雲路の果て | ナノ 20




「俺は柱の器じゃない」

そう言った義勇は酷く悲しそうで、今でも錆兎の死をずっと引き摺っているのは、わかっていた。

わかっていても、明確にその絶望を救えるような、そんな言葉は、私には何処にも見当たらなかった。




雲路の



左足の腫れも治まり、翌朝には任務に復帰できるであろう夜分の事だった。
一週間の自宅待機が続いていたため、一切の指令が伝わってくる事もなく安眠していた所、ふと目が覚め、右側へ寝返りを打ってから気付く。

義勇が隣にいる事に。

「……っ!!」

一瞬口から出そうになった驚きの声を何とか我慢して、そっと身体を起こすと状況を整理する。

いつから此処に居たかは、熟睡していたせいで正直の所、把握できていない。
しかしいつもの隊服と羽織を着たまま、更に名前が起き上がっても全く反応せず深い眠りに入っている姿が、余程疲れているのであろう事はすぐにわかった。
布団の傍らに置かれた日輪刀に視線を向ける。

何か用があって此処に来たのだろうか。
だとしたら自分は気が付かず眠っていた事になる。
もしかしたら目が覚めるまで待っている内に義勇も眠ってしまったのか。
それとも疲労困憊で自分の屋敷に着く前に力尽きてしまったのだろうか。

本人が眠ってしまっている今、答えは出ないが思い付く限りの可能性を考えながら、名前は布団から抜け出すと、出来るだけ音を立てぬようにもう一つの布団を押し入れから出し、それを隣に敷いた。

足元で丸まっていた黒猫がそれにつられるように起きたが、シィーと声は出さず人差し指を立ててから手招きする。
黒猫と共に、新たに敷いた布団へ入り、目を閉じた。


暫くして、義勇は浅い微睡みの中からふと目を覚ます。
近くに在った筈の温もりがなかったからだ。

身体を起こした左側、布団ひとつ分離れた所に名前の眠る影が見える。
こちらに向けているその背へ近付いて、もう一度そっと寄り添えば
「…ん…義勇?」
若干寝ぼけた声がした。
「…何で、離れた」
「だって義勇、疲れてるんでしょう?狭くてゆっくり「これでいい…」」
また離れてしまわぬように回す右手に
「……うん…?」
理解していないであろう返事を聞く。
かと思えば、急に思い付いたように寝返りを打ち義勇へ向き合った。

「そうだ、鱗滝さんが眠れない時にね、こうしてくれたの」
当時名前が大好きだった子守唄を歌いながら、左手で義勇の頭を撫でる。
ゆっくり、ゆっくり、とても、愛おしそうに。

狭霧山に来た当初の名前は両親を亡くした心の傷からとても不安定で、夜中に泣き出してしまう事があった。
その度に鱗滝は怒るでも嫌がるでもなく、気が紛れて落ち着くまで、あるいは眠りに就くまで、名前を外に連れ出したり、歌った事もなかった子守唄であやしてくれていた。

「…余計に、眠れなくなる」
「やっぱり鱗滝さんじゃないと駄目かぁ」
戻そうとした左手を優しく握ると、そのまま背中へ回させる。
お陰でその胸元に、ピッタリとくっつく形になった。
どうしたらいいのかわからず、固まったままの名前に、すぐに聞こえてきたのは規則正しい呼吸音。

(寝ちゃった…)

一瞬、その腕から抜け出そうとも考えたが、義勇の温もりと匂いと共に聞こえてくる寝息、そして心音が心地よくて、つられるようにそのまま目を閉じた。

* * *

翌朝、窓から差し込む眩い光で、義勇は目を覚ました。
(…何処だ、此処)
心の中でそう呟いたのは、そこで眠っていたはずの名前の姿がなかったため。
身体を起こせば、足元には見覚えのある黒猫が丸まっていて、それが名前の家である事を寝惚けた頭の隅で認識した。

居間へ続く引き戸を開ければ、その音と気配に気付いて名前が振り返る。

「あ、おはよう」
「………」
まだ完全に目が覚めきってないであろう表情に、小さく微笑った。
「顔、洗ってきたら?」
小さく頷いて、数歩進んだ所で義勇の鼻が動く。
「…この匂いは」
「あ、わかった?鮭大根だよ〜!義勇、昔から好きでしょう?もう少しで出来るからね」
鍋の様子を見ながら嬉々として言う名前。
「………」
「あれ?もしかして…今は好きじゃない?」
何も言わず固まったままの義勇に次第に焦っていくも、パァッと明るくなった表情に安心して微笑った。



