雲路の果て | ナノ 22



此処に来たのは失敗だった。
義勇は今現在、早々に前言を撤回したい衝動に駆られていた。

何かがあった訳ではない。
ただ先程、名前の寝顔を見ながら当面の指令をどうこなしていくべきかを考えていた際に気付いてしまった。

この部屋に、名前と二人きりという事実に。

今更、と言えば今更なのかも知れない。
頭では理解しているつもりだった。
あくまでこれは任務の範疇だと抑制する事が出来ると思っていたし、これまでも名前と二人きりになっても、あくまで平静を保っていられたからだ。

しかし違う。
今この場では…

「…義勇もお風呂入ってきたら?気持ち良かったよ」

部屋に戻ってくるなり、濡れた髪を拭きながらそう声を掛ける姿にわかりやすく目を背ける。

想定していなかった誘惑が余りにも多過ぎて、無事に乗り切れるのかすら、早くも不安になっていた。


雲路の


襖がスッと引かれたのに気付いてそちらへ顔を向ける。
「おかえりなさい」
「…あぁ」
小さく答えて窓際へ座る義勇の未だ見慣れぬ着物姿を眺めながら気付いたのは、毛先から滴る滴だった。
「あ、義勇!」
急に上げた声に驚いて若干狼狽えた視線と目が合う。
「髪の毛ちゃんと拭いてないでしょう?風邪引いちゃうよ」
言うや否や義勇の首に掛かっていた手拭いを浚うと両手でわしゃわしゃと拭き始める。
「………」
一瞬抵抗しようと上げた右手を黙って下ろしたのは、意外とそれが悪くないものだったからだ。
「…今見てきたが、下は大部屋なんだな」
「うん。雑魚寝の人はそこに泊まるんだって。お客さんにも格付け…?があって二階に泊まれるのは裕福な人だけだって女将さんが言ってた」
「それが襲われる条件って訳でもなさそうだが…」
「そうだね…お金だけが目的ならこの部屋だけを狙うのは不自然だし」
はい、出来たよ、と笑顔で手拭いを返す名前からそれを受け取るとまた自分の首へ掛ける。
あと数分で完全に陽が沈む事を空の色で確認した。
そうしたら鬼は姿を現すだろうか。出来る事なら今日決着をつけてしまいたいと考えた。
何日も此処に拘束されるのは御免被りたいし、何よりそんなに長く二人きりで居なくてはならないのは精神衛生上よろしくない。

「…陽が沈んだね」

名前の声がしたすぐ後の事。
天井の上、何かが蠢くようにぬらぬらとした気配を察知した。
「来たか」
しかしそれを感じたのも一瞬の事。
日輪刀を鞘から出す前にそれはすぐ消えた。
「…今日も無理かぁ。何でだろう?」
慣れた様子で天井を見上げる名前へ視線を向ける。
「ずっとこうなのか?」
「うん…。遠くから見張ってるみたいなの」
それの気配は確かに感じ取れるのに、慎重な性格なのか絶対にこちらの攻撃圏内へは近付いてはこない。
最初の日こそ追い掛けようと天井裏まで潜ったが一瞬で消える素早さに尻尾を掴む事が出来なかった。
やはり何か条件が整わないと姿を現さないのだろう。
義勇が来た事で何かしらその条件に引っかかるのではないかと期待もしたが、ただ単に人数が関係している訳でもなかったらしい。

トントン、と襖を叩く音がして、その向こう側から
「失礼します」
女将の声が聞こえた。
「夕食をお持ちしましたよ」
そう言って膳を部屋へ運ぶ姿に名前は
「あ、ありがとうございます!自分でやりますから大丈夫ですよ!」
もう一つの膳を持ち上げる。
「鬼殺隊っても名前ちゃんはここのお客なんだから良いの良いの」
「女将さん…!」
慌てて人差し指を自分の口に当てれば驚いたように女将は自分の口を抑えた。
「あらやだ!自分で言ってちゃキリないわ。あはは!」
バンバンと豪快に名前の背中を叩くとごゆっくり〜と言い残し襖を閉める。
「随分仲良くなったものだな」
「あ、うん。最初は凄い警戒されてたんだけど…色々話してくれるようになったの」
答えながら御膳の前に座る名前に倣い、義勇もその前へと腰を下ろした。
「私と同い年の娘さんがいてね、この間お孫さんが生まれたばかりなんだって」
「…そうか」
短く答えてから静かに手を合わせる。
「…いただきます」
名前が頭を軽く下げたのを視界に入れながら、箸を手に取った。

