「…うっ…ひっく…」 暗闇の中、小さくすすり泣く声が響く。 すぐさま慣れた手付きで行燈を点けると鱗滝は布団の上で座り込む名前の頭を撫でた。 「…眠れないのか」 「夢を…っ見てしまっ…て!…ごめん…なさいっ!起こし、ちゃった…」 暖かい掌に安心したのか更にポロポロと涙を流す姿に、錆兎、義勇も布団の中で静かに目を開ける。 二人が今、何も行動を起こさないのは、毎日のように悪夢に魘される名前の辛さを身を以て知っていたからだ。 それが自分達と全く同じ苦しみではないのも、薄っぺらい言葉で消えるようなものじゃないのを理解している。痛い程にわかっている。 下手に目が覚めたと声を掛ける事で、その小さな姿に更なる負担を掛けたくない、という思いから眠っているふりを続けていた。 「外の空気を吸えば少し落ち着くだろう」 錆兎と義勇の気配に気付き、そう提案すれば名前は小さく首を振ると 「こ、子、守唄を歌ってくれませんか…?」 未だに涙に濡れる瞳で見つめた。 「…何の歌が良い?」 ここ最近で急激に子守唄に詳しくなった鱗滝がそう訊ねれば、 「…えっと、あの…あの歌が良いです…えっと…」 すぐに出てこないのか視線を泳がした所で響いたのは 「「ネンネン、ネンネン、ネンネン、ネー」」 錆兎と義勇の綺麗に揃った歌声。 目を見開いたまま固まる姿に、起き上がる錆兎に倣い義勇も身体を起こした。 「だろ?」 「名前の好きな曲」 二人の言葉に、泣く事も忘れて瞬きを繰り返す。 「…どうして、わかったの?」 「どうしてってお前、暇さえあれば自分でも歌ってんじゃん。毎日聞かされてれば嫌でも覚えるっつの」 「耳に残りやすい曲調だしな」 小さく息を吐く錆兎と、優しく微笑みかける義勇の姿に、名前は安心したようにぎこちなくも嬉しそうに微笑った。 雲路の果て 「刀をしまえ」 高圧的に指示をする女に、名前はゆっくり日輪刀を鞘に納める。 「お前はそっちの壁まで下がれ」 廊下へ続く戸を背に構えていた義勇へ顎で東側の壁を指差したのは、逃亡の可能性を潰すためなのが窺える。 指示通りに壁際までゆっくり移動すると足を止めた。 ジリジリと露台へ繋がる窓へ後退する女に思考を巡らせる。 このまま外に放ってしまう事が考えうる最悪の事態だ。 被害を最小限に抑える所の話ではない。 柱である義勇と言えど、名前とたった二人で、混乱の中散り散りになるであろう何十人という人間を護り切るのは物理的に不可能だからだ。 こちらが不利な状況であろうと、何としても此処に留めさせておかなければならない。それが例えどちらかの命を犠牲にする結果になっても。 「命乞いしたら?私は死にたくありません。殺すならあの男にしてくださいって。そしたら考えてあげなくもないよ?まぁ、逆でも良いけど」 「…命乞いをしたら助けるんですか?」 「さぁ?でも今までの奴らは泣いて助けを乞いた。たった数秒前には好きだの何だの言い合ってたお互いが罵ってる姿なんて本当、最高に滑稽じゃない?」 「どうして貴方は…此処にこだわるんですか?」 名前もわかっているのだろう。 何とか会話を続けようとしているが 「うるさい!質問ばかりしてくるな!殺すぞ!」 突然激昂する女に大人しく口を噤んだ。 「…あまり窓際には近付かない方が良い」 義勇の静かな言葉にピクッとその眉が動く。 「隊員が俺達二人だけだと思っているならそれは大きな勘違いだ。既にこの旅籠は複数の鬼殺隊に包囲されている」 「は!わかりやすい嘘!お前達が私の気配を感じるようにこっちだって感じ取れるんだよ!そんなに大勢が取り囲んでるならすぐにわかる!」 「…鬼殺隊は…」 女の視線が義勇から名前へと移る。 「鬼殺隊は手練れなら大勢である必要はないし、気配を消す事も簡単に出来るから…、窓に背を向けるのは、危ないと思います」 すぐそこに自死が迫っているというのに妙に淡々とした口調に言い知れぬ恐怖を覚えた女は 「…ふん。お前だって死にたくないもんね…!」 悔し紛れにそう言いながらも、またジリジリ動き押入れの襖を背にした。 (…良くやった…) 心の中だけで呟いたのは、反撃する布陣が出来つつある、そう感じたからだ。 それは自分だけじゃない。名前もだろう。 義勇が考え、望んでいる事をその少ない言葉で確実に読んでいる。 自然と恐怖心を煽る絶妙な話法は見事だった。 残る問題は… 義勇の元へ飛んできた攻撃に刀で全て受け流し切る。 「へぇ、抵抗すんの。