最愛



▽注意
滅茶苦茶n番煎じ

: : :

「監督生さん、お使いを頼まれてくれませんか」

 丁度、監督生がオンボロ寮の扉を開けたところだった。彼女が振り返ると、珍しく演技がかってない穏やかな雰囲気の学園長が彼女を見下ろしていた。彼女は簡単なものだといいなぁと思いながら、慣れた様子で頷く。彼女の了承に、学園長は「ありがとうございます」と目を細めて、一つのメモを彼女に渡す。

「ここの古本屋から本を引き取って来て欲しいんです。
 来週の月曜日までにお願いします。
 こちらがお代になります。
 ぴったりお金が入ってますので、ぴったりちゃんと払ってきて下さい」
「分かりました」

 学園長の含みのある言い方に、彼女は首を傾げながらも頷いた。明日明後日と学校も休みだし、ゆっくり町に遊びに行こうかな。そんなことを彼女が思っていると、学園長が去り際に一言呟いた。

「たまには気分転換も大切ですよ」
「え?」

 既に彼女が振り向いたときには、学園長は飛んで行った後だった。飛んで行った……?実際は消えた?と言うべきか、分からないけれど。



 翌日、監督生はさっそくお使いの為に、町に来ていた。元の世界のヨーロッパのような街並みには、まだ慣れなくて、彼女の目には全て新鮮にきらきらと映っていた。学園長から貰ったメモ用紙はただのメモ用紙はないらしく、まるで地図アプリのように、メモ用紙からコンパスが浮かび上がって、彼女の行く先を案内してくれる。案内されるままに着いた古本屋は、素朴な雰囲気で、どこか温かさを感じた。

 店主にメモ用紙を見せれば、すぐに頷いて本を三冊袋に入れて、彼女に手渡した。お代もきっちり払った。そこで、一つ困ったことが起きた。おつりが、多過ぎるのだ。思わず彼女は店主に本の値段を確認したが、店主は不思議そうに首を傾げるだけだった。ああ、そうか。そういうことか。彼女はやっと気付いた。学園長も粋なことをするものなぁ。お使いはメインではなく、あくまで建前らしい。学園長はこうやって、時々お使いに見せかけて、彼女にご褒美をくれる。

「気分転換させて貰いますか」

 彼女は大きく背伸びをして、軽い足取りで町を歩き始めた。


「……なぜ」

 彼女は町でお花屋さんを覗いたり、ブティックや雑貨屋さんを見たり、元の世界に居たときのようにウインドショッピングを楽しんでいた。歩き疲れて、少し休憩しようと足を止めたときに、ふと目に入ったカフェの看板があった。彼女の足は自然にそこに向って歩いていく。オープンテラスからはよく町の中が見えそうだった。ああ、誰かと待ち合わせしたら、分かりやすくて良さそう。カフェの日替わりメニューの看板を見ていると、ウエイトレスに声をかけられる。

「あ!お客さんまた来てくれたんですね!」
「え」
「いつもありがとうございます!いつもの席空いてますよ、どうぞ」
「は、はい」

 彼女はありがとうございます、と頭を下げて、ウエイトレスに案内されるままに、一つの席に座ってしまった。ニコニコと好意的に進められると、断れない。NOと言える日本人になりたかったなぁ。今後は気を付けないと。でも、やっぱり、この席は町の中がよく見える。目の前を歩く家族連れや友達同士の楽しそうな雰囲気に、彼女は人知れず頬を緩めた。穏やかな時間だった。まるで、自分が異世界に来たことも忘れるくらいに。

 彼女は使い込まれた紙のメニューを見て、なんだか懐かしい気持ちになった。お洒落な外観のカフェだったが、そこそこ長く店を構えているのかもしれない。デザートセット、紅茶、コーヒー……一通りメニューを見たが、最初に指も目も止まった、メニューに戻ってきてしまった。紅茶と、本日のおすすめデザートセット。紅茶かぁ。彼女は元の世界でペットボトルや紙パックの紅茶を飲むことが多かった。でも、こちらの世界に来て、本格的な紅茶を飲むことが多くなって、市販の紅茶はとっても甘かったんだなぁと知った。

