今日読み終わった文庫本を本棚に仕舞っていると、ある本に目がいく。
その本を手に取ると、自然に頬が緩んだ。
タイトルは「星の王子さま」。
可愛らしい子どものらくがきのような王子さまが表紙。
指先で表紙をなぞるとざらざらとした感触がする。
少し黄ばんだ白色の紙に時間の流れを感じた。
ぺらぺら捲れば、小学生の頃に読んでいた所為か漢字にふりがながふってあることに気付き、小さく笑う。
ふと本から何かが落ちる。
足元に落ちたそれを屈んで、拾えばある思い出が脳内に蘇った。
*
「…見つけたっ!」
小学五年生。
彼女とはクラスが離れ委員会だけが一緒だった。
肩を上下に動かしながら、荒い息の彼女が静かな図書室に足を踏み入れる。
カウンターに座る僕に向かってくる彼女の手にはある書店の袋が下げられていた。
「苗字さん図書室では静か」
「どうせ誰も居ないじゃん。」
カウンターに入ると適当に椅子を僕の横に寄せて座った。
「そういう問題ではありません。」
「まあまあ、今日お堅いお話はなしにしましょうよ。」
「…また何かドラマでも見たんですか。」
「えへへ。」
大人しい分類に入る彼女だが、人並みにノリは良いのだ。
ただし、誰の前でもいつでもそんな自分が出せるかは別だとして。
「テツヤくん本当にやっと見つけたよ。」
「何か僕に用でもあったんですか?」
「あったんですよー。」
今日の彼女は機嫌が良いみたいだ。
ふんわりというより、ふわふわした笑みが花と言っても綿花を散らすような笑みで僕を見つめる。
「それは良かったですね。」
「うん良かったー…テツヤくん、あのね」
「僕の誕生日をそこまで喜んでもらえると嬉しいです。」
「…テツヤくんタイミング…」
笑ったまま固まって、しだに彼女の眉を八の字ように下がる。
その顔に思わず小さく噴き出す。
「ふふ、すみません。わざとです。」
「…最近テツヤくん意地悪な気がする。」
不満を表している尖っている唇。
指でつつくと、ふにふにと柔らかい。
「んーんー。」
「で、誕生日プレゼントは何ですか?」
そう聞けば、尖っている唇が一気に弧を描く。
よくぞ、聞いてくれました!とわくわくとした様子に僕もわくわくした気持ちになる。
「テツヤくん誕生日おめでとうございます。」
「ありがとうございます。」
まずはご挨拶と毎年のように、お互いにお辞儀をする僕たち。
そして、彼女が袋の中から取り出したものは本だった。
白をベースした紙に描かれた素朴で小さならくがきのような少年が最初lに目に入った。
タイトルに目を向ければ、「星の王子さま」と書いてあった。
図書室にある本で借りたことあるので、内容は知っている。
でも、この本自体は持っていない。
「読んだことあるのは知ってたんだけど…この表紙素敵だなって思って…
あの、星の王子さまって手元にあった方が良い本だと思うの。
特にテツヤくんは。…何か、分かんないけど、この本見たときテツヤくんに届けたいって気持ちになって、うん、いらないかもしんないけど。」
ふわふわした空気が消えて、自信なさげな笑みを浮かべた彼女の頭を撫でる。
「…テツヤくん。」
彼女に向かって微笑めば、彼女もへにゃと力が抜けたように笑う。
「ありがとうございます。…星の王子さまって、ふとタイトルを見ると懐かしい気持ちになる気がしませんか?」
「…何かさ、昔遊んでたおもちゃを見つけたみたいになる。」
「ああ、そんな感じですね。」
僕たちは子ども。どうみても子ども。
でも、今以上に子どもだった時期があった訳で、今よりも世界を知らなかった。
知らない故に抱ける気持ち。
純粋で無邪気な夢、幻想、発想。
素直に感じれる心。
けど、背が伸びるに連れて、年齢が上がっていくに連れて、出来ることと出来ないことが増えていくことを感じる。
今までと見方が変わって嬉しいことがあれば、悲しいことも寂しいこともある。
子どもの癖に、もっと子どもだった頃に帰りたくなるときがある。
もっと子どもだった頃の気持ちを思い出したくなる。
そんなときに、星の王子さまは教えてくれる、思い出させてくれるのだ。
そして、確認させてくれる。
僕の生きる世界における人と人の繋がりを、見ることはできないものを綺麗な言葉で表現して
僕の心に感じさせてくれる。
作者の伝えたいことは違うかもしれない。
でも、僕はそう感じて考えるのだ。
本はそういうところが面白い。
作者の意図を読み取るのも面白いものだと思うけど、その言葉を読んで自分の、他人とは違う自分だけの感じ方、考え方を見つけることが出来る。
僕は本のそういうところが面白くて好きだ。
「きっとね、その本は役に立つと思う。」
彼女は窓の外に視線を移す。
冷たい風に吹かれた葉っぱがない枝たちが揺れる。
「…思い出させてくれるから、その本は。読んだ人にとって、大切できらきらした宝物みたいな気持ちをね、思い出させてくれるの。
苦しくて嫌な思いをしたとか、気付かずに忘れちゃって……時々、その本を読んだら思い出せるの。何度でも何度でも。
