雲路の果て | ナノ 19


累から逃げたと言う鬼は、元々、成田蜘蛛山に住んでいた。
そこで他の者と同じように『家族』を強制され、逆らえば何をされるかわからない立場は変わらなかった。

しかし彼には母親がいた。
作り物ではない、本当に血の繋がりがある母親が。
それは鬼舞辻無惨の思惑ではなく、偶然の産物だった。
母親だけを鬼にしようと血を分けた際の一液が、抱いていた子供の頬へ垂れた。
当時肌が弱かったその子の身体には痒みを我慢できず掻き毟った痕があったという。

それだけの事だった。
たったそれだけで、彼は鬼になった。

鬼になった親子を受け入れ、更に血を与えたのは下弦の伍である累。

しかしそれも、彼を連れ逃げようとする母親が殺され、叫んだ。
「ごめんなさいお母さん!僕が鬼にならなければ…!お母さん!ごめんなさい!」
糸が迫る中、彼はずっとそう叫び続けた。
自分も同じように殺されるのだろうと覚悟したのも束の間、累は突然背中を向け、去っていった。

殺す事をやめたのは、無意識に累の記憶を彼に重ねたものだったが、それを彼は知る術もない。

だから必死に、必死に逃げた。
累からも、鬼狩りからも、陽の光からも。

そうして最終的に行き着いたのは小さな穴の中。

彼はそこで1人、蝶になりたいと願い続けた。
空を飛ぶ綺麗な蝶が、とても好きだったからだ。
その願望は、累が分けた血によって徐々に叶えられていく。

背中には羽根が生え、口は吸う事に特化した口吻へ形を変えていった。
しかしそれも、累の元々の能力ではなかったため空を飛ぶ事など不可能だった。

口が変化したため、人の血肉を食す事は出来なくなったが、彼は代わりに口吻を大地へ根付かせた。
擬態した花で人間を誘い微量の毒で体力を削り、吸血する血鬼術を身につけ、同時に完全に気配を消す事も出来るようになる。

最初こそ、何人かの人間の血を抜く事に成功したが、それは身体の小さい彼には途方もなく時間と労力が掛かる作業だった。
そして段々と噂が広まり、山に訪れる人間が減った事で、徐々に飢餓状態が進んでいく。
義勇と名前が『偵察』という名目でこの山に入った時には、既に彼は弱り切っていた。
名前が善逸と共に再度この場所に訪れた際、白い花が減っていたのはそのためだ。


そうして頸を斬られた時、彼は苦しむ代わりに

「…おかあ、さん…」

死んだ母親に抱き締められる幻想を見た。



雲路の



「…名前さああああん!!うわああああん!!」

誰かが叫ぶ声がして、目蓋を動かした。
ガラガラと何かが動く音に、ただ事ではないと急いで目を開ければ、そこには泣きじゃくる善逸の姿と必死に
「急患です!道を開けて!」
そう叫ぶアオイが視界に入る。
自分が担架に乗せられていると気が付いたのはその少し後だった。

バッ!と勢い良く起き上がれば、その場の空気が止まる。

「…お、起きたあああああ!」
「大丈夫ですか!?」
「ごめんなさい大丈夫です…!」
失血したせいでほんの少し気を失っていたのかそれとも毒が回り始めたせいかはわからないが、とにかく担架から自力で降りれば

「随分賑やかなお帰りですね」

胡蝶しのぶはニッコリと微笑った。

* * *

「…ようやく解毒薬が効いてきたみたいです」

名前の左足を確認してから、包帯を巻き始めると、わかりやすく溜め息を吐くのは勿論しのぶ。
「…先程、善逸くんからも経緯は聞きました。最初からこうしようと思っていたんですか?」
静かに尋ねる声に思わず下を向く。
此処、診察室にその姿がないのはつい今しがた入った指令に駆り出されたためだ。
泣きながら駄々をこねていた善逸は大丈夫だろうか、と頭の隅で考える。

「他の方法も考えてみましたが、これが最善で最短だと判断しました」

口吻はいわばストローのようなもの。
そのままでも音が響く事は響く。しかしあれだけ素早い動きで攻撃してくる口吻の空洞音を正確に拾うのは、耳の良い善逸にも難しい。
その動きを止め、そして空洞音が響きやすいように、蓋をする必要があった。

「だから今度は左足ですか…」
「すみません…」
「鬼は既に弱っていたと聞きますし、そこまで無理する必要もなかったのでは?」
「…そう、なんですけど…、助けてって、聞こえてしまったものですから…」
「……。名前さんらしいですね」
「…すみません」
「いえ、別にいいんですよ?同じ毒を食らう事によって、免疫異常を起こし死亡する可能性があったり、失血を補うために呼吸で血の巡りを良くしたせいで毒が回るのが早まったりもしましたが、全然、いいんですよ?別に、大丈夫です」
「……。すみません」
包帯を巻き終えた所でしのぶは眉を下げながら笑った。
「謝るべき相手は、私ではないのでは?」
そうして視線を動かさないまま続ける。