「どれにするか決まりました?」
「あ……えっと」
「ふふ、やっぱりその紅茶と、本日のおすすめなんですね」
「えへへ」
「そろそろ、いつものって言ってくれてもいいんですよ?」
「えっと、じゃあ、いつもの」
「はい、かしこまりました」

 ぼんやりとメニューを見つめていたら、お茶目なウエイトレスさんにからかわれてしまった。でも、全然嫌な感じがしなくて、むずむずと背中が痒かった。こんなお洒落なカフェで、いつもの、なんて大人みたい。そして、彼女はずっと感じている違和感に、目を伏せた。前の私は、このカフェに来た事があったんだ。最近ずっとこんな事が多い。たださえ知らない世界なのに、彼女は数少ない積み上げてきた時間を失ってしまったのだ。腫れ物を見るような視線や、自分は知らないのに、相手の方が自分のことを知っていたりする視線に囲まれて、彼女の心は少し疲れていた。そこでやっと、彼女はまた気付く。だから、学園長は気分転換をしろと言ったのか。はあ、元に戻らないかなぁ。



 彼女は紅茶を飲んで、ぼんやりと町の景色を見ていた。楽しそうに手を繋いで歩く人、足早に歩くスーツを着た人、色んな人が居た。みんな自分の時間を生きていた。私はどうなんだろう。ずっと胸にぽっかりと、穴が空いているような喪失感がここ一週間続いているのだ。間違い探しでもあるまいし、町の中見てても、分からないよね。ふと白いテーブルに、影が落ちる。周りの音は全然彼女の中に入ってこなかった。慌てて顔を上げると、にっこりと笑う他寮の先輩が居て、目を丸くした。

「じぇ、ジェイド先輩」
「こんにちは、監督生さん」
「こ、こんにちは」
「監督生さんを見かけたので、つい立ち寄ってしまいました。
 お隣よろしいでしょうか」
「は、はい、どうぞ」

 ど、どうして、ジェイド先輩がここに……?彼女は首を傾げながら、どうぞどうぞと両手で示す。ジェイド・リーチはありがとうございます、と笑って、無駄のない動作で椅子に座る。注文を聞きに来たウエイトレスに、彼女と同じものを、とジェイドが言えば、ウエイトレスは楽しそうに、「かしこまりました」と頭を下げて、戻っていく。

「今日はモストロ・ラウンジの買い出しで町に来てたんですが……、監督生さんが町にいるのが珍しくて」
「ああ、そうだったんですね!すごい偶然ですよね」

 まったりと笑う彼女に、「そうですね。本当にすごい偶然です」と読めない笑顔で相槌を打った。そして、ジェイドは前振れもなく口を開く。

「監督生さん、僕の恋人の話を聞いてくれませんか」
「え、唐突ですね」
「ふふ、アズールもフロイドも僕と恋バナしてくれないんです。つれないですよね」
「こい、ばな……ジェイド先輩の口から出てくるとは」
「僕だって男子高校生ですから……聞いてくれますか?」
「はい、私で良ければ」

 監督生は人のいい笑みを浮かべて、頷いた。ジェイドはありがとうございます、と微笑んで、話し始めた。

* * *

「ジェイドーアズールは?」
「寮長会議ですよ」
「あれ?そんな予定あったっけ?」
「なんでも緊急事態らしいです」

 モストロ・ラウンジの開店準備をしていたジェイドは、ギリギリ出勤のフロイドにいつものように、おやおやと笑っていた。また誰かが問題でも起こしたんだろうと、思っていた。むしろ、問題を起こさない生徒なんて、この学校にはいない。何か面白そうなことだったら、いいが。ジェイドは最後のグラスを拭き終えて、そろそろ開店の表示にしようかと扉へ向かおうとしたとき、騒がしい足音が聞こえてきた。カッカッと神経質な歩き方は、アズールに違いない。先に扉を開けようと腕を伸ばした瞬間、予想よりも早く扉が開いた。