大切なものは、目に見えない…その言葉は本当だと思う。
目に見えないから、見失って落としてなくしちゃって…でも、感じることはできるとは思うの。
だから、人は大切なものを見つけることが出来るんだよ。」
言葉を続ける彼女の横顔はどこか大人びて見えた。
「…これから僕たちは忘れるんでしょうか。」
「うん、きっと忘れないにようにしても忘れちゃう。」
「忘れたくなくても、忘れちゃうのは嫌ですね。」
「でも、そのためにその本があるんだよ。」
その表紙を撫でる指先は宝箱にでも触れるかのように、優しい手つきだった。
「…苗字さんは僕たちの未来を言っているように聞こえました。」
「え?」
「忘れちゃう未来を。」
「…うん、だって、忘れる気がするもの。」
彼女は目を閉じて、開く。
「…何か、あったんですね。」
「うん。」
彼女は悲しそうに笑って、話し始めた。
私ね、小さい頃からこれだ!って好きなモノがないの。
これがないと生きていけない、これは私の一部なんだみたいなものがね、ないの。
けど、綾にはあるの。綾はピアノが好きで大好きでたまらないんだって。
好きだから上手に弾けるようになりたくて、たくさんたくさん練習してるの。
でも、最近上手くならないって泣いてるの。
ピアノ弾くの辛いって。好きで上手に弾けるようになりたいのに、なれないから辛いって。
好きだから辛い。好きなのに苦しい。…こんな気持ちじゃ、ピアノ続けれないって。
辛くて苦しいままピアノ続けてたら、ピアノを弾きたくなくなって、ピアノ自体嫌いになりそうだって、また泣くの。
でね、綾は一番嫌なのは上手に弾けないことよりも、ピアノを嫌いになることなんだって。
好きなのもを嫌いになるのはすごく辛いって綾は泣きながら言ったの。
私正直よく分からなかった。
そこまで好きなモノがないから、何かを好きになったことがないから。
だから泣いてる綾にも何も言葉掛けられなかった。
「…星の王子さまって、少しだけ似てると思ったの。
子どもだった頃の気持ちを忘れること。最初は楽しいから好きで始めた頃の気持ちを忘れること。
…そこが似てると思った。」
綾が本当に辛そうだったから。
もし、いつかテツヤくんにもそんな気持ちになることがあったら、その本を読んで…ううん、ちょっと表紙を見るくらいでいい。
その辛くて苦しい気持ちをどうにか出来る訳じゃないってのは分かってる。
いわゆる、気休めって奴なんだけど。
彼女は中途半端に話を終わらせて、つぶやく。
「…テツヤくんとは中学離れちゃうからさ。また会えるとは限らないし。」
僕は中学受験することに決めた。
たまたまテレビで見たバスケの試合。
そのたまたまがきっかけ僕はバスケを始めようと思った。
やるなら、徹底的にやりたい。
そう思った僕は帝光に行くことを決めた。
彼女は知らない。
僕の中学受験のことを。
なのに、どうして…離れるって分かるんだろう。
「ふふ、…女のカンだよ。テツヤくん。」
珍しくいたずらっ子みたいな顔をして、僕の頬をつつく。
「…会えますよ。絶対。」
「だといいなー。」
窓の外ではひゅるりひゅるりと冷たい風に、二枚の落ち葉が別の方向へ風吹かれて舞っていた。
*
「先生、これノート持ってきました。」
「おお、御苦労。」
職員室まで日直の仕事でノートを運んでいた。
「先生汚いね。」
「その言い方だと先生が汚いないみだいろう。
汚いのは机の上だ。」
「汚いのに変わりはないですもん。」
生意気な口調でも先生は怒ったりはしない。
そして、ある資料が目に入る。
「中学受験?」
「あ、そうそう。俺のクラスに何人か受験する子が居るんだ。
その子たちのために、ちょっとな。」
「…中学って受験しなくても行けるところだよね?」
「まあな。でも、いろんな理由で受験する子が居るんだよ。」
「いろんな理由?」
「ああ、例えばそうだな…レベルが高い勉強がしたいとか、ここの部活で全国目指したいとか。
いろいろあるんだ。」
「ふぅーん。」
「そう言えば、苗字は受験しないのか?」
「ええーしないよー。めんどうだもん。」
「ははは、苗字はそういう奴だよな。
あ、でも黒子は受験するぞ?」
「えっ、テツヤくんが?」
図書室の管理担当の先生はテツヤくんと私の仲の良さを知っている。
「ああ、…あれ、希望する中学忘れたけど、確か黒子も受験するって言ってたな。
だから、最近塾行き始めたらしいぞ?」
「へえー。テツヤくんが…。」
*
テツヤくんが中学受験。
私は受験しない。
…簡単に考えて、私とテツヤくんは同じ中学に行けないのか。
お互いの家を行ったり来たりする訳でもない。
年賀状を送る訳でもない。
ただ学校だけの付き合い。
普通の男の子より仲がいい同じ委員会で、何回か同じクラスになったことがある男の子。
それだけの、関係だ。
理由は分からないけど、私は何故かそのことが無償に嫌だった。
そんなとき、綾のいつもとは違う愚痴を聞いた。
愚痴と言うのは変かも知れないけど。
…テツヤくんは何のために受験するんだろう。
勉強がしたいから?
