カラン、コロン、と履き慣れない踵が高い草履で音を立て歩く。 右手には刀袋に包まれた日輪刀。 もう何年も正式な着方をしていなかった着物の動き辛さにつんのめりそうになったものの、派手に転げるのは寸での所で回避した。 賑わう人々を縫うように歩くも,ドンッとぶつかる見知らぬ肩によろけ 「…すみません」 小さく謝ってから足を進める。 辿り着いた先で立ち止まると、建物を見上げた。 『旅籠屋』と書かれた文字を確認してから、その引き戸を開ける。 「…ごめんくださーい」 遠慮がちに声を掛けると中から出てきたのは体格の良い女将。 一瞬、上から下まで品定めするように視線を動かしたが、それもすぐ人当たりの良い笑顔に変わった。 「お泊りですか?」 「…はい」 「ではこちらの台帳に記入をお願いしますね」 苗字名前と名前を書いた後 「若い娘さんが一人でねぇ…。旅でもしてるの?」 その質問に迷ったものの小さく頷く。 「あの、二階に泊まりたいのですが…」 「…あぁ、個室を希望?そりゃ大部屋は心配だもんねぇ色々と」 ご案内しますと上へと上がろうとする女将に 「…右側から二番目の部屋は空いてますか?」 そう伝えれば、見る見るうちに顔が曇った。 雲路の果て 陽が一番高く登った頃、冨岡義勇はトントン、と玄関の戸を軽く叩いた。 そのまま内側からの反応を待ったが、物音ひとつしない事で、家人が留守であるのを悟る。 スッと静かに引いた戸の向こう、静まり返った部屋に小さく息を吐いた。 (居ないか…) そのまま閉めようとした右手が止まる。 気配がしない。 瞬時にそう感じた。 家人のではなく、その飼い猫のだ。 常にそこにあるはずの存在は、忽然と姿を消していて、また何かあったのではないかと無意識の内に眉を顰めたまま扉を閉める。 その足で蝶屋敷へと向かった。 敷地へと入り、診察室へ続く廊下を早足で進んでいた所で 「…きゃああっ!」 突然の悲鳴に足を止める。 「そんな所で爪研がないで!!しのぶ様に怒られる!!」 僅かな襖の隙間から聞こえてきたそれに、隙間を広げてみれば、見慣れた黒猫の姿。 その傍には女中の神崎アオイが畳へ立てている爪を必死で止めていた。 「…こんにちは」 右から飛んできた声に顔を向ける。 「どういう事だ?」 「…はて?それは何に対しての疑問でしょう?」 「何故此処にあの黒猫が居る?」 「覗き見ですか?冨岡さんも趣味が悪いですね」 「覗いてはいない。たまたま隙間が空いていたから見ただけだ」 「それを覗き見っていうんですけど…」 苦笑いに近い笑みを溢しつつ、しのぶは言葉を続けた。 「名前さんが任務で暫く家を空けているためお預かりしています」 「猫は嫌いじゃなかったのか?」 「姿を見なければ大丈夫ですよ。世話は他の方々にお任せしていますし」 なので出来ればすぐにでもその襖を閉めて欲しいです、と付け足せば大人しく閉めたのを見計らい、口を開いた。 「冨岡さん、ご存知ですか?旅籠七不思議のひとつ"消えるお客"」 質問の意図が掴めない義勇の眉間に皺が寄る。 それは西北西に真っ直ぐ行った町の一角に構える旅籠屋。 右から数えて二番目、その部屋に泊まった人間が何の痕跡も残さず忽然と姿を消してしまう。 僅か数週間の間で消えた人数は全部で十六人。 これは明らかに異常であると判断し、鬼殺隊が動く事となった。 「元々管轄内ですので、最初の指令は私に向けられたものだったんです。しかし此処を何日も空けるのは正直無理があるため名前さんにお願いした、というのが経緯です」 しのぶの言葉に全てではないが、その背景を理解する。 嫌いな猫をわざわざ自分の屋敷で預かったのも、代わりに任務に向かった名前へのせめてもの思慮なのだろう。 「…いつ戻ってくる?」 「それは私にも何とも…。