「ジェイド!ジェイドはいますか!」
「はい、ここに。
 アズールどうしま」
「監督生さんが記憶喪失になったそうです」

 アズールはジェイドを見つけると、たださえ青い顔をさらに青くして、そう告げた。そのとき、ジェイドは場違いなことを思った。ああ、アズールは僕の恋人が記憶喪失になっても、そんな風に動揺して、悲しそうにしてくれるんですね。そんな優しさを、あなたが持っていたとは。なんて、言葉が思わず口から滑りそうだった。その日は、何の予定もない酷くつまらなくて、愛おしい一日になるはずだったのに。予告もなく、最悪な一週間の幕開けになってしまった。


「嫌がらせ、ですか……」
「ええ、放課後一人になった所で、無理やり魔法薬を飲まされたそうです」

 ジェイドはオンボロ寮の自室で、ぐったりと寝ている彼女の姿を見下ろして、眉を顰めた。一緒に見舞いに来たアズールは淡々と寮長会議で受けた報告をジェイドに説明をした。彼女の前髪をどけて、ジェイドは彼女の頭を撫でる。心なしか彼女の寝顔が柔らかい表情になった気がした。嫌がらせ……ね。僕の恋人だから?それとも、彼女の立場を単純に面白くないと思っている者の仕業か。イレギュラー過ぎる存在の、彼女は逆恨みされる理由もあり過ぎた。だからと言って、犯人は許すわけでもないし、これからの脅威なる要素も排除しなければ、ないだろう。

「本当ならば、ちょっと意識が朦朧とするくらいの効果がない魔法薬なんですが」
「監督生さんは魔力がないから、予想もしない効果が出たってことですか」
「はい、先ほど監督生さんが目を覚ましたときに、ここ三か月の記憶をなくしていました」
「……三か月」
「微力でも魔力があれば、自力で回復するらしいですが……、監督生さんの場合は絶対に無理だそうです」
「そうですか」
「でも、ちゃんと記憶は戻るようですよ。
 記憶を戻す魔法薬はクルーウェル先生が作ってくれるそうです。
 ただ材料が特殊の為、二週間ほどかかるそうです」
「二週間ですか」
「ジェイド……」

 言葉を繰り返すジェイドに、アズールはしっかりしろ、という意味を込めて、呼びかける。ジェイドは彼女からアズールに視線を戻すと、いつもの読めない笑顔を作って、首を横に振った。

「二週間で元に戻るなら、心配していません。ただ犯人の方の情報を教えてほしいです」
「もう既に処置は決まっています」
「アズール」
「……分かりました。これはただの、僕の独り言です」
「ありがとうございます」


 彼女が記憶喪失になってからも、ジェイドは不気味なほど、いつも通りだった。読めない笑みを浮かべて、モストロ・ラウンジで給仕として働いて、副寮長としての仕事をこなして、彼女と出会う前の生活に戻っただけだった。周りから心配されても、同情の目で見られても、ジェイドは「ご心配ありがとうございます」と涼しい笑顔で応えるか、「愛しい恋人に忘れられて傷心中なので、優しくしてください」とウソ泣きをするかの、どちらかだった。ジェイドがそんな様子なので、周りの腫物を見るような目はすぐに収まった。

* * *

 ジェイド・リーチと監督生は恋人同士だった。告白はジェイドからで、先に好きになったのは監督生からだった。監督生の気持ちはそこそこ鋭い者なら、気付くほど漏れていた。ジェイドにだけ向ける笑顔は一等甘く、目尻がほんのりと赤く染まるのだ。ただ気持ちを告げる気はないのだと、無欲ないじらしい片思いをしている監督生にジェイドはつまらないなと思った。恋愛という視点のみの、監督生に対する率直な感想だった。

 欲しいなら、手に入れる術を模索すればいい。準備が足りないならば、不足部分を埋めればいい。既に誰かのものならば、奪えばいい。もちろん、考えなしではなく、虎視眈々と計画的に確実ではないと意味はない。