「…美味しい?」
「美味い」
短くそう答えた後、黙々と食べ続ける姿に嬉しくなって名前も一口ご飯を運ぶ。
目の前で義勇が自分の作った料理を食べている。
懐かしいような、しかし目新しいような不思議な感覚だった。
昔は毎日、こうして顔を合わせて食事をしていたし、鱗滝から教えてもらった料理を出した事もある。

もし、今でも錆兎が居たら…

ふと考えてしまった名前に、それ以上の思考を停止させた。
義勇が常にその感覚に捉われている事をわかっているからだ。
最近は少し、柔らかい表情を見せてくれるようになったが、それもまたいつ、あの冷たい表情に戻るかわからない。
こんなに穏やかな時間も、今だけかもしれない。


「…勝手に上がり込んで悪かった」
小さく呟いた言葉に、落としていた視線をそちらへ向けた。
「ううん。…そうだ、起きたら聞こうと思ってたんだった。何か用があったの?」
「………」
手を止めて黙り込む瞳が何を考えているのか読めず、首を傾げるしか出来ない。
「…自分の屋敷に戻ったつもりだったんだが、気が付いたら此処で寝ていた…」
義勇は決まりが悪そうに、一度箸を置いた。
「正直任務を終えてからの記憶が断片的にしかない」
「…もしかして怪我!してるの!?」
声を上げると立ち上がろうとする名前に
「違う。ただの睡眠不足だ」
制するようにそう言葉に出せば、若干安心したように座り直す。
「そんなに忙しかったんだ…」
「任務自体はそうでもない。ただそれ以外にも色々重なったせいで数日寝る事を忘れていた」
勿論、時間を見つけ仮眠程度は取っていたが柱合会議や任務完了後の町民との小競り合い、とにかくひとつ終われば間髪入れずに何かしらの問題が起き、悉く間が悪かったのを思い出す。
気が付けばそのまま一週間が過ぎていた。
流石に限界を感じ、屋敷へ戻ろうとした所から名前の布団で目を覚ますまでの間の記憶は頭に霞みがかっているように曖昧なままになっている。

「…昨日、俺は変な事を言ってなかったか?」
「ううん。何も言ってないよ?」
「…そうか。それなら良い」
良かった。それなら本当に良かった、と心の底から安堵の溜め息を吐いてから箸を手に取った瞬間
「あ」
突然声を上げた名前に僅かに肩を震わした。
「子守唄は?覚えてる?」
「……」
眉を寄せた表情に名前はその記憶がないであろう事を悟る。
「昨日、私子守唄歌ったんだよ?ネンネン、ネンネン、ネンネン、ヨーって。覚えてない?」
「全く覚えていない」
「なぁんだ。鱗滝さんみたいに寝かせられたと思ったんだけどな」
残念そうに微笑う表情を目端に捉えつつ茶碗を左手に持つ。
「その唄…、鱗滝さんに良く歌ってもらっていたな」
「うん。…さ、」
無意識に出してしまいそうになった名前を
「最…近ね、思い出したの…!」
上擦った声で誤魔化したのはまたその穏やかな瞳が曇ってしまう気がしたからだ。
しかしその懸念も
「そうか」
短く答え箸を進め始めた姿に、胸を撫で下ろしてからそれに倣うように箸を持った。

* * *

「……ご馳走様」

小さく出した声に顔を上げる。
米粒ひとつ残す事なく綺麗に平らげ、手を合わせる義勇がいた。
そうして立ち上がると、食器を片付ける。
そのまま置いといていいのに…と、ついそう口に出そうになったが、それも狭霧山で教えられた事だった、と思い出す。
戻ってきた義勇が一口お茶を飲んでから、そっと湯呑を置いた。

「足はもういいのか?」
「…あ、うん。もう大丈夫」
「そうか」
「ごめんね…。私が管轄内で穴を空けちゃったから余計に忙しかったんでしょう?」
「変わらない。俺は鬼の頸を斬ればいいだけだ。名前のように全体を把握する俯瞰力も統制を整える指導力も必要もない」
淡々としながらも、それは何処か侘しそうで眉を下げると微笑う。
「…斬ればいいだけ、なんかじゃない。義勇が居るから、義勇が鬼を倒してくれるから、私を含めた隊士が動けるんだよ?」