鬼の頸を斬ったらとしか言いようがありません」 名前が旅籠屋に向かったのは五日前。 鎹鴉が伝える定期連絡が途絶えていない事から無事である事は確認出来ている。 しかしそれは同時に、未だ鬼が姿を現していないという事だった。 流石にこれ以上の時間、名前一人に全てを任すのは危険だと判断した産屋敷が応援を送るようしのぶに指示したが、誰を送れば良いのか、ここ数十分迷っている。 「冨岡さんは誰が良いと思います?」 急な発問に、義勇が若干顔を顰めた。 「名前さんへの応援です。どなたに行って貰おうか今丁度悩んでいた所なのですよ」 しのぶとの管轄が近いのは恋柱・甘露寺蜜璃か 風柱・不死川実弥。 それとも柱ではない別の誰かか。自分の代わりと考えれば栗花落カナヲを向かわせるべきかと考えるが、それも何か違う気がしている。 あと名前と面識があるのは… 「……が…く」 「はい?」 思考を別に働かせていたのと、余りにもか細い声に聞き取れなかった。 「俺が行く」 「冨岡さんまでもがそちらへ向かってしまうと完全に管轄圏内が疎かになるので無理です。許可出来ません」 ニコニコと微笑うしのぶに、目を細めたまま押し黙る義勇。 「と、いうのは半分冗談として、心配なのはわかりますが、公私を混同するのは余り関心出来ませんね」 「……混同など「していないと言い切れます?」」 グッと喉を鳴らす義勇にしのぶは眉を下げると笑う。 「本当に名前さんの事となるとわかりやすい人」 「…何の話だ」 「好きなんですよね?」 若干目を見開いた後、黙る姿に思わず吹き出しそうになってしまった。 「もしかして気付かれていないとでも思ってました?これだけわかりやすく態度に出ているのに?まさか、本当に?ふふっ」 耐え切れず小さく笑声を上げるが 「…あいつは…、全く気付いていない」 呟く声にまた眉を下げる。 「あぁ…、まぁ、そうでしょうね…。名前さんですし…」 そう考えれば不毛、と言えば不毛なのかも知れない。 「直接伝えてみれば良いのでは?」 途端に地面を見つめる。 「…出来る筈がない」 思い詰めたような表情が何故なのか気にはなったがきっと自分には理解の範疇を遥かに超えている、と判断した。 名前と義勇が同じ育手の元に居たというのは随分前からしのぶの耳に入っている。 二人にしかわかりえない何かがあるのだろう。 「…わかりました」 ふぅっと息を吐いてから伏し目がちの群青色を見つめる。 「元々は私が行かなくてはならなかった訳ですし、文句ひとつ言わず受け入れてくれた名前さんに免じて冨岡さんの我儘を聞いて差し上げます。今からその旅籠屋に向かってください」 「……。管轄は、どうする?」 「私とカナヲで出来るだけの穴は埋めますので心配要りません」 言うや否や背を向けようとする姿に気が早いなと苦笑いが零れた。 「…あ、冨岡さん。隊服は脱いでいってくださいね」 「…何故だ」 「何故って密偵だからですよ?」 * * * コンコン、と戸を叩く音で名前は空を見上げていた顔と足をそちらへ向けるとゆっくり襖を開けた。 見慣れた無愛想な表情に安堵したのも束の間、見慣れぬ着物姿に目を丸くする。 「義勇…」 「…応援に来た」 「そっか。義勇だったんだ…」 心底安心したように微笑えば、一瞬不可解な表情へ変わる義勇に答えるように続けた。 「…しのぶさんから聞いてはいたんだけど、誰が来るかわからなかったから…全然知らない人だったらどうしようって考えてたの」 いつ何時来るかわからない鬼からの襲撃に備え気を張り、更に動き辛い着物に身を包んだ上、ほぼ部屋から出られず迎えた五日目の朝は正直な所、心身共に若干の疲労を感じている。 そんな中で見知らぬ人物と昼夜共にいつ終わるかわからぬ時を過ごすと考えると、流石に不安があった。 「良かった…。義勇で」 自然と出た言葉に当の義勇は視線を逸らすと極めて冷静に言葉を出す。 