部室から向う途中で、ふんわり。と何かが香る。
「あれ?高尾何かいい匂いするな。」
「あ、昨日妹ちゃんのシャンプー使ったんすよ。」
センター分けされた黒い髪からは、女の子の様な甘い匂いがした。
それに気付いた先輩の木村だった。
「へぇー、女の子ってこんな匂いすんのか。」
くんくん。興味深そうに匂いを嗅ぐ宮地に、高尾は頬に両手を当ててわざとらしい高い声を出した。
「きゃっ!宮地先輩恥ずかしいです〜っ!」
「きもい。」
高尾の横に居たは緑間はぴしゃっ!と冷たく言いのける。
「真ちゃんひどっ!」
ハハハ!
高尾はいつものように笑い飛ばす。
そんな風に部員がじゃれ合っている所に、監督が通り過ぎた。
「監督。おはようござ…います?」
「ん?おはよう。」
一番後ろに居た大坪が挨拶をするが、ある異変に気付き、変な言い方になってしまった。
監督は不思議そうな顔をしたが、特に気にしもせず、そのまま体育館へ先に向った。
「…今、監督からフローラルな香りしなかったかっ!?」
木村の言葉に、彼らは大きく頷いた。
異変というのは、監督から香った匂いだった。
*
「名前。」
「はい、何ですか?」
彼女はアイロンをかけていた手を止めて、こちらを見上げた。
「シャンプー切れてたから、名前の使わせてもらったぞ。」
「代えなかったですか?」
「ああ。」
「すみません。明日買ってきますね。」
「頼むよ。」
ソファに腰を掛けて、濡れた髪を首にかけてあるタオルで拭く。
「チャンネル変えましょうか?」
「うん…いや、このままでいい。」
「…仁亮さん。」
「どうした?」
にこにこ。
急に頬を緩めて、横に座る彼女に俺は首を傾げる。
「えへへ、仁亮さん私と一緒に匂いしますね。」
「…同じシャンプーを使ったからな。」
「すごく幸せです。」
幸せを噛みしめるように、彼女はそう言った。
俺はよく分からず、また首を傾げた。
「ふふ、だって…。今でも、時々夢じゃないかって思うんです。
おはよう、名前。行ってくる。ただいま。いただきます。ごちそうさま。おやすみ。…そう言われる度に、結婚したんだなぁって。
正直ずっと不安だったから、あの頃は。」
「…そうか。」
彼女の頭を抱き寄せる。
彼女の髪から俺と同じ匂いがした。
確かにこれはいいかもしれんと思っていると、俺の膝に身体を乗り出すように、俺の胸に頬を寄せる。
「同じ匂い、同じお家。…幸せです。」
「俺も幸せだよ。最後にこんな恋が出来て。」
恥ずかしいこと言った。
彼女が顔を上げさせないために、胸に押し付ける。
「ふふ、痛いです。仁亮さん。」
「痛くしてるんだ。」
「DVですよ、DV。」
全然言葉に似合わない、弾んだ声の音色。
「私仁亮さんの帰る場所になれて、嬉しいです。本当に。」
彼女の腕が背中に回る。
「…なのに、…嘘じゃないです。」
声の音色が急に下がり、俺は彼女を見下ろす。
彼女は涙を流し、顔を歪ませていた。
「何か、あったのか。」
「…私は幸せなのに、貪欲なんです。こないだ思い出話をしてくれたじゃないですか。」
「ああ、したな。」
部屋の掃除していた時に出て来た、懐かしいアルバム。
そのアルバムを片手に、当時の俺について話して聞かせた。
その時は、こんな顔をして居なかった。
「…バスケの話、仲間の話、面白かったです。聞けて良かったと思いました。
でも、当時の恋人の写真もありました。」
「…あったな。そんなものも。」
意図的に見せた訳ではない。
思い出として、その写真はアルバムに収まっていたのだ。
完全に俺にとって、それは過去のもので、やましいものではなかったので、そのまま流れで恋人だった。と話した。
俺は彼女より、長く生きている分、経験していることが多い。恋だって例外じゃない。
「ごめんなさい。…馬鹿みたいに、過去に嫉妬しちゃうんです。
高校生の頃から変わってない。……仁亮さん、ぎゅってしてください。叱って下さい。愛して下さい。
過去なんて、気にしなくなるくらい、仁亮さんでいっぱいにして、忘れさせてください。」
悔しいです。私はいつになったら、大人になれるんですか。
彼女の苦痛が、その一言に詰められていた。
「謝る必要ない。…困ることには変らないけど。」
「…分かってるよ。でも、仁亮さんしか忘れさせてくれないの。出来ないの。」
パジャマが冷たい。
すんすん。彼女が匂いを嗅ぐ音が、テレビの音に紛れる。
「本当に困る。こんなに可愛らしいことされて、どうすればいいのか。
俺は分からない。」
「え…?」
きょとん。と見上げる彼女にキスを落とす。
彼女は俺の口から恥ずかしいセリフを言わせるのが上手だ。
彼女は本当に一途だ。
もうお互い大人の癖にこんなにも恥ずかしいこと言い合って、胸を高鳴らせて…。
と呆れるフリをする自分も居るのが、嫌じゃない。
こうやって恋をする自分も嫌じゃない。
俺は何人かと恋をして、両思いになって来た。
でも、彼女は俺一人に恋をして、両思いになって、結婚をして、今でも恋をする女の子の様に俺に接してくる。
彼女にとっては俺とのこの恋が初めてで、彼女にとって過去の恋などない。
だから、彼女は過去の恋というものを知らないから、余計に嫉妬してしまうのかもしれない。
「…。」
彼女は顔を赤くして、目を逸らした。
「どうした。急に黙って。」
「え、いや、えっと、…嬉しいのと恥ずかしいのが混ざって、言葉が出ません。」
「…そうか。」
ぼそぼそと話す彼女の頭に手を置いて、俺も目を逸らす。
「何かどうでもよくなってきちゃった。」
「?」
「照れてる仁亮さんと仁亮さんの手の温度でどっか行ったよ。さっきまでの嫌な気持ち。」
彼女がにっと笑う。
その笑顔に懐かしい感覚がした。
その笑い方は…彼女が高校生時代によくしていた笑い方だ。
差し入れを持ってきたときに、美味しいと言うと得意げに笑うのだ。
「仁亮さん?」
「名前が思っている以上に、私たちだって思い出はある。それに…」
「それに?」
「…アイロン掛けしなくていいのか。明日のワイシャツがよれよれだと困るんだが。」
「あっ…!」
彼女は急いでソファから降りる。
「じゃあ、アイロン掛けし終わったら教えてくださいよ。」
「…覚えていたらね。」
それに、これから俺の人生残りは沙良だけものだよ。なんて、そんな恥ずかしいセリフ言えるわけがない。
でも、…鼻歌を歌いながら、アイロン掛けしている辺り彼女はだいたい予想ついているんだろう。
すっかり乾いた髪から、彼女の匂いが香った。
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