* * *

何も起こらぬまま迎えた朝焼け。
露台の欄干へ両肘を付き、義勇は東から西へ徐々に白み始めた空を眺めていた。
窓を挟んだ背後には、名前が布団の中で気持ち良さそうに眠っている。
二日目を迎えたばかりにして心が砕けそうだ。
そう、思ってしまった。
結局眠れたのは小半刻も満たないほどで、あとはこうして露台から見える空をただただ眺めている。

背後からカラッと窓が開く音がして、見上げていた視線を落とした。
「…おはよう」
若干寝惚けた声に
「…あぁ」
一言だけを返す。

完全に陽が昇ったら女将にもう少し詳しく話を聞いてみる事に決め、部屋の中へ入ろうとした所で名前が隣に立ったのに気付いた。
「…綺麗だね。朝焼け」
空を見つめる横顔が綺麗だと、そんな言葉を口に出せたらどんなに楽か。
触れてしまいたくなる衝動を制した筈の左手指の背でその頬を撫でていた。
「…どうしたの?」
当然のように疑問で満ちた無邪気な瞳に見つめられ、引っ込めようとした左手より先に突如感じた鬼の気配に動きを止めた。
朝日が顔を出した今、此処に出てくる事がないのはわかっている。
しかし明らかに近くなった気配で真剣になる名前の瞳に止まったままだった左手を肩へ回すと抱き寄せた。
「……っ!?」
突然の事に呼吸を止める姿をよそに、更に近付いてくる気配に義勇の頭の中で仮定が整っていくのを感じる。

もしかしたら、ではない。恐らくこれは…

「…義勇?」
腕の中で小さくなっている名前の声にその身体を離せば、すぐに遠ざかっていく気配で確信に似たものを得た。

「女将は起きてるか?」
義勇の問いに訳がわからないまま、右手に左手を添えるように胸の前で組むと答える。
「…多分、まだ寝てると思う」
「そうか。わかった」

とにかく朝一番に女将に話を聞く事を優先させると決めて、敷いたままだった布団を片付けようと畳み始めた義勇に名前が慌てて部屋へ戻ると口を開いた。
「何で畳んじゃうの!?」
「何故って…」
「義勇、私に気を遣って寝てないんでしょう!?」
核心を突いた言葉に心臓が脈打ったかと思えば「ずっと見張っててくれてたんだよね?私ならもう大丈夫だから今度は義勇が休んで!ね?」
真っ直ぐな瞳に眉を寄せるより先に笑ってしまいそうになった。
その無垢な世界には、そういう風に映るのかと思って。
「考え事をしていたら眠る時機を逃しただけだ。気にしなくていい」
それでも心配そうに見つめる名前に溜め息をひとつ。
「本当に無理はしていない。眠りたいと思えば勝手に眠る」
義勇の言葉に漸く納得したように黙る姿に布団を畳む両手を再度動かした。

* * *

「宿泊名簿を見せて欲しいだって?」

義勇の突然の要求に、女将は怪訝な顔をしつつも
「まぁ名前ちゃんの同僚だって言うなら良いけど」
そう付け加えて受付台の下から一冊の台帳を取り出した。
「…感謝する」
短く伝えてからそれを捲る。
名前から聞いていた日付と照らし合わせながらその名前を確かめていく。
しかし三頁を捲った所で自分の想定とは違うものに手を止めた。
「何か気になった事でも…」
覗き込む女将がすぐにあぁ、と頷く。
「このお客なら良く覚えてるよ。訳ありっぽかったから」
「…訳あり?」
「女同士で旅籠に泊まるのは珍しくも何ともないけど、この二人は私が思うに恋人同士だったよ」
眉間に皺を寄せた義勇に、女将は苦笑いをする。
「恋仲になるのは男女だけだと思ってるの?まだまだ若いね」
その言葉に次の頁を捲る。
「この男同士で泊まったのは?」
「あぁ、それも恋人、までではなかったけどそういう仲であろうのは気付いたよ」

