあの場面に刻まれそうになった眉間の皺は何とか誤魔化して平静を装う。
「真剣だったからちょっとビックリしちゃった…」
昔は鱗滝さんに嘘吐くのもやっとだったのに、と言いながら、ふふっと口元を隠して微笑う姿に足を止めた。
「………、い、たら」
「ん?」
振り返る無邪気な瞳を真っ直ぐ見つめる。
「演技でなく本気だったと言ったら、名前はどうする?」
「………」
見開いたまま固まるその表情が言葉の意味を完全に噛み砕いてしまう前に
「冗談だ」
短く否定をして歩き出した。
しかしまた後ろからついてくる名前の
「…もう義勇!からかわないでよ!私初めて誰かに好きって言ってもらえたんだから!」
その言葉に思わず振り返る。
「…だから、演技でも嬉しかったって…言おうと思ったのに…」
拗ねたような顔でぽつりと呟く姿が、そういう意味で言っている訳ではないのはわかっている。
わかってはいるが、今度は義勇が固まる番だった。
「……言われた事、ないのか…?」
「…うん」
「…誰にも?今まで一度もか?」
「ないよ?どうして?」
不思議そうに見つめる瞳に、にやけそうになってしまう顔を背ける。
「あ、笑ってる!」
その笑みを完全に勘違いした名前が歩き出したのを追い掛けた。
「今のは違う。馬鹿にした訳じゃない」
「良いもん、もう…」
そう言いながらも明らかに怒りを含んでいる背中にまた口角を上げたが
「演技と言えば」
これ以上名前が機嫌を損ねてしまう前に変える事にする。
「お前の演技の方が秀逸だっただろう」
「…え?私…?」
「鬼を逃がさぬようにした時だ」
足を止めたと同時、あ、と声を上げたのを今度は背中で聞く。
「…もしかしたら、私が聞いてないだけで本当に他の隊員が居るのかもって思ったの。もし外からの攻撃が始まったら、女将さんの言ってた事、守れなくなっちゃうから…」
その言葉に、あぁ、だからあんなに悲しそうに俯いていたのかと納得した瞬間、また口元が上がってしまいそうになるのを堪えた。
名前に見られたら、今度こそ本気で怒らせてしまいそうだったからだ。
本当に昔から、嘘が吐けない性格なのは変わらない。

自然とまた横に並ぶように歩く義勇に
「義勇、疲れてるでしょう?私の事は気にしないで先に帰っていいよ?」
心配そうな口調で見つめる瞳には合わせる事なく歩き続ける。
義勇の最速の力走に名前がついていく事は難しいのを知っているため、その台詞が出たのだろう。
「例え急いで戻ったとしてもまた指令に呼ばれるだけだ。ゆっくり休める訳でもない」
「…あ、そっか。そうだね」
尤もらしく吐いた理由も何の疑いもなく受け入れる名前にそこからは何も話す事なく帰路についた。

* * *

蝶屋敷の前で立ち止まると名前は微笑んだ。
「クロを迎えに行ってくるね。お疲れさま」
その言葉には流石に手向う言葉も思い浮かばず
「あぁ」
小さく頷いて屋敷へ入っていく背中をただ見つめる。
此処で待っているのは完全に不自然だろうと踵を返し自分の屋敷に戻ろうと歩を進めた時、目の前から歩いてくる人物に足を止めた。

「あら、冨岡さん。お早いお帰りですね」

その姿を見止めた途端、穏やかな笑みを宿すしのぶ。
後ろにいる栗花落カナヲに視線を向けると
「先に戻っていて良いですよ」
小さく頷いてから屋敷へ戻っていく背中を見届けた。
「…指令帰りか」
「えぇ。冨岡さんが此処に居るという事は名前さんもお帰りですか?」
「今、黒猫を迎えに行ってる」
それだけ言うと歩を進めようとする義勇にわかりやすく眉を下げる。
「待っていなくて良いんですか?」
「理由がない」
「理由がなければ作れば良いのに」
小さく笑うと続けた。
「任務帰りの私に遭遇し、旅籠七不思議の件を報告していた事にすれば、それなりの正当な理由になると思いますけど」
「…旅籠に関しては」
「いえ、本当の報告は良いですよ大丈夫です。鎹鴉から伝え聞いてますから」
またも押し黙る義勇にしのぶは小さく笑うと話を変える。
「少しは進展とかありました?」
途端に深くなる眉間の皺になかったであろう事をすぐに悟る。
しかしそれもすぐいつもの表情に戻った。
「…自分が、進むべき道は見えた」
真っ直ぐな群青の瞳に沸いた疑問も
「…あれ?義勇、帰ってなかったの?」
あっけらかんとした声に思考を止める。
それと同時に
「し、しのぶさん!?お疲れさまです!」
慌てて抱いていた黒猫を自分の羽織で隠す姿に苦笑いを溢した。
「お疲れ様です。任務帰りに偶然お会いしたので冨岡さんから報告を聞いていました」
「…そうなんですね。あの、クロの事、本当にありがとうございました…!」
しのぶに怯えてか、そそくさと帰ろうとする背中に
「その状態で鬼と出会ってしまったら危険ですね」
そう声を掛けた。
「このまま帰らせるのも心配なので、冨岡さん、名前さんを送ってあげてください」
「え!?大丈夫ですよ!?一人で帰れます!」
更に狼狽える名前に
「…行くぞ」
義勇は短く言うと先程進もうとしていた反対の方向へ歩を進める。
「…義勇、待って!良いって言ってるのに!あ、しのぶさん!失礼します!」
抵抗の言葉を出しつつ、その後ろをついていく
背中をしのぶは優しく目を細めると見守った。


「義勇!」
後ろから何度も自分の名前を呼んでいた名前が漸く大人しくついてきた頃、歩く速度を緩めれば、腕に抱かれている大きな瞳が義勇を捉える。

「…少し、太ったんじゃないか?」
「…え!?そうかな!?旅籠にいた間運動してたんだけど…」
途端に自分の顔を触る姿に目を細めた。
「猫の事だ」
「…あ」
視線をクロへ向けると瞬きを繰り返す。
「確かに…そう、かも。しのぶさんのお屋敷でたくさん可愛がってもらったの〜?お腹ぽんぽこになってるよ?」
そう言って脇に手を入れるとその身体を持ち上げた。
「にゃー」
甘えるように鳴くその声にニコニコしている横顔は、義勇へ向けるそれと変わらない。

「いつか想いが花開く時が来るって信じて…」

脳内で響く声に、視線を前へ向けてから、その時はいつなのだろうと考えた。
途方もなく、長く険しいもののような気がする。
それでもやはり、その心地良い笑顔が向けられる距離に立つ道を選ぼうと決めた。




Bloom
終ぞ来る事がなくとも

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