3 着地点






 彼女はジェイドからちょっかいを受けるようになった。

「監督生さん、おはようございます」
「監督生さん、こんにちは」
「監督生さん、お疲れ様です」
「監督生さん、お隣よろしいですか?」
「監督生さん、分からない問題があれば遠慮なく聞いて下さい。
 え?対価?そんなもの必要ありません。
 僕とあなたの仲じゃないですか」

 その内、おはようからおやすみまでコンプリートしそうな勢いだった。最初はたまたまだろうか?と特に違和感を覚えなかった。連日続けて、ジェイドと話せるなんてラッキーだと思っていた。が、一日に一回必ずジェイドと遭遇するようになって、流石に気付いた。たまたまジェイドに会えてるのではない。ジェイドが彼女に会いに来ているのだ。

 例えば、昼食の時間。食堂が混んでいて、近くに座れなくても、わざわざ話しかけにくる。食べ終わったトレイを持って、時には食べる前のトレイを持って。何気ない世間話をして、「ではまた」と笑顔で去っていく。世間話は殆ど生産性もない。「いい天気ですね」「調子どうですか?」と言った具合の気安い内容が多かった。彼女はジェイドと軽口を叩くほど、仲良くなったのだと錯覚を起こしそうになった。

 でも、彼女はあくまで錯覚を起こしかけただけで、踏み止まった。それが出来たのは彼女が分かっていたからだ。ジェイドは絶対に自分のことなんて、好きにならないと。

 彼女は戸惑ったが、自分の気持ちがバレたのだと理解した。そもそも、人の心に入り込むことが上手い人だ。自分への特別な視線になんて、すぐ気付くだろう。おそらく気付いてた上で、今まで泳がせていたのだ。だとしても、急に態度を変えたのは何故だろうか。その分からない違和感は、彼女に数パーセントの希望を持たせてくるからタチが悪い。分かっていても、期待してしまう。恋という感情は厄介極まりない。誰か、この違和感を一緒に解決して欲しい。ジェイドが何を考えているか知りたい。ジェイドのことをよく知る人物にでも、相談させて欲しいと切実に思った。その人物に心当たりがない訳でもないが、代償が大き過ぎる。

 彼女はこっそりと図書館に足を踏み入れて、背の高い生徒がいないことを確かめると、ほっと肩を撫で下ろす。ジェイド先輩のことは好きだけど。急に供給量が増えるのは勘弁して欲しい。ジェイドと言葉を交わすほど、ジェイドのことで頭がいっぱいになって、何も手が付けられなくなってしまう。このままでは日常に支障を来たすのも、時間の問題だ。

 彼女は軽く頭を振り被って、当初の目的を思い出す。明日までの課題をいきなり出されたので、その課題の参考図書を探しに来たのだ。グリムは相変らず逃走中である。司書に参考図書の場所を聞いて、彼女は早速その場所へと向かう。首が痛くなるほど、見上げなくてはならない本棚は、本を探すだけでも時間がかかる。彼女はタイトルの頭文字を心の中で呟きながら、一冊一冊目線でなぞっていく。油断したら、目が滑って見逃してしまいそうだ。こちらの世界の本は、馴染みがないものばかりだから。

「あ!あった……けど」

 なんちゅーところにあるのか。彼女はほぼ真上を見上げて、眉を寄せる。あの高さでは、踏み台に乗っても取れないではないか。みんなどうやって取るんだ?と考えて、あ、魔法か、と一人で完結する。魔法の存在がまだまだ当たり前にならない彼女は、いつも一人でこうやって納得していた。司書さんに頼んで取ってもらおう。彼女が本から視線を外して振り返ったとき、一瞬視界が暗くなる。彼女が驚いて後ずさると、フフフと甘く低い笑い声が耳をくすぐった。なんてデジャビュ。