「詳しい状況を知りたい。説明してくれ」 「うん」 そうして二人は腰を下ろすと名前が持っていた旅籠屋の平面図を広げた。 十畳一間のこの部屋には、供え付けられている机、座椅子、押入れには布団がある位で特に変わった所はない。 窓から南側へ続く露台からは一見平和な町並みも見える。 いわゆる、普通の旅籠屋の一室だ。 取り立てて気になる事と言えば、まだ色褪せていない畳と、綺麗に塗られた漆の天井と壁くらい。 改装したばかりなのか、まだ真新しい匂いが鼻につく。 この五日で手に入れた情報を何一つ余す事なく義勇に伝えるよう順序立てて説明した。 まず前提は、この部屋に泊まった客が消えるのは夜中から朝方に掛けてだという。 消える人間に関しては、最初こそ無作為だと思っていたそれも段々と情報を得る内に、ある規則性を知る。 これまで"消える客"の七不思議が起きたのは回数に起こすと八回。 その全てはこの部屋を二人で利用していた時だった。 それがどうにも名前には偶然と思えず産屋敷に経過報告の文を出した際、応援という形でもう一人隊員を送るとなったのが今までの経緯。 今まで黙って聞いていた義勇が 「…お」 に、と言い終える前に右手でその口を慌てて塞いだ。 「言っちゃダメ…!」 小声で制す名前の手首を掴むとそっと下ろす。 「何でだ」 「旅籠の女将さんに絶対言葉に出さないで欲しいって言われたの」 唯でさえ七不思議として噂が流れ始めた旅籠屋に鬼が居るとなれば客足が離れていくのは明白な事実だ。 名前がこの部屋の事を口にした時、女将は瞬時に鬼殺隊である事を察知し、絶対に他の客には気付かれぬよう、そして万一にも誰かの耳に入らぬよう一切鬼に対しての文言も口にせぬよう何度も何度も念を押した。 本来ならば、この任務は『密偵』という括りで旅籠の女将にも内密に動く筈だったが、瞬時に見抜かれてしまったのは、客商売を営む女将の観察眼故。 産屋敷あまねが用意した名前の草履はどう見ても若干二十歳やそこいらの娘が到底手が届くようなものではない、高価なものだったからだ。 「…気配はするのか?」 義勇の質問に、真っ直ぐ見つめると首を縦に動かす。 「夜になると…。でもそこから全く近付いてこないの」 「襲ってくる特別な条件でも…」 考えを巡らせようとした所で、ふと別の事を気に留めた。 「…わかった。ひとまず名前は休め」 「え?」 返事を聞く前に押入れから布団を引っ張り出すと床へ敷いていく。 「寝不足なんだろう?今の内に寝ておけ」 たった一人で丸四日間、鬼の巣に近い場所に居続けるのは例え鬼殺隊と言えど、負担にならない訳がない。 しのぶに笑われはしたが無理にでも此処へ来た事に間違いはなかった。 「でも…」 「良いから」 座り込んだままの名前の右手を引くと半ば強引に布団の中へ誘導する。 「何の為に俺が来たと思っている」 その言葉に何度か瞬きをした後、観念したように小さく頷く。 「…ありがとう、義勇」 その場に胡坐を掻くとゆっくり布団へ入る姿から窓の外へ視線を外した。 ずっと見ていては眠れないだろう、そう思って。 流れていく白い雲と共に弧を描き優雅に飛ぶ鳶を眺めていれば、すぐに規則正しい寝息が聞こえ始め視線を名前へ戻した。 無防備というのか、無垢というのか、その寝顔に自然と口角が上がってしまう。 こうしていると、まるで穏やかな時間が続いていくのではないかと錯覚を起こしそうになるが、鬼と対峙する度に現実へ引き戻される。 自分達の、いつ終わるかわからぬ命を。 起こさぬようそっと髪を撫で、愛おしいその姿を暫く眺めていた。 Hope せめて、今だけは [mokuji] [しおりを挟む] [back] ×
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