 欲しがらない癖に、気持ちを募らせるだけの監督生。まるで、いい子ちゃん。それとも、傷付きたくない臆病者。そんな風に思っていたのに、無欲な監督生が自分を欲しがればいいと、欲しがって必死になって藻掻く姿が見たい。そんな自分自身の好奇心を、欲求を優先させていたら、ジェイドは監督生に告白していた。監督生は目玉が零れ落ちそうなほど、目を見開いて、ジェイドを凝視した。

 ジェイドが自分にちょっかいをかけるのは、自分の気持ちに気付いている上で、遊んでいるのだと思っていたから。監督生は強くはないれけど、決して鈍い訳ではなかった。ジェイドが自分のことを好きになる可能性はゼロに等しいし、ジェイドに好きになって貰えるイメージもつかなかったのだ。だから、ジェイドの告白は一瞬嘘かと思った。でも、頬を染めて、眉を寄せて、許しを請うように、「あなたが好きです」と繰り返す男に、彼女も頬を赤くして、眉を寄せてしまう。

 後に、ふたりが恋人になったことを知ったフロイドに、ジェイドは「ジェイドさ〜ミイラ取りミイラになってんじゃん、ウケる」と言われてしまった。


「……雑草根性がある方だなぁと思ったときですかね」
「それ恋人に言う言葉じゃないですよ。せめて、不屈の精神とかにして下さい」
「ふふ、それだとサバナクローになってしまいますよ。
 ……ああ、でもムキムキになったあなたはちょっと見てみたいです」

 ふたりはよくお茶会をした。ふたりだけの、お茶会。ジェイドが淹れた紅茶を彼女はゆっくりと味わって、ふたりでのんびりとお喋りをした。恋人になっても、ジェイドの嫌味やよく分からない言葉遊びは相変わらずだった。ただその合間に、小さじ一杯ほどの甘さが含まれるようになった。ジェイドはティーカップを置くと、にっこりと綺麗な笑みを浮かべた。彼女はティーカップに口をつけながら、心の中でため息をついた。

 ジェイド先輩……、次は何を企んでいるのやら。

「あなたこそ」
「?」
「僕のどんなところを見て、恋をしてくれたんですか?」
「……そう来ますか」
「ふふ、でもご自分も聞かれるだろうと思っていたでしょう」
「まあ、多少は」
「とっても興味深いんです。教えてください」

 ニコニコと楽しそうに笑うジェイドの笑顔を見て、彼女は可愛いなと思う自分は末期だなと諦めた。ジェイドのように、彼女がティーカップを置けば、ジェイドはさらに笑みを深めた。そんなに期待されても、困るんだけどな。彼女は気恥ずかしさから、横髪を耳にかける。

「こう、にやっと」
「にやっと?」
「ジェイド先輩って笑うときに、困り眉になって歯が見えるときあるじゃないですか」
「はあ」
「その顔が可愛いなって思って」
「……」

 彼女の頬がほんのりと赤く染まって、彼女は恥ずかしそうにジェイドから視線を逸らす。ティーカップを両手でもって、一口誤魔化すように彼女は紅茶に口を付けた。元の世界で、普段湯飲みを愛用していた彼女の癖だった。落ち着かないとティーカップも、両手でもってしまう。彼女の焦っているとき、照れているときの、癖だ。

 ジェイドは心臓を、心を、まーるい爪で柔く引っ掻くような、感覚が少し苦手だった。予定調和は嫌いだ。予想外だからこそ、楽しい。シンプルにそれだけ。でも、この自分ではコントロールが効かなくて、それでも止まらずに動いてしまう、向ってしまう心地が少しだけ気持ちが良かった。

「監督生さんを見ていると、心臓がざわめくんです」
「は?」
「監督生さんが目の前から居なくなっても、中々落ち着かなくて……」

 アズールは書類とPCの画面を見比べて、原価の計算をしていた。片思い時代のジェイドがそんなことをアズールに言ったら、すごく不気味なものを見る目で見られた。ジェイドの発言に対して、というより、今のタイミングで言うのか?と気持ちの方がアズールは強かった。そんなアズールの気持ちはジェイドには伝わらず、ジェイドは心外だと思った。ジェイドがお決まりのウソ泣きを披露する前に、ソファで暇つぶしにスマホを触っていたフロイドが、手で心臓を抑えるジェイドの肩を回して口を開く。楽しそうに、愉快そうに。