「驚かせてしまってすみません。監督生さん」
「じぇ、ジェイドせんぱい」
「あの本が必要なんですか?」
「はい、今日の課題の参考図書で……」

 ジェイドはグリムが言っていたように、分かり切ったことをよく尋ねて来た。彼女が頷けば、ジェイドは腕を伸ばした。それだけで、軽々と本に手が届く。ジェイドは背が高い故に、リーチの長さも規格外だった。彼女はひぇと声を漏らして、ジェイドの背の高さに改めて驚いた。ジェイドは本を取ると、彼女へ差し出した。にっこりと微笑むジェイドに、彼女は素直に受け取れなかった。NRCで過ごしていれば、当然の態度だ。

「えっと、……た、対価はいかほどになりますか?」
「対価を要求したりは致しません」
「……ど、どうして」

 簡単にオクタヴィネルからの親切を受け取るんじゃない。もちろん、契約なんてもっての外!リドルに口酸っぱく言われていることだ。何より実体験もあるので、彼女はそう簡単に頷かない。彼女の言葉に、ジェイドは困った顔をした。少し寂しそうな色滲ませるものだから、彼女はグッと奥歯を噛んだ。

「僕があなたに優しくしたいからです。それだけでは理由になりませんか?」
「……」

 ひい!と悲鳴を上げそうになる。彼女はなりません!と言うんだ!と自分い良い聞かせる。でも実際は頬を染めて、俯くことしかできなかった。深読みしか出来ないセリフを言われるのは初めてではない。むしろ、最近では一日に一回言われている。ノルマみたいだ。もしくは一日一善。彼女は今日もジェイドからの甘い言葉を、受け取ることも、突き返すことも、出来ずに終わる。

「すみません。困らせたい訳ではないんです。
 僕のことを思ってくださるなら、この本を受けってくれませんか?」
「でも」
「本当に対価なんて要求しませんよ。なんなら、契約書でも書きましょうか」

 そこまで言われて、彼女はやっとジェイドの手から本を受け取ることができた。「ジェイド先輩はどうして私に構うんですか?」とは、今日も聞けなかった。今日も彼女は口を噤んで、困ったように笑うジェイドに、同じように曖昧に笑い返すことしか出来なかった。

9

「グリムー?」

 彼女は中庭で途方に暮れていた。グリムが久々に授業前に逃亡したのだ。エースやデュースと一緒にいないタイミングで逃げ出されてしまって、彼女は一人で探す羽目になった。正直、半分は諦めていた。次の授業は出欠席そこまで厳しくないし、私がちゃんとノート取れば問題ないしなぁ。今日はクルーウェル先生からの課題がたっぷり出てるから、今この体力は温存すべきな気がする。彼女が一人で頷いていると、声を掛けられた。

「小エビちゃん、何してんの?」

 この呼び方をするのは、一人しかいない。彼女が後ろを振り向けば、ベンチにだらりと座って手を振るフロイドの姿があった。フロイドは実験着を着ていた。着替え魔法すらだるい面倒と言って、しょっちゅう授業が終わっても実験着や体操服を着たままだったりする。

「グリム探してるんです。
 フロイド先輩、グリム見かけませんでしたか?」
「見てないよぉ。
 それより、小エビちゃんこっちおいで」

 フロイドは、ぽんぽんと自分の隣を大きな手で叩く。彼女は素直にフロイドの隣へお邪魔することにした。そして、あ、と気付いた。いた。誰よりもジェイドのことを知る人物がいた。しかも、運がいいのか。その人物こと、フロイドは大変機嫌が良さそうだった。何でも錬金術で、新しい方法で課題をクリアしたら珍しく褒められたとか。普段は危ない方法をするな!と注意を受けることも多々あるらしい。

「最近ジェイドがちょっかいかけてくるでしょ」
「え、ご存知だったんですか?」
「ご存知、ご存知。
 てか、あんだけあからさまだったら、いやでも目に入るし」

 そう言いながら、フロイドは眉を顰めた。
まるで、キノコを目の前にしたときのような表情だった。

「オレ、ジェイドのこと大好きだけど。
 あーいう悪趣味のとこは好きじゃねぇな。小エビちゃんもそう思うでしょ?」
「え」
「小エビちゃんのこと好きでもない癖に、好奇心で手出してさぁ。
 小エビちゃんが落ち着いた子じゃなかったら、勘違いしちゃうよ」