お前この女がどうなっても良いんだ?」 首筋にグッと押し込まれそうになる髪の切っ先。 「やめろ!」 声を上げたと同時、それが寸での所で止まった。 「なら大人しく斬られろ」 また無数に繰り出される髪の束に目を閉じるとその全てを身体で受け止める。 「…義勇!!」 反射的に名前が叫んだが、義勇はゆっくりと目を開けた。 それは、全く大した事はない。 隊服が裂ける程の威力もなく、傷がついたのは羽織と左頬、あとは前髪が若干短くなったくらいだ。 この女は、虐げて楽しんでいる。 義勇と名前が憎しみ合うよう、わざと死なない程度に嬲ろうとしているのだ。 それがわかっているからこそ、出来るだけ自然の流れに身を任せ、苦しんでいるように畳へ膝を付く。 此処からの距離では全速で向かったとしても名前の首にそれが突き刺さる方が速いのは明白だった。 致命傷でなくて良い。ただの目くらましでも良い。一撃でも女に食らわせられたならそれだけで戦局は大きく変わる。 今の義勇が持てる選択肢はひとつだけだった。 左側にある座椅子を目端で捉える。 問題は名前だ。 盾にされているのが、ではない。 仮にも狭霧山で育った仲だ。 何を教えられてきたかはこの両目でしっかりと見てきた。 背後を取られていても名前なら軽々と抜け出す術を知っている。鱗滝が生きる上に必要な事として教えていたからだ。 実験台になったのはもう何年も前なのに、右の鳩尾が痛むのを鮮明に思い出した。 ただ唯一の憂慮は、その好機。 名前が抜け出すと同時、もしくはそれより速くこの座椅子を仕掛けなくてはならない。 僅かでも行き違えば名前は首を突かれ、いとも簡単に死ぬ。 それだけは確実だ。 しかしこの状況で何も合図がないまま、全く同じように息を合わせるなど無理に等しい。 女に気付かれぬよう何か確実に此処だという明瞭な合図が必要だった。 「子守唄、歌ってあげようか?」 昼間、記憶に焼き付いたばかりの無邪気な笑顔を思い出す。 「…名前」 「勝手に喋んなよ!」 更にその首へ近付く切っ先にこれ以上は危険だと、口を噤んだ。 合図は恐らくこれでどうにかなる。 しかしそれをどう、伝えるか。 今度はそれに思考を巡らせた。 鋭い目つきが義勇を突き刺すように視線を送っている。 完全に警戒されている中で隊員同士の指文字は危険過ぎる。 意味自体は悟られずとも、明らかに不自然な指の動きで女が逆上する可能性の方が高いためだ。 もっと自然な…今の自分が出来る最低限の動きだけで確実に伝えられる何か… そんな僥倖に近い何かがあれば、今この場で必死に考えを巡らせてもいないし、とっくのとうに鬼の頸を斬れている。 義勇の胸の中で、半ば絶望に近いものが占めていった。 こうなったら一か八かという運否天賦に賭けてみようか。 そんな風にすら思えてくる。 自嘲に似た笑みが零れそうになって、僅かに上げた口角をすぐに戻した。 しかし名前はそれに気付いたように何度も瞬きをしている。 それはそうだろう。 この危機的状況で何を笑っているのか、驚くのは―… そこで急に思考が、止まった。 今の今まで必死に考えても、掴む事のなかった僥倖を、目の前に見付けたからだ。 真っ直ぐその瞳へ視線を送った。 女には気付かれぬように出来るだけ簡潔に瞬きを短く二回、僅かに長く一回、一度間を置いてからもう一度長く一回、そして最後に短く一回する。 それは狭霧山で共に育った錆兎、義勇、そして名前だけが知っている文字信号。 当時麓に近い町で流行り始めていた電鍵を自分達なりに、瞬きで伝えるという形に変えた。 遊びの延長でしかなかったそれはすぐに流行り廃り、今の今まで頭の片隅に追いやられていたのに、こんな所で再度使うようになるとは義勇自身、思ってもみなかった。 う、た そのたった二文字で全てを理解するか、ましてこの信号自体を覚えているかは、もう名前本人に賭けるしかなかった。 狼狽えるように泳がす瞳にやはり難しいかと諦めに近いものを覚えた時、僅かに口唇が動く。 答えを見つけたかのように光を宿した瞳が真っ直ぐ義勇を見つめ、はっきりと五回短く瞬きを繰り返した。 (…伝わった…!) 息を吸うのを確認し、それに合わせるため自分も呼吸を整える。 「さぁ!どっちが先に死ぬ!?」 一切他のものを遮断するように目を閉じて、それだけに集中した。 (ネンネン、ネンネン、ネンネン、ネー) 「聞いてんのかよ!お前ら!」 女の攻撃が飛ぶ直前、義勇の左手から放たれた座椅子と同時、名前が鳩尾に思い切り肘打ちを食らわせる。 