雲路の果て | ナノ 11



ある日突然、鱗滝先生が連れてきたその子は、とても不安そうにその背中に隠れながら、俺と錆兎を見つめていた。

「…すぐに戻る」

それだけ言い残すと、俺達に任せるように家を出て行って、気まずいような何とも言えない空気に、彼女は隅っこで膝を抱えて小さくなっていた。

何て、声を掛けたらいいか頭を悩ませる俺に、錆兎はおもむろに立ち上がり台所へ向かったかと思うと、今しがた皿に置いた握り飯を二つ、差し出す。

「お前腹減ってんだろ。食えよ」

それはお世辞にも綺麗とは言えない出来で、彼女は錆兎と握り飯を交互に見ると、ポロポロと涙を流し始めた。
ギョッとしたのは錆兎も同じだったらしい。
「な、なんだよ!まずそうだからって泣く事ないだろ!?」
「それ自分で言ってむなしくないか?錆兎」
「これでもうまくいった方なんだよ!義勇だって俺と同じで下手くそだろ!?」
「そりゃそうだけど…」

「……と…ぅ」

か細く小さな声。
動きを止めた俺達に、彼女は泣きじゃくりながらも「ありがとう」と何度も言いながら、錆兎渾身の握り飯をゆっくり、本当にとてもゆっくり食べ始めた。

此処に来るまで、何も喉を通らなかったのであろう事はそれですぐわかって、上手く飲み込めず喉を詰まらせそうになっている姿に、俺は慌てて水を用意した。




雲路の


鱗滝左近次は育手であるが、当初名前を剣士にするつもりはなかった。
絶望に打ちひしがれている姿をどうにも放っておく事が出来ず、一定期間狭霧山で育て、落ち着いた頃、里親を探すつもりでいた。
同じ境遇、そして歳が近い錆兎、義勇に関わらせる事で、心に負った傷も治りが早いんじゃないかという目論見もあった。

そして、その目論見通り、名前は錆兎、義勇に感化されるように徐々に元気を取り戻していく。
しかし相変わらず
「鱗滝さん!鱗滝さん!」
修行の時間以外はまるで鳥の雛のように後ろをついていくのは暫く変わらず、この子は、そういう子なのだと思うようになる。
良く泣いて、良く笑う子だった。
優しくて気立てもいい、だけど、自分の考えや要求を伝えるのはとても苦手だった。
これは恐らく、両親を殺された影響で出来た心の歪みなのだろうと、鱗滝は考えた。
それでも、名前が困っていると、必ず錆兎か義勇、はたまた両方が誘導する事で上手く中和が取れていた。

若干世間知らずだった名前が手伝いたいと言った事は手を貸し、知りたいと思った事は教え続けた。
此処を出ても、生きていくのに必要な事は全て、伝えたつもりだった。
そしていつも
「お前は限界まで自分で何とかしようとする癖が強すぎる。いいか。人間が一人で成しえる事はそれほど多くはない。まず、言葉にするんだ」
と、教え続けた。

その鱗滝の教育は、違う形で発揮される事となる。

「私も修行に参加させてください!」

その言葉が、きっかけだった。
最初こそ、鱗滝の傍から離れようとしなかったか弱いその姿も、鍛錬を続ける錆兎、義勇の背中に呼応するようにメキメキと頭角を伸ばした。
基礎体力は二人に当然劣るが、俊敏さと直感的な察知能力は目を見張るものがある。

元々の才覚があった訳ではない。
ただ名前が錆兎と義勇についていきたいという一心で、死に物狂いで努力した結果だった。

その姿にいつの日か、名前を錆兎、義勇と同じように剣士として育てる事を決意する。


しかしそれも、最終選別直前、鱗滝が危惧し続けていた事が現実となった。

食い散らかされた食糧と崖下で浅い呼吸を繰り返す名前を見た時、酷く後悔した。
何があったか、容易に想像が出来てしまうほど、残された優しさと迷いの匂い。


名前は、感受性が強かった。
他人の痛みをまるで自分のものかの様に受け止めてしまう。
それは、確かに優しさだ。純粋に、真っすぐな。
そこで自己と他人との区別を上手くつけられればまだいい。
しかし、彼女にはそれが難しかった。
更に察知能力が高さ故に、自分を押し殺してしまう癖も相まっている。

言うなれば、根本的な精神が弱いのだ。

それも錆兎、義勇の男所帯に揉まれ、強くなったと思っていたが…


「…今回の最終選別、名前は棄権とする」

傷だらけで眠り続ける姿に、誰も異議は唱えなかった。
それどころか
「…今回、じゃなく、もうこいつに最終選別を受けさせるのやめた方がいいと思います」
錆兎は冷たくそう言った。
「錆兎!」
「わしも、そう考えている」
「…鱗滝さんまで!今回はダメでも次回は…!それに名前は俺達と一緒に最終選別を…!」
「…義勇」
低く落ち着いた声に無意識に背すじを伸ばした。
「だからこそ、今止めるべきなのだ」
天狗の面が名前へと向けられる。
「これが藤の花の山で起こっていたなら、確実に名前は死んでいた。もしも…」
一旦言葉を止めて、続けた。
「もしも、そこに自分の状況と酷似した鬼が現れようが、斬らなくてならない。命に次回などはないのだ」

ビリッと張り詰めた空気に、錆兎の様子を窺えば、寂しそうに目を伏せたまま。

わかってはいた。
義勇にも、痛いほどにわかっていた。

皆、同じ気持ちなのだと。
名前を、死なせたくないのだと。
何も言い返せずうなだれる義勇に、鱗滝は優しく肩を叩くだけだった。


 * * *


最終選別当日になっても目を覚まさないままの名前を、錆兎が様子を見に行った後、入れ替わるように部屋へ入ると、その傍らに座った。
右側頭部には鱗滝特性の厄除の面。

「…行ってくる」

短く告げた言葉に、その口唇が僅かに動く。
目が覚めたのかと期待したが、瞳は閉じられたままで気のせいだと判断して立ち上がろうとした瞬間
「…さ、びと…」
確実に、名を呼ぶ声を聞いた。

「…大丈夫だ。錆兎は必ず帰ってくる」

それだけ答えると、立ち上がる。
チクリと痛んだ自分の胸を、この時義勇は気付かなかった。
そして、名前のうわ言には続きがあった事も。
パシッと閉められた襖の音で遮られたため、本人には届かなかったが、確かに名前はその名を呼んでいた。

「…ぎゆ、う」


Mutter
もし、それが聴こえていたのなら

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