雲路の果て | ナノ 23



初めて結ばれたのは、とても綺麗な満月の夜だった。

名前を呼ぶ低く落ち着いた声も
肌を滑るその優しい手も
抱き寄せる力強い腕も

全てが愛おしかった

この存在の為なら
命さえ惜しくない

本気でそう思えたの

ねぇ、貴方もそうだったと
一時でも想い合えたと
そう、信じていたのに



雲路の


「それは約束出来ない」
「だから絶対にとは言ってないよ。出来ればって言ってるだろ?」
昼食を運んできた女将と、本日鬼を討つと事前通達した義勇、二人の掛け合いを名前は狼狽えながら見ていた。
「優先すべきは鬼を討つ事だ。その他の事に関しては易々と首を縦には振れない」
「だからそれは何度も聞いてわかってるって。アンタほんと融通が利かない子だね。私の息子だったらはっ倒してるよ」
「やれるものならやってみれば良い」
「だから息子だったらって言ってんだろう?人の話はちゃんと聞きな。ほんとはっ倒してやろうか」
「余程返り討ちに遭いたいようだな」
「あ、あの!!」
段々と不穏になっていく言葉の応酬に慌てて口を出すと、二人の視線が注がれる。
「旅籠とお客さんに被害が出ないよう最低限の努力はします!でも…、他の人達に気付かれないように鬼を討つのは、正直難しいです…」
簡潔に言えば、争いの原因はこれ。
被害を最小限に抑えたい、そして出来るのであれば、他の宿泊客には内緒にしたいと女将が提案した事で始まった。
義勇の言い分は尤もなのだが、いかんせん愛想というものがないため、完全に感情の起伏が激しい女将の不興を買ってしまっている。
「…もしも、万が一の時に備えて、女将さんもお客さんも、避難する準備だけはしておいていただけませんか…?」
私達もその前に鬼を討てるよう頑張ります、と付け加えれば、女将は視線を落とした後、小さく溜め息を吐く。
「…わかったよ。名前ちゃんが言うなら…」
そう言って女将が部屋を後にした直後、空を眺め始めた義勇へ視線を向けた。
「…何か変だよ、義勇」
じっと見つめるがその横顔がこちらへ向く事はない。
言葉足らずの所も言葉が過ぎる所も、あるにはあると理解している。理解はしているが
「…どうしてそんなに苛立ってるの?」
明らかにいつもの穏やかな義勇ではない。
何かを酷く考え込んでいる表情は、まるで、錆兎が居なくなってしまったあの頃のようで。
「別にいつもと変わらない」
一言で終わらせる素っ気ない態度に、また離れていってしまうのではないかと不安に駆られた瞬間、むにっとその右頬をつまんでいた。
「……。何の真似だ」
呆れた顔でこちらへ顔を向ける義勇に安心する。
「だって義勇、何か変なんだもん。全然私の方見ないし。今は見てくれたけど」
「…何も変じゃない。被害を最小限に抑える方法を考えていただけだ」
「…え?そうなの?邪魔しちゃった…」
「わかったならこの手を退けてくれ」
「あ、ごめん…!痛かったよね…?」
「痛くはない」
ふぅっと小さく息を吐いた後、
「……悪い。少し、余裕がなかったのは確かだ」
ボソッと呟いた素直な言葉に安堵の笑顔が零れた。

* * *

太陽が、沈んだ。
こんなにも陽が沈まないように願った事はない。
例えば今日、何らかの奇跡が起きて陽が沈まなくとも、この気の重さが明日へ持ち越されるだけなのはわかってはいるが、出来る事ならば避けたいという、その気持ちは変わらない。