 ねえ?とフロイドが彼女の方へ振り向いて、フロイドはギョッとした。彼女の丸い瞳からぽろぽろと涙が溢れているのだ。不思議なことに、彼女は涙を流しながら笑っていた。無理に笑っているわけではない。ホッとしているのだ。ジェイドの態度や気持ちへの違和感を理解して、安堵したのだ。

 ほらね、やっぱりジェイド先輩が私のことを好きになるはずない。もう変な期待をしなくて済む。でも彼女の心は一丁前に傷付いていた。分かっていても、想い人と両思いになることはないと突き付けられることは辛いのだ。

「うわあ、だから言わんこっちゃない」

フロイドはスラックスのポケットを探る。運が良ければ、ハンカチがあるはずだ。指先に当たる感触があって、今日はやっぱり、運がいい日だった。フロイドはちゃんと皺がないハンカチを彼女の目に押し当てて、涙を拭ってやった。彼女は驚きながらも、されるがままだった。

「フロイド先輩はやさしいんですね」
「まあね、オレ乙女の味方だかんね」

 今度はポケットからミントキャンディーを出して、彼女の手に握らせる。彼女は困った顔をして、口を開こうとするが、シーとフロイドの人差し指が邪魔してきた。フロイドはニヤッと笑って、彼女に持たせたミントキャンディーに大きい手をかざす。そして、パチンとキザったらしく指を鳴らしてみせた。しかも、ウインク付きだ。

「わあ!」
「どう?ドキッとした?」
「した!しました!」

 フロイドが大きい手をどかすと、彼女の大好きなグレープ味のキャンディーに姿を変えていた。彼女はミント味のスーッとする感じが苦手で、貰っても食べれないのだ。彼女はキャンディーの角度を変えながら、ニコニコと笑って眺める。ふいに、視線を感じた。振り向くと、そんな彼女を見つめて、フロイドがゆったりと笑っていた。見守るような笑みに、彼女の頬がカァっと赤くなる。

「フフ、可愛いねえ。小エビちゃん」
「ま、マジで惚れそうになるんで、やめてください」
「あはは。
 素直じゃん。オレ素直な子好きだよ?」
「いやああ!畳み掛けて来ないでください!」

 彼女は悲鳴を上げながら、ベンチから落ちそうになった。フロイドがあまりにもカッコ良くて。彼女の切実な悲鳴に、フロイドは笑い転げた。

「でも、なんで乙女の味方なんですか?」
「ンー。こういうのはさ、因果応報って奴になりやすいと思うんだよね」
「?」
「いつかオレに好きな子できたときに、
 過去のしょーもないことで、足引っ張られたくないじゃん?」
「マジで惚れそう」
「アハハ。オレにしとく?」

 フロイドに顔を覗き込まれた彼女は、今度こそベンチから落っこちた。

10

「アズール」

 アズールはジェイドの呼びかけに顔を上げて、すぐに手元の資料に目線を戻した。革張りのソファに座って、お行儀よく座っているジェイドはそんなアズールの様子に、拗ねたように眉を下げる。まるで、フロイドのような表情だった。そこそこの付き合いゆえに、アズールには分かる。きっとジェイドはしょうもないことを言うのだろう、と。わざわざ顔を合わせて話すほどでもない話だと判断した。

「はい、聞いていますよ」
「ちゃんと僕の方を見て、話を聞いてほしいんです」
「はあ……これでいいですか」
「はい」

 ここでジェイドの要望を拒否した方が、面倒だろうな、と思ったアズールは仕方なく顔を上げる。アズールが視界に自分の姿をおさめたことが分かると、ジェイドはにっこりと笑って頷いて、口を開いた。ジェイドの言葉を聞いた瞬間、アズールは反射的に眉を寄せて、訝しげな表情になってしまう。

