体育館に集められて、学年主任がうんたらかんたら色々と話している。
私はポケットから英単語帳を取り出して、昨日覚えたところをテストをする。
(あ…桜)
今日は穏やかな陽気だが、ゆるやかな風が吹いている。
その風に乗って来たのか私の英語単帳の上に桜の花びらが一枚あった。
体育館の窓は開けっ放しだった。
ああ、高校生活三年目が始まろうとしている。
「仁亮さん」
「うん?」
「進路決まんない。やばい、どうしよう」
英語準備室でぐでんと机に身体を倒す私に、仁亮さんは首を傾げる。
「行きたいところに行けばいい。行けないレベルならギリギリまで頑張るか、レベルを下げるかだな。
名前は基本的に理数系科目以外バランス良くできてるじゃないか。特に英語ができてるな」
前回の模試の評価を見ながら、特に難しい顔もせず頑張ったなって言って頭を撫でる。
「そりゃあ、頑張るよ!仁亮さんが教えてくれてるもん!」
「ふふ、ありがとう」
仁亮さんは珍しく嬉しそうに頬を緩めて、また私の髪を撫でた。
「仁亮さんが笑ってる…」
「生徒にそう言われるのに悪い気はしないからな」
私はその言葉に引っ掛かりを覚えながら、最近ずっともやもや悩んでいた本題について話す。
「…勉強は別にいいんだけどさ、どういう方向に進めばいいのか分かんないの」
唇を尖らせて不満を表すと仁亮さんは笑う。
小さい子どもみたいだぞ、って言って優しい目をして笑う。
(…そんな目で見ないで。私子どもじゃないよ)
「なるほど…名前の得意なものや好きなものから連想してみたら、どうだ?」
「え?」
「というか、名前は夢はないのか」
「夢?」
「ああ、将来なりたいものとか、な」
仁亮さんはノートパソコンを開いて英語の問題を作り始めた。
それを覗き込もうとしたら、ぺちって軽く額を叩かれた。
「こら。いつも覗こうとするな」
呆れ顔の仁亮さん。
「ごめんなさい。つい気になっちゃって、へへ」
「ったく」
えへへ。仁亮さんに触られた。
仁亮さんに触ってほしくて私はいつも覗き込む癖がついていた。
「あ、でね、私のなりたいものはね」
「あるのか?」
「うん」
「じゃあ、それに向かって進めばいいんじゃないか」
カチカチ、仁亮さんはリズムよくキーボードを打って順調に小テストを作っていく。
「仁亮さんのお嫁さんになることが私の夢だよ」
「…」
キーボードを打つ音も、打つ指も止まる。
そして、仁亮さんが首を動かして私を見下ろす。
「名前」
「好きとは言ってないよ。ただ私はお嫁さんになりたいだけだもん」
頬を膨らまして主張すると、仁亮さんははあ、とため息をついた。
「…そうか」
「それだけ…?俺の嫁に条件はなーとかないの?」
仁亮さんの顔を覗き込むと、どきなさい、とまた額を叩かれた。
「…はあ、…少なくとも未成年を嫁にするわけにはいかないな」
「じゃあ、二十歳になったらいいってこと?」
目を輝かせる私に仁亮さんはまた呆れ顔。
「お前も挫けん奴だな…」
「えへへ、ね、やっぱりお嫁さんにするなら、家事は出来た方がいい?」
「う、ん。うーん、まあ、そうだな。出来ないよりは出来た方がいいな」
「なるほどなるほど。洗濯、掃除、料理、この中で一番仁亮さん的に大切なものは?」
「…料理かな」
ほうほう、料理が大切…
脳内メモ帳に自動的に刻まれていく。
(仁亮さん情報ゲット!)
私は緩む頬を隠しもせず、どうして?と首を傾げていた。
「…家に帰って温かいご飯があるという、結婚生活には憧れていたなって思ってな。
それに、この歳になると健康のこともあるし、なるべく外食は避けたいんだよ」
「なるほどなるほど…うーん…うん!決めた!」
急に立ち上がった私に仁亮さんは眉を顰める。
騒がしくてごめんなさい。
でもね、仁亮さん今私大事な進路を見つけたところなの!
「で、何を決めたんだ」
「進路!」
「ほう…どんな?」
「私栄養士の資格とる!」
「…理由は?」
「将来仁亮さんの嫁として毎日健康に良いものを食べさせてあげるため!」
「却下」
「なんでっ」
「理由が不純過ぎるだろ」
「そんなことないよ。純粋な恋心だし、それに私が料理そこそこできるの仁亮さん知ってるでしょ?」
仁亮さんに問いかければ、眉間に皺を寄せたままだけど頷いてくれた。
「確かに。お前の差し入れは美味いけどな」
「よし、進路決まった!私さっそく進路室行って資料見てくる!」
(…栄養士…確かそっち方面は理系科目が関係してくるだった気が…)
私は仁亮さんの思いも知らずに、そのまま宣言した通りその進路に進み他の子より多少苦労したが、
何とか一発で資格をとることが出来た。
*
「ふふ」
夕食後のお茶を飲んでいると、彼女は食器を片づけながら急に笑い出した。
その様子に俺は首を傾げる。
「…どうした?」
「いえ、…今日お買いもの行ってたら女子高生が進路の話をしていたんです」
彼女は蛇口をひねって食器を水に浸す。
食器がカチャカチャ音を立てて、ジャーと水が出る音もする。
(ああ、この音いいな…安心する)
心地良い音に目を瞑ってみる。
彼女は俺の様子に気づかず楽しそうに話を続ける。
「将来やりたいことが分からないとか受験生っていう期間に居るだけでも疲れるとか、
色んなことを話してて私も色々と悩んだなぁーって、高三の頃の気持ち思い出しちゃいました」
目を開けると、皿をスポンジで洗っていた。
あの頃より伸びた髪をサイドに結んで、シンプルな水色のエプロンをして、当たり前のように
台所に立って皿洗う姿に心臓が縮こまった。
(…参ったな。そんなつもりじゃなかったのに…)
「仁亮さん?」
「うん?」
「うん?じゃなくて、どうしたんですか」
彼女を後ろから抱きしめて、肩に顔を乗せると彼女はくすっぐたいと肩をすくめる。
ウエストが細い彼女はいつもエプロンのひもを前で結んでいる。
綺麗にリボンを結びされたひもを弄りながら、俺は彼女の手元を見つめる。
小さくて細い手が泡だらけになって皿を洗っていく日常動作を、一つも見落とさないように。
「ちょっとね…」
「ふふ、甘えたさんですね」
「そうかもしれないね」
「ねえ、仁亮さん」
「うん?」
「今日の夕食どうでした?」
「美味しかったよ。…名前」
「はい」
「いつも美味しいご飯をありがとう」
「えっ」
驚いて振り向く彼女に不意打ちのキスをした。
目を見開いてこちらを見つめる顔は何度見てもおもしろ…可愛らしい。
「…きょ、今日の仁亮さんへん」
「そうだね。俺もそう思う」
顔だけ俺の首筋に埋めて照れ隠しする彼女の頭を撫でて、俺は何度も実感することまた思った。
(名前と結婚してよかった…)
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