「ねぇ、冨岡さん?」

その一言に名前の視線が扉へ移る。
名前を呼ばれた人物はいつの間にか物音も立てず壁へ寄りかかっていた。
「…義勇」
「名前さんが単独行動したと聞いて飛んで来たんですよね?大変だったんですから。冨岡さんったらオロオロしちゃって」
「嘯くな、胡蝶」
若干きつい口調で返す義勇に、しのぶは気にする事なく続ける。
「解毒は出来ましたし、あとの問題は失血量ですね。補うための薬を出しときます。一日三回忘れないで飲んでくださいね」
「はい。ありがとうございます」
「それと左足に関しては、無理に走ったせいで化膿してますから、腫れが引くまで暫く動かさないようにしてください。勿論、歩くのもダメです」
「…はい」
「では、帰っていいですよ?」
「…はい…ってえ!?」
「入院の必要はありませんから」
「…あの」
歩くのが駄目ならどうやって帰れというのだろうか。
せめて松葉杖の一つでも、と言う前に視界がグッと高くなったかと思えば、地面から足が離れた。
「…義勇!?」
その右肩に抱えられているのに気付いたのは
「お大事に〜」
ニコニコと手を振るしのぶが見えなくなってからだった。

廊下ですれ違う人々が驚いたように注目するのに耐えられず蝶屋敷を出た所で声を掛ける。
「義勇!ちょっと!待って!」
「暴れるな」
「しのぶさんはああ言ったけど!歩けるからいいよ!大丈夫!」
「さっき倒れたばかりで何を言う」
「それは…!でも待って!降ろして!?皆驚いてたし!ちょっと恥ずかしい!」
そこまで言った所で、義勇が足を止めた。
ゆっくり降ろされたかと思えば、
「乗れ。これなら問題ないだろう」
すぐにしゃがみ込むと大きな背中を見せる。
「……。いいの?」
「あぁ」
恐る恐る肩に右手を添えると、その背中に負ぶさった。

そうして立ち上がると涼しい顔で歩き始める義勇に
「…重くない?大丈夫?」
と訊けば、
「昔よりは、少し重くなった」
その答えに小さく笑う。
「覚えてるの?」
「…今、思い出した」

狭霧山の頂で修行の途中、名前が酷い捻挫をした時だ。
当時一番足の速かった錆兎が鱗滝を呼びに行き、義勇は名前を背負いながら下山した。

「あの時も重かったでしょう?」
「…重いなど、そんな事を考える余裕はなかった。あの時は…」
一度言葉を止めたのは、鮮明に思い出してしまったからだ。
「あの時は、名前が死んでしまうかも知れないと、ただ必死だった」

今ならわかる。
徐々に変色して腫れ上がっていく右足も、痛みで動けない名前の泣きそうな表情も、今なら冷静に対処が出来る。
だけどあの頃は、その全てが怖かった。
また、誰かがいなくなるのが。

「……。ごめんなさい」
「別に今更謝る必要はない」
「そうじゃなくて…あの、今回の事…」
沈黙が続いた後、義勇はゆっくり口を開く。
「お前が鬼殺隊の隊士として考えた末での行動だったのは胡蝶から聞いている。それに関して俺が咎める謂れはない」
足を止める義勇に、名前は小さく首を傾げた。

「猫の餌もそうだ。俺はそれだけ頼りなかっただけだ」

明らかに怒気と悲しみを含んだ口調に慌て出す。

「…猫の…?あ!善逸くん!?あれはね!たまたまで…炭治郎くんはいなかったし伊之助くんはクロ食べちゃいそうだったし!しのぶさんには相談出来なかったし…!それに、善逸くんは耳が良くて、私そのおかげで…」

黙り込んだままの義勇に、視線を落とす。

「……。違うの。頼りなかったんじゃないよ…。義勇は柱だし…私なんかの事で余計な負担をかけたくなかったの…」

煉獄杏寿郎がいなくなってからの柱への指令は、いつもの倍に増えている事を名前は経験上わかっていた。
昼夜問わず転々と飛び回るように指令を受ける義勇に誰が言えようか。

「そもそも俺は、柱の器じゃない」

無意識に呟いてしまった言葉を掻き消すため歩き出した義勇に、名前は弾かれたように顔を上げる。
「そんな事ない!」
「………」
沈黙を貫く後ろ姿が悲しく見えて、思い切り抱き着く。
「そんな事ないよ!義勇は凄いんだから!」
「……耳元で喚かないでくれ」
「…あ、ごめんなさい…」

「…ごめん!名前!俺がもっと早く走れれば…」
必死に山を降り続ける義勇の背中で
「…義勇が謝る事ないよ…」
名前は弱々しく呟きながらも首元へ回した両腕へ力を込めた。
「…義勇は凄いんだから…私、知ってるもん…」


暫しの静寂の後、
「…お前は昔から…変わらないな」
優しい声が響いた。


Sympathetic
甘えていたくなる

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