「は?」
「ですから、アズールは愛とはなんだと思いますか、と尋ねてるんです」
「……」

 アズールは手に持っていた資料を置くと、横によけていたPCを引き寄せて、キーボードに指を滑らす。今でこそ、キーボードをすらすら打つアズールだが、初めてPCを触った頃は、人差し指だけでキーボードを打っていた。ピアノを弾くように、両手を動かすアズールの姿に、やっぱりアズールは努力家ですねえ、とジェイドはぼんやりと思った。ちなみに、フロイドはよく分からないフォームポジションでキーボードを打つが、三人の中で一番入力するのが早かったりする。

「愛とは、そのものの価値を認め、強く引きつけられる気持ち。かわいがる。
 いとしく思う。いつくしむ。いたわる。男女が思いあう。
 親しみの心でよりかかる。だそうです」

 アズールは淡々と検索結果のページを読み上げる。
ジェイドは不満げに、首を横にふった。

「そういうんじゃないです」
「お前はどういう回答を僕に求めているんですか」
「アズールが思う愛を教えて欲しいんです」
「……」

 はあ。めんどくさい。アズールの顔には、はっきりとそう書いてある。
だが、そんなことで引く性格でもないジェイドはアズールの答えを待っている。

「ジェイドは、どう思うんですか」
「分かりません」
「は」
「監督生さんが言ったんです。奪うことは愛ではないと」
「そうですね、奪うことは窃盗罪にあたりますから」
「だから、そういうんじゃないです」

 アズールは行儀は悪いが、机に頬杖えをついて、今にも稚魚のように唇を突き出しそうなジェイドを見つめる。きっかけは分からないが、アズールは監督生がジェイドに恋愛感情をもっていることは知っている。そして、そんな監督生にジェイドがちょっかいをかけていることも知っている。

 個人の人付き合いに口出しする気もないし、したくないので、そのことに関しては放置していた。全ては自己責任である。ジェイドが彼女にちょっかいをかけるようになって、ジェイドはアズールにしょうもない話をするようになった。答えのでない話ばかり。

「では、監督生さんは愛をなんと言ったんですか?
 奪うことは愛ではないと言ったなら、何が愛になるんですか?」
「……相手を尊重して、見守ること」
「はは。彼女らしい模範解答ではありませんか」

 どんな回答がくるかと、少し楽しみに待ってしまっていたが、何ともつまらない回答だった。アズールは演技かかった笑い声を上げて、頭の中に監督生を思い浮かべる。本当に、彼女らしい言葉だ。

 きっと彼女は平和な世界で、安全に暮らしてきた温室育ちだ。だから、彼女は他人に手を差し伸べることができるし、面倒ごとを押し付けられても、眉を下げて困った顔で笑うだけ。とんだお人好し。人畜無害とは、彼女の為にある言葉だろう。

 まあ、ただ人畜無害からは考えられない大胆というか、容赦のない一面をある辺りは、やはり学園長が監督生として学園に置いているそれなりの理由に当たるのだろう。猛獣使いとは、上手く言ったものだ。

「ジェイドは彼女の思う愛に、不満でもあるんですか?」
「……分かりません」
「そればっかりじゃないか」
「だって、好きなら、欲しいなら、手に入れるべき……
 アズールも、そう思いませんか?」
「……」

 アズールは手に持っていたペンをくるり、と一回転させて、ジェイドのようにニッコリと笑う。

「ジェイドは彼女が自分を欲しがってくれないから、不満なんですね」
「……」

 ジェイドはむっすり、として口を閉ざした。アズールはくすくすと笑って、珍しくジェイドを優しい眼差しで見つめる。これは、面白い。優雅に口元に手を当てて、微笑んでいるジェイドがただの十七歳の、男の子らしい表情をするものだから。