鬼と対するため、いつもの隊服へ着替えてから腰を下ろした。
「この部屋で俺達にとって唯一の安全圏は此処だけだ」
そう言って右人差し指でまだい草の匂いを放つ真新しい畳を指した。
深く頷いた名前を確認してから続ける。
「漆のせいで壁と天井のどこに血痕が残っているかの判断は難しい。近付き過ぎないように距離を取ろう」
「…義勇。押入れの襖は?」
その質問に目線をそちらに向けた。
明らかに使い込まれてはいるそれは確かに見た所、血が飛んだ痕跡はない。
「状況によっては使う手段もあるかも知れない」
小さく呟いたのは、もし背後を取られそうになった時の選択肢のひとつとして留意しておいた方が良いと判断したからだ。
また大きく頷いた後、名前はその核心に触れた。

「…それで、どうやって誘き出すの?」

もう此処まで来たら、引き下がる事は出来ない。
義勇は覚悟を決めると腰に差していた日輪刀を傍らに置いた。
「俺が良いと言うまで目を閉じていてくれ」
せめてその瞳に見つめられぬよう苦し紛れに出した提案も
「……。うん」
あっさりと飲んで目を閉じる。
(…すまない)
心の中で小さく謝ったのは、完全に罪悪感から来るものだった。
同じように腰へ差している名前の日輪刀をそっと抜くと畳の上へと置く。
「……?」
若干不安そうに竦めた肩を引き、抱き締めた。
ふわりと漂う名前の匂いに意識的に眉間へ皺を寄せる。
鬼の気配はまだしてこない。
昨日はこれだけでも近付いてきていたのに。
完全に警戒をされているのか。もしそうだとしたらこの策は早々に諦めるべきだ。
それこそ旅籠そのものを封鎖し、鬼殺隊員を送り込むしか選択肢がなくなる。
「…義勇…?」
頭では冷静な判断を過ぎらせてはいるものの、勝手に動き始めた身体は止まらない。
気が付いた時には、抵抗しないその姿を押し倒していた。
何が起きたのかわからないまま、それでも言われた通り、固く瞑る両目は義勇を完全に信頼しきっている証。
「………」
喉までせり上がっていたその感情は、頭上からぬらぬらと近付く禍々しい存在によって飲み込まれた。
「…義勇…」
「わかってる」
漸く餌に喰い付いてくれた。
名前の右耳にそっと口唇を近付けると囁く。
「完全に姿を見せるまで待ちたい。もう少し辛抱してくれ」
そのまま耳輪に接吻を落とすとその身体が小さく震える。
「…ん、っ…!」
途端に小さく洩れる声。
この状況でそんな声を出さないで欲しいと本気で考えた。
鬼の気配がすぐそこまで近付いてきている。
しかしそれより先には進んでこない。
例え今刀を手にしたとしてもその身に傷付ける事も叶わないだろう。
何を警戒している?
それとも、もっと事が進まないと姿を現さないのか。
これ以上は流石に無理だ、と自分自身が告げていた。

「訳ありといえばさ」

女将の言葉を唐突に思い出す。

「その消えた子も訳ありだったんだよ。一人で来る前までは身なりの良い男と一緒に泊まりに来ててさ。でもあれも普通の恋人っていうよりかはあの子の方がかなり入れ込んでたねぇ」

そうか、と僅かに顔を上げた。
"行動"だけではないのだと、今この場で漸く気付いた。

「名前、もう目を開けて良い」
耳元で名前を呼んでから続ける。
「俺が今から言う言葉は鬼を呼ぶ合図だ。お前はすぐに自分も、と一言で良い。そう答えてくれ」
何が悲しくてそんな指示をしているのだろうと一瞬考えた。まるで茶番劇でも演じているようだと。
いや、"よう"、ではないか。
まさに今から"演じる"のだ。茶番でしかない寸劇を。
それでも小さく頷いたのを確認してから上半身を起こすと髪を撫でた。