仮定が事実へと固まっていく。

「もうひとつ訊きたいのだが」

* * *

部屋に戻ってくるなり、蝋燭台を片手に天井裏へ向かった義勇に名前は顔を上げて見守っていた。
数分もせず、すぐに下りてきた姿に何度か瞬きをする。
「…何か見つかった?」
「…僅かにだが血痕があった。恐らく鬼のものだ」
一応恐らく、とはつけたがそれが間違いのない事実だと義勇の中で確固たる自信があった。
それより何より、目の前の名前にどう説明をするかが問題だ。

「女将に話を聞いてきたが…」
静かに胡坐を掻くと、名前もつられるように腰を下ろす。

それは旅籠七不思議"消えるお客"の噂が流れ始める一週間前の事。
この部屋で不可解な事件が起きた。
ある一人の女がフラリとやってきては、右側二番目の部屋を指定したという。
女将は何故なのか不審に思いながらも、女が何度か旅籠を利用しており見覚えもあったため、特に何か訊ねる事もなく、そこへ通した。
しかし翌朝になっても部屋から出てこない事を不審に思い襖を開けた所、そこに女の姿はなく、四方八方に飛び散った血痕だけが残されていた。

「…もしかして、ここで鬼になった…って事?」
「その可能性が限りなく高い」
「でも女将さん、私が聞いた時はそんな事一言も…」
「お前が恐がるんじゃないかと思って言い出せなかったらしい」
ただでさえ女の子一人で泊まるってのに、そんな事聞いたら余計に不安になっちゃうでしょ?と眉を下げていた女将は記憶に新しい。

血飛沫まみれになった部屋は、その日のうちに封鎖し、内密に片付けが開始された。
公にしなかったのは死体が見つからなかったというのもあるが、客が命の旅籠屋で良からぬ噂が立つ事を懸念したからだ。
畳は真新しいものと交換し、天井や壁は漆で塗られ、何の変哲もない旅籠屋の一室として再開されたが、人が消えるようになったのはそれからだった。

「気配がすぐに消えるのは部屋中に飛び散った血痕に入り込める血鬼術と考えて良い」
「…うん」
部屋を見回す名前に、一呼吸置いてから続ける。
「陽が沈んだら誘き出す」
「条件がわかったの?」
「…恐らく、だが…わかった」
丸くなる瞳に視線を逸らしたのは、それがまだ確定的な事項ではなかったのと、例えそれが仮定ではなく事実だったとしても実際行動に起こすのはかなりの思い切りが必要だからだ。
「教えて?私に出来る事ある?」
「…いや、協力はしてもらうが特に名前が何かする必要はない」

そう、何もしなく良い。
何かをしかけるのは自分の方だからだ。
急激に鬼が近付いてきた状況と観察眼が鋭い女将の証言で、ほぼ確定している条件。

情事を、行おうとしなくてはならない。

思い切り出そうになってしまった溜め息を誤魔化すように短く息を吐いた。
こんな事を名前に伝えられる筈がない。
何も本当にする訳ではなく鬼をおびき寄せる為の僅かな時間、そういうフリをすれば良い。
しかし、その"フリ"というのが義勇にとって一番の問題なのだ。

「…じゃあ今の内に仮眠取っておかなきゃ」
何の疑問も持つ事なく、思い付いたように立ち上がり、布団を敷き出す名前。
「…はい。どうぞ」
真っ直ぐな瞳で見つめられ視線を逸らした。
「俺は良い」
「全然寝てないのに…」
「一日くらい寝ずとも平気だ。あの時と比べればどうって事はない」
「あ、それってこの間の?」

寝不足というのは、人をおかしくさせると知ったのは、名前の家だけではなく、布団にまで勝手に潜り込んでいた時。
今考えると良くもそんな事が出来たと思う。
そして血迷った言動をしなかった事にも心底胸を撫で下ろしている。

「あの時の義勇、すごい疲れてたもんね」
無邪気に微笑ってから「あ」と声を上げると
「子守唄、歌ってあげようか?」
よしよし、と頭を撫でてくる右手に眉を寄せただけで、払い退ける事はしない。
「…良い。余計眠れなくなる」
代わりに記憶にはない、いつかと同じ台詞が出た。



Reason
どうか持ちますように

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