それとも、別にやりたいことあるから?
先生に言葉が頭を駆け巡る。
テツヤくんやりたことのために、受験するのかな。
…そう思ったときに、はっとした。
やりたいことをやって、綾みたいになったらどうしよう。
何も言葉が掛けれない、私には全然分からない、綾が泣きながら吐きだした、あの辛くて苦しい気持ちに。
そう考えたら、居てもたってもいられなくなった。
勝手に財布をもって本屋さんへ向かって、ある本を買っていた。
今までも読んだ中で一番思い入れがある本。
読んで全部理解していないのに、思い入れだけが強い。
この本は大事だって、本能が告げるかのように、私はそう思う気持ちを疑わなかった。
テツヤくんと中学が別で、きっと高校も別。
同じ近所とは言え、生活スタイルが違えば会う確立は低いだろう。
もう会えなくなるかもしれないんだ。
ぽろり、と花を切る手に涙が落ちた。
*
僕の誕生花はチューリップの赤。
チューリップの赤い花びらが一枚だけの手作りの栞。
小学生の頃、この本と共に彼女がくれたのものだ。
「…ふわあ、懐かしいね。」
その栞を手にとって見つめる彼女の横顔は女性らしい曲線を描いていた。
「ふふ、でしょう。」
彼女の白い頬にキスをして、彼女の肩を抱いて距離を縮める。
「てっテツヤくんっ!」
人から触れられることに弱い彼女はすぐ顔を赤くして、いつもの何か言いたげなじと目をしてくる。
僕もいつものようにスルーして、口角を上げる。
「もうーその笑い方ちょっとむかつくぞー。」
「名前ちゃんが可愛い所為ですよ。」
じゃれ合うように僕の頬を引っ張る彼女。
僕も負けじと彼女の頬を軽く引っ張る。
バランスを崩して二人ともベットに倒れこむ。
「…大きい音立てちゃった。明日謝らなきゃ…!」
顔を青くする彼女にふっと噴き出す。
「大丈夫ですよ。この時間は二人ともテレビ見てますから。」
十六回目の誕生日。
僕はたんさくんの人に祝ってもらった。
中学時代のチームメイト、今のチームメイト、とお父さんお母さん。
そして、僕の恋人の彼女だ。
平日だった所為で部活が終わった後に、火神くんと先輩たちがお祝いしてくれた。
彼女にも良かったら来ませんか?と誘ったけれども、彼女は私は部外者だからいいと遠慮した。
でも、どうしても一緒に今日を過ごしたかったので、彼女に泊まりに来てもらった。
都合のいいことに、僕たちはお互いの親の公認の仲。
以前、僕が彼女のお家へ泊まったことも話しても、特に何か言われることはなかった。
ご飯を食べて、お風呂に入って、明日の準備もそこそこしたところで、やっと二人の時間をとることが出来た。
「テツヤくんちょっと…」
「何ですか?」
彼女を見上げながら問いかければ、くすぐったいと身をよじる。
彼女の胸に顔を埋めることが結構好きだ。
柔らかいし、良い匂いがする。
首筋も好き。彼女の髪の香りと彼女の肌の香りが混じった匂いがするから。
彼女は相変わらず顔を赤くしたまま、身体を動かす。
…その動きを見ていたら、イケナイ気持ちになってきて身体を離した。
不思議そうに見上げる目をぼくの手で覆って、見慣れた天井を仰ぎ見る。
「テツヤくん?」
「…少しじっとしてて下さい。」
(…僕も名前も大人に近づいてきてる……・僕は名前を守れる男になりたい。
とりあえず、今日はどうやって寝ようか。)
prev back next