「にゃー」 ぱっちりとした眼を更に大きくさせて、甘えるように鳴き出す姿に、視線を合わせようとしゃがみ込む。 「…ご飯なくなっちゃったの?また後でね?」 優しく頭を撫でれば喉をゴロゴロと鳴らし、眼を閉じた。 貰い手を探してはみたものの、結局手を上げる者はおらず、今に至る。 背景が背景だ。 鬼が飼っていた猫など、誰が喜んで受け入れようか。 それは名前自身がわかっていたので、さして期待をしていた訳でもないが。 「二人で仲良く暮らそっか」 その言葉を、理解しているのかしていないのかはわからないが 「にゃー」 と返事をしたように鳴く姿に、笑顔を深める。 「貴方の名前は何かな?あの子がシロだったからクロ?」 安易過ぎるかと自嘲しながら頭を撫でる手は トッ、トッと 聞き覚えのある音に動きを止めた。 雲路の果て それは、想像していたよりも、意外と早くやってきた。 クロを撫でる手を止め、 「…ちょっと行ってくるね」 ゆっくりと立ち上がる。 玄関の引き戸を開ければ、もう何度も見た顔。 「今日こそ、受けてもらいにきた」 開口一番、そう言う態度も、自信満々の立ち振る舞いも何もかも、今の名前にとって恐怖だった。 外へ出て、クロがついてこないように静かに引き戸を閉める。 「…すみません。やっぱり…お受けする事は出来ません」 「……。俺がここまでやってやってるのに」 歪ませるその顔が、怖かった。 「先輩と私とでは、婚姻をするのは難しいと思います。ですので、どうか…「合う合わないはどでもいいんだ!大事なのは優秀な世継ぎを産む事だろう!それが女の仕事だ!」」 「…だからその、大事な事が違うんです」 自分の身体の中で、急速に何かが冷えていくのを感じる。 「何で断り続けたか、少しもわかりませんか…?わ、たしは先輩を嫌いなんです。一緒になるつもりはありません」 以前の自分では言えなかった。 「…何だと!?」 逆上されるのが、目に見えていたからだ。 案の定、右手首を捕まれたかと思えば戸に押し付けられる。 「……っ!」 痛いと出そうになる声は、辛うじて我慢出来たが歪む顔は隠せなかった。 「お前が!お前が甲(きのえ)でまだ容姿と実力がマシな奴だから!だから俺は声を掛けただけだ!本来ならお前みたいな!お前みたいな片耳の聞こえない!可哀想な奴が相手になどされるはずないだろう!!」 心臓が、痛かった。 覚悟はしていた。 そう、言われるだろう事を。 高圧的に迫られれば迫られる程、硬直して動けなくなった。 声を発する事が怖くなった。 だけど、今は… 「だったら早く帰ってください。可哀想な人間など、此処にはいません」 真っ直ぐ、その目を見た。 左耳が聞こえないから可哀想 柱になれないから可哀想 仕立てなんて仕事まで使ってしがみついて可哀想 可哀想って、何? 何で可哀想だと、周りが決めるの? 「……お前!!」 右手を掴む手に一層力がこもる。 痛かった。それより何より、怖かった。 でも強い眼差しは反らさない。 「………」 逼迫する空気に、根負けしたようにパッと手を離したのは男の方。 「お前、絶対嫁の貰い手見つからねーよ!!」 そう吐き捨て、踵を返す姿に二度と来ないであろう確信を得て、家の中へ入ると扉を閉めた。 心臓がバクバクと音を立てているのを落ち着かせるために呼吸を繰り返す。 (言えた…ちゃんと言えた…) 漸く呼吸が整い始めてスゥーッと深く息を吸った瞬間 トン、トン 背中に響く戸を叩く音。 反射的に水瓶に置いてある柄杓を手に取り、思い切り戸を開ける。 「さっさと帰れって、言ってんでしょ!!」 大きく振り被った瞬間、その人物が義勇である事に気付いたが、その勢いは止められず バシャッ! 思いっ切りその顔面に水を食らわせてしまった。 * * * 「…ごめんなさい本当にすみません申し訳ございませんごめんなさい」 居間に座る義勇に、頭を床へつける事しかできなかった。 名前が慌てて渡した手拭いで顔や髪を拭き終わり、出された緑茶へと手を伸ばす。 「そこまで謝らなくていい」 久々に聞いた声に、思わず頭を上げた。 ズズッと茶を啜る姿に考える。 (あれ…?何か普通に喋ってる…) 「…あの、何故此処に?」 「特に用がある訳じゃない」 (…用がないのに、来たの?え?何か…凄いお茶飲んでるし喉が渇いたみたいな感じなの?この表情は何?実は怒ってる?それとも楽しいのかな?ううん、楽しくはないか…水掛けちゃってるし) 「…あれが例の猫か」 移される視線の先にはクロが丸まって寝ていた。 「…あ、うん」 「良く胡蝶が止めなかったな」 「反対していたと思う…。けど、しのぶさんは私の考えを尊重して下さったから」 「そうか」 一間、置いて義勇が口を開いた。 「…少し、昔を思い出した。水を掛けられた時」 「それは…もう本当にごめんなさい」 また頭を下げる名前に構わず続ける。 「俺と、錆兎が取っ組み合いの喧嘩をしていると、お前が俺達に水を浴びせ、叱った。もう何が原因で揉めたかまでは覚えていないが」 「…そんな事あった…?」 「あった。その後三人共、鱗滝さんに怒られた」 「何で私まで!?」 「飲み水を無駄にするなと」 「それは…怒られるね…」 全く覚えてはいないが、呟いてから思う。 今まで感じなかった、義勇の柔らかい雰囲気に。 しかしそこから途切れた会話にいたたまれなくなり、飲み干された湯呑に救いを求めるように右手を伸ばす。 「…もう一杯、入れるね」 「いや、いい」 そうして掴まれた右手首。 「…ッ!」 走った痛みに思わず顔を歪ませた。 同時にゴロゴロと転がる湯呑に我に還る。 「…あ、ごめん!」 「………」 羽織と隊服を素早く捲る義勇を止める間もなかった。 くっきりとついた五本分の指痕。 それが人間によるものなのは明らかだった。 「…こんな事をするような奴と、結婚するのか?」 その言葉に弾かれたように顔を上げる。 「な…えっ!何で知って…!え!?あの!違っ!断ったの!しつこくて!だから!怒らせちゃって…!だから義勇に水掛けちゃって…!」 段々と支離滅裂になる説明が終わる前に、手を引かれた。 「……!」 息を吐く間もなく、襟元を開けたかと思うと首に触れるのは義勇の口唇。 反射的に離れようと力を入れたはずの身体はビクともしない。 「………」 (…え?何?何してるの?私…何されてる、の?) 冷静に考えようとすればするほど心臓が脈打つ。 身体が固まって動けない。 「…義勇…?」 遠慮がちに名前を呼べば、その顔が上げられる。 至近距離で目が合い、気恥しさからすぐに俯いて言葉を探した。 しかしそれも 「……。帰る」 義勇の一言でまた弾かれたように顔を上げる。 「…え!?あ、うん…」 瞬く間に日輪刀を腰へ差し、玄関の引き戸を開け去っていった姿に、一人取り残されたまま座り込む名前は小さく呟く。 「…な、んだったの…?」 呟きながらも、顔が紅潮していくのを感じた。 Collision 触れられた場所が、まだ熱い [mokuji] [しおりを挟む] [back] ×
|