名前の言葉に、義勇はつい先日、産屋敷に呼ばれた事を思い出した。
宇髄天元が柱を引退したと聞いた翌日の事。

「義勇、来てくれたんだね」
それは、産屋敷の穏やかな笑みで始まった。
「二人も、柱がいなくなってしまった…」
ついに床に伏したままになった産屋敷に、義勇は黙って耳を傾けるが
「…次の柱には、名前を推薦しようと、思っているんだ」
想像もしていなかった提言に若干目を見開いた。
「……ですが、柱の条件を満たしていないように見受けます」

柱になる定義は
階級が甲である
鬼を五十体以上倒している、もしくは十二鬼月を倒している

義勇が知っている限り、階級について満たしている。
しかし肝心の…

「実はね、名前は十二鬼月を一度倒してるんだ」
静かに吐き出されたその事実に、息を止めた。
「あれはもう、何年前だったかな…」
記憶を辿るように話し始めた産屋敷に黙ったまま視線を落とした。

それは、名前が漸く鬼殺隊員としての仕事にも慣れてきた頃。
まだ階級が低かった彼女は鬼によって損壊した建物や瓦礫の片付けを任されており、その日も懸命に与えられた仕事をこなしていた所、それは突然現れた。

当時で言う、下弦の参。

他の鬼を倒した事で、鬼殺隊が完全に油断した空気を見計らったかのように、次々と嬲り殺していく姿はまるで狂気だった。

恐怖で逃げ惑う隊士や隠の中、立ち向かった数十名。
その中には名前も居た。
隊員達が命を懸けて作った頸を討つ隙を、まだ動く事が出来た五人が一斉に頸を狙ったが、生き残ったのは名前だけだった。
当時、現場の混乱は想像以上で、重傷を負った名前本人も、細かい事など覚えていないだろう。

沢山の命を犠牲にした。
それでも、必死だったその刃は、確実に十二鬼月を捉えていた。

「…条件は、もう整ってるんだ」

産屋敷の静かな声に、義勇は目を伏せたまま微動だにしない。

「義勇は、どう思う?名前が柱になる事について。率直な意見を聞きたいんだ。遠慮はしないで聞かせておくれ」

突然の優しい発問に、一度目を閉じてから開けた。

「…恐れながら、申し上げさせていただきます」



「…義勇?」
その名を呼ばれ、我に返った。
目の前の名前に小さく首を横に振る。
「いや、何でもない」
首を傾げながらも、食器を片付けようと立ち上がる姿にもう一度口を開いた。
「…名前は、柱になりたいと思うか?」
「…柱に!?」
心底驚いたように動きを止めるのが、わかりやすいなと思う。
そうして暫く考えるような顔をした後、ゆっくり答えた。
「…昔は、やっぱり…憧れもあったかな」
それは漠然としたものだったが隊士になりたての頃は、そこを目標としていた事もある。
柱になれば、義勇が自分を認めてくれるのではないかと考えた時期があったのも確かだ。
「…でも、今は甲として柱や他の隊士を支えられる役割の方が、正直私にとっては…合ってると思うんだ」
何一つ嘘のない屈託のない笑顔に、義勇は人知れず頬を緩めた。



「…恐れながら、申し上げさせていただきます」

義勇の言葉を待つのは優しく穏やかな産屋敷の笑顔。

「彼女が甲の隊士になり現在まで、被害を最小限に留められた案件は計り知れない程。柱がより強い鬼を斬る事を目的としているのならば、彼女のように柱の補佐、隊員及び隠の統制が取れる人材は鬼殺隊に必要不可欠であり、今まで築いてきた鬼殺隊の統制が、根底から崩れる可能性があるのではないかと危惧しております」
一度、間を置いてから更に続ける。
「そしてこれは…私見となりますが、彼女が柱としての重積に耐えられるような人物ではないと、狭霧山で育った同志として申し伝えなくてはなりません。それら全ての要素を踏まえ、柱になる事について私からは選奨いたしかねます」
「……うん。そうか。そうだね。わかった」
そうして、ひとつ呼吸をした。
「ありがとう。義勇。教えてくれて」


義勇が出した言葉に、何ひとつとして嘘や誤魔化しなどはない。
あくまで客観的に捉えた事実のみを伝えたつもりだったが、それでも穏やかな笑みを思い出して目を伏せたのは、それ以上の抗えぬ感情があったのは確かだった。


Contrary
心が少し、痛む

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