「……ぐ、うッ!!」 女が息を止めたのも束の間、その首を刺そうとする髪の切っ先は、義勇が投げた座椅子が顔面を捉えた事で数秒の遅れが出た。 その隙に名前は振り向き様に日輪刀を抜くと『肆ノ型 絹雲(けんうん)』を放つ。 薄い絹を伸ばしたように繊維状の白雲が流れていくその技は頸を斬るのには弱い。 それでも攻撃に適していないこの型を選んだのは、この状況で最速で出せる型かつ、確実に動きを止められるものだったからだ。 頸へ入れた刃は浅く、瞬く間に再生していく。 だがそれで構わなかった。 たった一息でも動きを止める事が出来れば 『壱ノ型 水面斬り』 頸を斬ってくれる存在がいるからだ。 綺麗に落ちた頭が畳へゴロゴロと転がっていく。 「…私は、鬼じゃない…」 弱々しく呟くと両目から溢れる涙に、名前は座り込むと一瞬迷った右手でその髪を撫でた。 久々に感じた人の温かさに女はゆっくりと目を瞑る。 鬼になんて、なりたくなかったんだ 一世一代の恋をした。 そんなの大袈裟だときっと他人は笑うだろう。 しかし女にとってはそうだった。 最初から分不相応なのは、わかっていた。 それでも身分を感じさせない優しい笑顔に惹かれた女に「好きだ」と言う真剣な眼差しを受け入れる以外の道がある筈がなかった。 例えそれが、その場だけの嘘や慰めであったとしても。 何度も何度も、旅籠の二階で逢瀬を重ねた。 その男に親が決めた婚約者が居ると知ってからも。 「もう、会えない」 短く告げられたのは別れの言葉。 「そうだね。わかった」 笑顔で答えたのは、愛した男の人生を邪魔したくなかったからだ。 幸せだと思う道を選んだならそれで良いと思った。 正確には、思うようにした。 みっともなく泣いて縋りつくより、男の記憶の中だけでも最後は良い女として存在していたかった。 それでもすれ違った身分も立場も遥かに自分より上な女は 「冴えない相手なのよ。結婚しても全然つまんなさそう」 見知らぬ男と腕を組みながら、鼻で笑っていた。 「…どうして…、私じゃなかったの…?」 毛先から朽ちていく長い髪。 伸ばし続けたそれも、あの口唇が褒めたからだ。 何もかも失くした女が選んだのは、初めて結ばれたこの場所での自害。 なけなしの金を叩いて、初めて一人で泊まったその部屋は余りにも広く侘しいもので、隠し持っていた刃物で思い切り自分の首を切った。 ヒュ──…、ヒュ──… 音を立てて傷口から漏れていく吐息を聞きながら、漸く楽になれると目を閉じた時だった。 「血の匂いがしたと思って来てみれば、ただの自殺志願者だったか」 酷く、冷たい声が響いた。 「……愛してた…の…」 小さく呟きながら消えたその姿に、名前は行き場を失くした右手をぎゅっと握る。 背後に感じる義勇の気配に気付いたが、視線を落としたまま動けなかった。 「こんな風に人を好きになれるって…凄いね…」 「…同情はしない方が良い。お前が辛くなるだけだ」 気に掛けてくれているのだろう。 若干優しい口調に、小さく首を横に振る。 「同情じゃないよ」 そう、そんなものじゃない。 「…私には、その気持ちをわかってあげられないから…同情なんかじゃないの」 小さく呟いて、血に染まった畳を見つめた。 「直接伝えてみれば良いのでは?」 唐突に、しのぶの言葉を思い出したのは、ほら、だから出来る筈がないんだと、無意識に答えていたからだ。 名前が自分に特別な感情を持っていないのは、今に始まった事じゃない。 ずっと気付いていた。嫌でもわかっていた。 例えば義勇の事を好きかと訊ねれば、好きと返してくるだろう。 でもそれは恋愛としてのものではない。 彼女の『好き』は常に皆に平等で一切の歪みも揺らぎもないと気付いたのは、錆兎の死を詫びた時だ。 『大好き』という言葉に、それ以上も以下もない。 物理的な距離が縮まる度に感じ取ってしまった。 とどのつまり、恋愛対象としてすら見られていない事に。 それでも良いと、思っていた筈なのに。 傍に居られれば、それだけで良いと決めた筈だったのに。 その寂しそうな背中にも、ただ純粋に寄り添う事が出来なくなっている今の自分の感情に、黙って目を伏せるしかなかった。 Distort 傷付く勇気もないから [mokuji] [しおりを挟む] [back] ×
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