「ジェイドさーそれ小エビちゃんにドキドキしてるってこと?」
「どきどき?」
「そお。ジェイドは小エビちゃんにときめいっちゃてんの?」
 
 きょとん、として、オウム返しをするキョウダイに、フロイドは綺麗に目を弓なりに細める。

「……」
「あれー?ジェイド顔赤いけど?どうしたの?」

 アズールは早々に関心がなくなったのか、書類に視線を戻していた。ジェイドは顔を覗き込んできたフロイドの瞳を見つめる。フロイドの瞳の中には、恋をしている一人の男がいるだけだった。

「なるほど。つまり監督生さんは僕の顔が好きだと」
「ええ!なんで、そんな言い方するんですか!」

 ジェイドの可愛くない照れ隠しに、彼女は思い切り頬を膨らます。ジェイドはふふ、と笑いながら、ティーカップを包む小さな両手を、自分の両手で包んだ。彼女は大きな手の温もりに驚いて、顎を引きながら、ジェイドを見上げる。

「あなたが好きです」
「……私も、ジェイド先輩が好きです」

 彼女の言葉にジェイドは口付けで、応えた。無欲な彼女の、数少ない照れ隠しを見ると、ジェイドの口が、身体が勝手に動いてしまう。彼女の為に注ぐ、紅茶のように、愛情が零れてしまうのだ。ジェイドにとって、彼女の存在が日に日に大きくなっていく。特別に、日常になっていく。ジェイドにとって、彼女は初めての存在だった。予定調和が嫌いなジェイドにとって、初めて陸の上で大切な当たり前の存在になった。だから、ジェイドは二週間ずっと彼女に会いに行くことが出来なかった。唯一壊れて欲しくなかった当たり前が壊れてしまって、そんな光景を目の当たりにして、正気でいる自信がなかったし、怖かった。

 ジェイドはぐったりと眠る彼女を思い出して、考える。彼女が弱いことは、知っているつもりだった。でも、現実の彼女はジェイドが思っているよりも、ずっと弱かった。彼女は弱い存在だけど、誰かのように決して諦めない人間だった。周りから無理だと、無謀だと、言われても、思われても、いつも彼女は思わぬ形で乗り越えて見せた。そんな彼女が好きだった。自分には予想もつかないことを、ものを、見せてくれる彼女が好きだった、はずなのに。

 ジェイドにとって、彼女はもう失いたくない存在になってしまった。予想もつかないことをしてくれなくてもいい。ただ横にいるだけでいい。ただ僕を好きだと雄弁に語る目を、熱をもっているだけいい。それだけでいいから、戻って来て欲しい。自分でもらしくないことを思うようになったと、自嘲してしまう。二週間我慢すれば、元に戻る。理性では、分かっている。でも、心が追いつかなかった。一週間、自分の知らない彼女を見ているだけで、ジェイドは辛かった。まるで、心臓にナイフが深く刺さっているようだった。じくじく、と少しずつ痛みが大きくなって、それは確実にジェイドを追い詰めていった。

* * *

 土日はモストロ・ラウンジの稼ぎ時だ。なのに、ジェイドは町を歩いていた。「そんなしけた面でラウンジに立たれても、迷惑です。ジェイドは町に買い出しを行って来て下さい」と半ば強引に、アズールから追い出されてしまった。ジェイドとしては、少しでも身体を動かしていたかった。そうでもないと、何かをしていないと、彼女のことを考えてしまうから。ジェイドは時間を稼ぐように、町を練り歩いていた。アズールから頼まれた買い出しはすぐに終わってしまうものだった。