「…好きだ」

目を見開いたまま固まる姿が言葉の意味を理解する前に、どうか早く次の言葉を出して欲しいと願う。

「…わ、たしも…?」

動揺からくるものなのか明らかにおかしい語調も、その瞬間、ぬらぬらと下りてくる左斜め後ろの存在に鋭い視線を向けた。

地面に付いて尚余りある長い髪。
その首元には大きく裂いたような傷が残っていた。

「そんな感情も今だけよ」

その言葉を聞く前に起き上がり、日輪刀を構えていた二人に鋭い目を細めた。
「鬼狩りよね?何の用?」
「決まってる。お前の頸を斬るためだ」
「私は鬼じゃない!」
叫んだ声に名前が一瞬息を止める。
「鬼じゃなければ何だと言う?」
「私は霊よ!此処で死んで此処に宿る地縛霊!この部屋に入る人間は全部呪い殺してやるんだ!」
感情的に怒鳴る女に、次に答えたのは名前だった。
「…全部、ではないですよね?」
「うるさいな!いちいち!」
突風が吹いたかと思えば間髪入れず飛んできた攻撃に日輪刀で衝撃を受け流す。
咄嗟の事で何が飛んできたのか判断出来なかった。
起き上がる際、女とは十分な距離を取った筈。
手足が届く範囲内は確実に避けていたのに、女はその場から一歩も動く事なく名前へ一撃を食らわせようとした。

「…それが武器なのか」

眉を寄せた義勇の視線の先、長い髪がまるで意思を持つようにうねうねと波打っている。
通りでいとも簡単にこちらまで攻撃が届いた訳だ。
この狭い部屋の中では明らかに、こちらの分が悪い。
そう感じたのは名前も同じ。
間髪入れず距離を詰めると頸めがけて型を繰り出すが、刃のように尖った髪の束に弾かれた。
「何なんだお前達!!私は鬼じゃないって言ってんだろ!?」
無数の攻撃を拾壱ノ型凪で受ける。
ガッ!
刀と髪、金属のぶつかる音に、女が一歩引いたのを見計らい名前が畳みかけようと力を入れた。
押されまいと女も顔を歪めるとその刀を押し返そうとする。
名前と相対しつつ、義勇への攻撃と警戒を怠っていない。
こちらは攻撃を避けるのではなく全ての衝撃を殺し、受け流さなくてはならないせいで、その頸を捉えるのが容易ではなかった。
「此処にいた人達はどこにいったんですか?」
「だから呪い殺したって言って…」
「殺してから貴方はどうしたの?」
「…どう、したってそんなの…」
「…食べて、しまったの?」

「キャアァァッ!何よあんた!!」
「まさか…お前…鬼になってまで復讐しに来たのか!?」
「復讐?復讐なんてする訳ないわ。会いにきただけ。ねぇ…」
「い、いい加減にしてくれ!!お前の姿なんかもう見たくない!!俺はこの人と一緒になるんだ!」


「あの人が悪いんだ!!」

叫びながら後ろへ飛んだ女に振った切っ先がその腕を僅かに捉え、女の血が畳へと散った。
更に追おうと低く構えたが
「…名前!」
義勇の声と同時、血痕の中へ隠れる姿に足を止める。
ぬらぬらとした気配が天井から壁へ伝っていく。
余りの速度に目で追うのを早々に諦め、気配のみを追った。
何処から来るか全く読めない。
刀を構えながら頭上に気配がしたと同時に顔を上げた瞬間の事。

「動かないでね。一歩でも動いたら刺すから」

その言葉と共に、名前の背後を取られていた。
首に突きつきられた鋭い髪の束に場の空気が一瞬にして凍り付く。

女の背中を認識するまで、義勇でさえ反応出来なかった。
気配は確かに頭上にあった。しかしそれが一瞬にして足元へ移り瞬く間に姿を現したのは辛うじて目端で捉えたが、何故、そんな真似が出来たのか。
「……」
名前の足元に視線を落として気付く。
今しがた飛んだばかりの僅かな血液に。
それは凝視しなければ気が付かぬであろう一毛にも満たない量。
簡単に背後をとられたのも無理はなかった。
こうなると分が悪い所の騒ぎじゃない。

「…さぁ、どうしてやろうか?」

女の顔が嬉々とした笑みで歪んだ。


Inferior
圧倒的な劣勢

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