雲路の果て | ナノ 18


退院の朝、隊服に着替え終えた名前は、診療室へ訪ねた。

コンコン、と合図をしてから
「しのぶさん、少しお話よろしいですか?」
ひょこりと顔を出せば
まるで待っていたかのように
「えぇ、構いませんよ?どうぞ」
その姿が綺麗に微笑んだ。


雲路の


「…あの」
促されたまま椅子に座ったが、どうにもしのぶの醸し出す雰囲気に圧倒されそうになる。
「…これから私に、あの山へ行く事を許可いただけないでしょうか?」
恐る恐る、頭を下げた。
「何故ですか?」
「もしかしたら、鬼の居場所がわかるかもしれないんです」
「もしかしたら、という言い方では困りますね。数値的に現すとどれくらいですか?」
「五わ「低いですね」」
名前の言葉を遮って言い切る表情は微笑ってはいるが恐怖を感じる。
「では、質問を変えましょう。どのような方法か説明してください」
「…………」
途端に黙り込む名前に、ふぅっと軽く溜め息を吐く。
「説明も出来ないのですか…」
「………」
「名前さんがその場の感情で適当に言っているのではないのはわかりますし、何か策があっての事なのでしょう。しかし、もしかしたら、とか出来たらいいな、とかいう希望的観測では許可出来ません」
「あの…出来たらいいなとは…言ってません」
「言葉のあやです」
ニコニコした表情もまたすぐに真剣なものへと変わった。
「鬼殺隊にとって…勿論私にとっても名前さんがいなくなる事は、相当な痛手です。曖昧な理由で有能な隊員を送り出す事は出来ません。わかりますか?」
暫しの沈黙の後、名前が小さく頷く。
「…せめて冨岡さんがいれば、と思ったのですが昨夜からずっと他の任務についたままのようですし…」
「…私一人じゃなければ」
決意をしたように顔を上げた。
「私一人でなければ、許していただけますか?」
「人によります」
さらりと返すしのぶに、名前は一人の人物を提案する。
「…善逸くん…我妻善逸隊士の助けがあればきっと上手くいくと思うんです!」
「…善逸くん、ですか…?」
考えを巡らせるしのぶに
「お願いします!しのぶさん!」
深く頭を下げる。

「…そこまで言うなら、仕方ないですね」

優しさを含んだ声に顔を上げれば、困ったように微笑うしのぶがいる。
「ありがとうございます!」
精一杯の感謝を込めて、もう一度頭を下げた。

* * *

午の時を少し越えた刻
「…何で、俺なんだろう」
後ろから渋々ついてくる善逸に、名前は「ごめんね」と苦笑いをした。
明らかにやる気のない姿に、ふと思い出す。
「…善逸くん。お腹空いてない?おにぎり作ってきたんだけど…」
肩掛けにしていた風呂敷を解き、中から竹皮に包まれたものを取り出せば
「名前さんの手作りですかああ!?」
凄い勢いで近付いてきた。
「…あ、うん。この間クロに餌あげてくれてたお礼も兼ねて…良かったら」
「いただきますいただきます!!うっひょー!!」
先程までと打って変わって喜ぶ善逸に
「善逸くんは少し気難しいので、目の前に餌やご褒美を用意しておくと良いですよ?」
しのぶの助言を思い出す。

(…おにぎりが好きなのかな…良かった作ってきて)
心の中でホッとする名前と、しのぶの思惑が全く違うのは言うまでもない。

しのぶ(名前の解釈)曰く、与えられた握り飯で元気になった善逸と共にその山へ入る。

(…花が、減ってる?)
四日前に此処へ来た時と比べるとあの白い花の数が明らかに少ない。
これがどのような意味をなすのか名前にはわからないが、少し奥に足を進めた後、振り返った。

「…善逸くんに此処に来てもらったのは、音を聞いて欲しいの」
「…え?」
「鬼が、根を張るように此処に住み着いています。正確には根ではないんだけど…多分」
そうしてしゃがみ込んだ。
「この白い花に触れたら、その条件が発動します。糸状のものが襲ってきますが、善逸くんはそれを最低限でいいので避けながら、その中から響く音を私に教えて下さい」
「…え!?無理です無理です!!俺にそんな事…!!」
「…お願いします。善逸くんにしか出来ない事なの」

真っ直ぐに見つめる瞳は、正直で何一つ変わらない音だった。

名前の左耳が聞こえないと、聞いたのはいつの頃だっただろうか。
噂話はいつだって、聞こうとしなくても聞こえてきた。
片耳しか聞こえないなんて大変だなぁ、そんなので隊士を続けているなんて、余程この仕事が好きなんだろうなぁとか、変わり者なんだろうなぁとか、正直そう思っていた。