 ジェイドは舌打ちをしそうになった。普段は全然気にならない。恋人同士を見かける度に、心臓がまたじくじくを痛み出して、やけに左手に違和感をもって、落ち着かなかった。ジェイドは左手をポケットにねじ込んで、無理やり気を紛らわした。そして、アズールを恨んだ。やっぱり、モストロ・ラウンジで働いていた方がマシだった。勝手に足が向っていた。彼女と行きつけの、カフェに。何度も、ふたりで足を運んで、互いのことを知ろうと言葉を重ねた場所だ。

「待ち合わせ、ですか?」
「はい、デートっぽくないですか?
 ごめん、遅れちゃって、ううん、今来たところだよって言う、やり取りを」
「何ですか、その茶番は」
「茶番とか言わないでください。
 割とカップルの王道なんですからね」
「そういうものですか?」
「そういうものです!」
「ああ、では、おすすめの場所があります。見晴らしが良くて、NRCからの道のりが分かりやすいので―」

 ジェイドはふふ、と一人で笑ってしまう。本当に彼女はおかしな人だ。初めて待ち合わせをしたときに、ジェイドがわざと遅れて行けば、彼女は心細そうにカフェのテラス席に座って、道行く人をじーっと見ていた。そして、ジェイドを見つめると、安心したように笑ったのだ。

「じぇ、ジェイド先輩遅いです!」
「すみません、遅れてしまって」
「予想より待ちました!」
「あなたがしたいと言った待ち合わせ、でしょう?」
「私がごめん、遅れちゃっての方だと思ってました!」
「おやおや、それは失礼しました」

 なんて、やり取りをしたのに。結局、デートの待ち合わせで遅れてくるのはいつもジェイドだった。もちろん、わざとだ。ジェイドは好きだった。彼女がテラスの席に座って、自分を待っている姿を見るのがジェイドは好きだった。ああ、彼女は今自分の為だけに、あそこで待っているのだと。その事実がどうしようもないほど、嬉しかった。でも、今は違う。今、あの席で、僕を待つ彼女はいない。ジェイドはまた自嘲してカフェから、立ち去ろうとした。

 そのとき、ジェイドは目の前の光景を疑った。彼女が居るのだ。いつもの、あの席に座って、周りを見ている。何かを探すように。紅茶を飲みながら、あの席に座っている。もう何も考えていなかった。気付いたら、ジェイドの足はカフェに向っていた。あんなにも会うことが、怖かったはずなのに。

* * *

「恋人とホラー映画が見たい?」
「はい。僕の恋人は、ホラーが苦手でして」
「ええ、だったら無理じゃないですか?」
「でも、どうしても一緒に見たいんです」
「え、なぜ?」
「僕の楽しいと感じたものを、共有したいから……?ですかね?」
「わあ、意外と純粋な理由だった!
 てっきり、怯える恋人の姿を眺めて楽しみたいとか、と思いました」
「おやおや」
「うそ、うそですから、その笑顔引っ込めて下さい」

 ジェイドは普段と同じように笑いながら、内心はもどかしい気持ちでいっぱいだった。目の前にいる彼女は、間違いなくジェイドの好きな彼女のはずなのに。一緒に話しているときの、楽しさも、心地よさも一緒なのに。居心地の良さのあまりに、一瞬全て悪い夢だったと錯覚しそうなのに。やっぱり、違う。圧倒的に何かが欠けている感覚が、ジェイドの首を少しずつ締めていく。本当は彼女に告げてしまいたい。僕の恋人は、あなたですよって。忘れないで、思い出してって。ただの、先輩を見る目で、僕を見ないで。そんな心の叫びが、少しでも気が緩めば、零れてしまいそうだった。こんな近くにいるのに、今のジェイドには、彼女に触れる資格がない。