でも、出会った片耳が聞こえない彼女は、優しくて悲しくて真っ直ぐな音をしている。

「…わかりました」
そう答えた瞬間に正直後悔したが。
「…ありがとう」
屈託なく笑う姿が何故かとても、悲しい音がした。
「でも…どうするんですか?」
「善逸くんは少し離れてて?多分…これで」
白い花に日輪刀を突き刺した瞬間、何本も伸びてくる細い糸状のもの。
(…ほんとに出たあああああ!!)
青ざめる善逸に構わず、名前はそれを左手で掴むと、自分の左足の甲へ突き刺した。

「何してるんですかああああ!?」
「この内側から音が聞こえる!?」
切迫した声につられて耳を澄ます。

糸の内側…?
いや、これは違う、糸、ではない。
これは筒状のものだ。
とても細いものだけど。

『…た、すけて』

「聞こえます!」
「誘導してください!」
「ここから南に真っ直ぐ…!」
言い終わらない内にグンッと距離を離され
「はっやっ!!」
叫びながら、その背中を追い掛けた。


「……はぁ…ここ、です…多分…!」

善逸の息が切れた頃、ようやく鬼の住処であろう場所を突き詰めた。
それは草木で巧妙に隠されたぽっかりと空いた地中の穴。
「突入します」
「その前に、名前さん!それは…」
善逸の言葉の通り、それはまだ左足へ繋がっている。トクトクと音を立てて血が流れていくのはわかっていた。
「…大丈夫」
善逸が安心するよう笑顔で答えてから、入口を覆う草木を分け中へ入る。
そこには、小さな、本当に小さな鬼であろう生き物が膝を抱え座り込んでいた。

肩甲骨から出ているのはボロボロになった羽根。
本来、口だった周辺からは先程見た糸状の物が無数に出ていて、地面を這っている。

その姿を目視して、名前は自分の推測が間違ってなかった事を知る。

糸のように見えていたものは、この鬼のいわば、口吻(こうふん)。
蝶が花の蜜を吸う為に発達した吸収管とも呼ばれるそれは、鬼の口から無数に生えている。
あの時、名前の右足に刺さった際、偶然にもその口吻に耳が触れ、僅かにだが確かに聞いた。

『たすけて』と。

「…これが、鬼?」
善逸が漏らした言葉は無理もない。
その小さい姿は、今にも死んでしまいそうだった。
しかし口元を見れば、確実に名前の足元から血を吸い、自分の栄養としている。

「名前さん!それ!」
善逸が止める声も、名前は
「うん。まだ大丈夫」
そう言って笑いながら、その鬼の前にしゃがんだ。

「…助け、て」
それは確かに善逸が聞いた、そして、あの時、名前が微かに耳に響いた声。
「助けにきました。名前は?覚えてる?」
「…覚えてない。累の、事は覚えてるけど」
「累くんは、お友達?」
「違う。僕に血を、分けてくれた。お母さんが死んだから、逃げた…」
「それから此処に来たの?」
「…僕は、蝶みたいに綺麗に飛びたかったんだ」
そうして上を見上げる。
「でも僕は累みたく強くないから、それも上手くいかなくて…」
痩せ細った身体は、もう長くない事を物語っていた。

「…僕は、もうすぐ、死ぬんでしょう?」

悔しそうに、両の握りこぶしを握り締める名前に、悔しさ、虚しさ、悲しさ、沢山の音を聞いた。

「苦しまぬように、私が貴方を斬ります」

覚悟を決め刀を抜いた後ろ姿は、まるで泣いているようで、善逸は勝手に溢れてくる涙を無理矢理拭う。

それを受け入れたかのように、目を閉じた鬼に『伍ノ型 紫雲(しうん)』を放った。
それは極楽浄土にたなびく紫色の雲のように、
死へと誘う技。
綺麗に落ちた頸が朽ちていくと同じく、根を這っていた花が消えていく。
名前の左足に突き刺さっていた口吻も、その姿が見えなくなると共に消えた。

「…帰りましょうか」

そうして刀を仕舞う名前が一瞬ふらついたのを気付いて、身体を支える。
「だ、大丈夫ですか!?」
「ごめん…善逸くん。…大丈夫ちょっと待ってね」

そうして小さくしゃがむ事、数秒。

「よし!もう平気!行こう!」
「は!?大丈夫じゃないですよねそれ!?たった数秒で何が大丈夫なんですか!?」
「呼吸で血の巡りを良くしたの」

そうして、いつものように走り出した名前に案の定、ついて行くだけで精一杯だったが、それも、蝶屋敷の戸が見えた途端、その姿が突然バタッと地に倒れた。


Faint
「…ぎゃああああああ!!名前さあぁああああん!!?」

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