「監督生さんも、ホラー苦手なんですよね」
「そうですね、得意ではないです」
「はい、ですから苦手な方の理由が知りたいんです」
「え、苦手な理由を知ってどうするんですか」
「どれくらい苦手なのか、何が苦手なのかが分かれば、怖さも選べますし、工夫できるかもしれないと思いまして」
「わあ、本当に恋人とホラーが見たいんですね」
「ふふ、僕恋人と趣味を共有したいタイプだったのかもしれないと、最近気づいたんです」
「うーん、そうですねえ。
 急に音がしたり、グロイ映像が出てくるのはダメですね。
 それに怖い記憶ってすごく頭に残って眠れなくなったりするし、後お風呂で髪を洗っているときに視線を感じたりとか!
 ただ見ているときに、怖い!ってだけじゃなくて、尾を引くんですよね……」
「なるほど。
 ホラーが苦手な方は、そう言った理由があるんですね」
「まあ、あくまで私の場合なので……参考になるかどうか」
「すごく参考になりました。ありがとうございます」

 ジェイドはにっこりと笑って、内心はほくそ笑んでいた。予想外な形だが、彼女からホラーが苦手な理由を知ることが出来た。以前の彼女は、どうしてダメなんですか?と聞いても、苦手ですとしか応えなかった。どうして苦手なんですか?とジェイドが聞くと、ジェイド先輩に弱点を晒すと、いいことないので、黙秘です!と彼女は頑なに抵抗していたのだ。単純だが、お風呂は先に済まして、一緒に寝てしまえば、いけるだろうか。記憶が戻った彼女と、一緒にホラー映画を見る想像をすると、少しだけジェイドの気持ちが上を向いた気がした。そのとき、食器がぶつかる音がした。

「監督生さん……?」
「あ、ごめんなさい」
「いえ、どうかしましたか?」
「ん、えっと」

 彼女は言い辛そうに、ほんのりと頬を赤く染める。ジェイドは彼女を見つめて、大きく目を見開いた。彼女はティーカップを両手で包み込むようにもって、もごもごと唇を動かす。ざわざわ、と心臓が音を立てる。まさか、いや、そんなこと、ジェイドは首を横に振る。彼女はジェイドの様子には気付かないで、照れたように顎を引いて、ジェイドを見上げて、口を開いた。

「ジェイド先輩の、にやっとした顔が可愛くて」
「え……」
「つい、じっと見ちゃいました。ごめんなさい」

 彼女が眉を寄せて、ジェイドに謝った。彼女の目じりが赤くなって、ジェイドの見つめる視線はとても柔らかいものだった。一週間前までは、当たり前だった視線だ。ジェイドの心臓を、心を、柔らかく引っ掻いて、満たして、その熱は。彼女がジェイドにしか見せない、恋人に向けるものだった。

 ああ、彼女は記憶を失っても、また僕に恋をしてくれるのか。他人にふたりだけで、積み重ねた時間を取り上げられても、魔法薬なしでは戻らないと断言されても、あなたはもう一度僕のことを、好きになってくれるんですね。ジェイドは皮肉なものだ、と思った。もう予定調和でも構わないから、彼女が元に戻ることを望んでいたのに。ジェイドの気持ちも知らないで、当の本人が予定調和を壊してくるのだ。ああ、だから、僕はあなたのことを好きにならずに、いられないんです。でも、やっぱり危ない目には、もう二度と遭わないで欲しい。遭わせる気も毛頭ないが。

 ジェイドが音をたてて、椅子から立って、彼女の両手を自分の両手で包む。彼女は大きく目を見開いて、ジェイドを呆然と見上げる。

「あなたが好きです」
「……あ、じぇいど、せんぱい」

 ジェイドはいつも、そうだった。眉を寄せて、頬を染めて、苦しそうに、許しを請うように、彼女に気持ちを伝える。ジェイドの熱い眼差しに、彼女の目から涙が溢れる。

「あなたが好きです、好きで、好きでたまらないんです……
 だから、どうか早くあなたの目に僕を映して」

 ジェイドは祈るように、小さな手を包む両手に力を込めた。濡れている彼女の目が、じわじわと色付いていく。互いの瞳に、ただ恋をしている男と女が映って、彼女が震える唇を開く。

「ジェイド先輩、私も、私もジェイド先輩のことが―」

 彼女が気持ちを告げる前に、ジェイドは我慢が出来なかった。彼女はジェイドからの、恋人からの、キスを、目を瞑って、受け入れた。
prevmenunext
- ナノ -