 きっと、この面倒なやり取りはジェイドなりの甘えか、八つ当たりなのだろう。餌を掲げているのに、全然獲物が引っかからないものだから。ジェイドは気が長いほうなんですがね。そんなジェイドでも、匙を投げたくなってしまうほど、彼女は案外食えない人間なのかもしれない。

「僕は……監督生さんのような愛は、到底理解できません」
「別にそれで、いいんじゃないですか」
「?」
「相手の愛を理解しないといけない、なんて法律もありませんし、
 それこそ、そんな契約を監督生さんと結んでいるわけでも、ないんでしょう?」

 くるくる、とアズールの手の中で、ペンが回る。ジェイドはアズールの言葉に、きょとん、とした間抜け面を隠さないで、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。アズールはやっぱり我慢ができず、またくすくすと笑ってしまう。存外可愛いものですね、恋をした男の子というものは。ジェイドは無意識のうちに、彼女のことが理解できないのが嫌だったんだろう。ジェイドはいつの間に、監督生さんのこと好きになったのか。当の本人はまだ自覚する様子もないけれど。

「そうですね……理解する必要も、ないのかもしれません」
「まあ、理解しようとする意志は大切ですけどね。
 感じ方は人間の数、人魚の数ありますから」
「……」

 アズールの言葉に、ジェイドはまだ納得していない表情をしていた。自分の感情の落ち所を見つけることが出来ていないようだった。うん?とアズールはペン回しをしていた手を止める。アズールは喉まで来ている閃きに、ペンで自分の額を突いた。もう少しで犯人が分かりそうな探偵のような仕草だった。アズールは確認するように、ジェイドへ尋ねる。

「ジェイドは奪うことが愛だと思っているんですよね?」
「……ええ、まあ」
「でも、監督生さんは奪うことは愛ではなくて、
 相手を尊重をして見守ることが愛だって言ったんですよね?」
「……」

 ついにジェイドは不貞腐れて、頷くだけになってしまった。ジェイドの不貞腐れた顔を見て、アズールは確信した。そして、とぅるん、と滑ってしまった。口が滑ってしまった。

「ジェイド……お前、まさか……」
「……」

 アズールの唇をわなわなと震える。ジェイドは気だるそうにアズールへ視線を向けた。

「自分のこと好きな癖に、監督生さんが奪いたいと思ってくれないから、
 拗ねているんですか?」
「!」

 今度はジェイドの唇がわなわなと震えて、いつものお澄まし顔が遠い彼方へ飛んでいった。ジェイドは思い出して、グッと顔を顰めた。

「私は……愛とは、相手を尊重して見守ることだと思います」
「……相手を尊重して見守って、その相手が誰かのものになったとしても。
 あなたはその相手を愛してるって言えるってことですか」
「え」
「……」
「誰かを支配する権利は誰にもありません。
 その相手が私以外の相手を選んでも、私が何かを言う権利はありません」

 彼女の言葉に、ジェイドはズタズタにされた気分だった。誰にも見せない自分の柔らかい部分を、小さな刃物が容赦なく深く切り刻んできた。今までの人生で感じたことのない痛みだった。ウソツキ。僕のことをあんなに熱い目で見るくせに。その瞳に色んな欲求を抱えているくせに。なのに、どうして執着しないんだ。僕が他の人を好きになったと、恋人が出来たと、告げても、同じ言葉が本当に吐けるのか。

 監督生さんの言い分は分かりました。なら、奪わなくても良い状況なら問題ないのでしょう。見るからに彼女だけを特別扱いすればいい。分かりやすく、わざとらしいほどに。そうすれば、彼女は僕を……、僕を?

「アズール」
「やっと戻って来ましたか!
 急に意識飛ばさないでくだ」
「僕監督生さんのこと……」

 ジェイドがぽろり、と口にした。アズールは頭を抱えた。

11

「監督生さんこんにちは」
「こんにちは、ジェイド先輩」

 休日にも関わらずジェイドがやってきた。しかも、わざわざオンボロ寮まで出向いてきた。彼女はオンボロ寮の庭の整備中だった。体操服に着替えて、麦わら帽子(オンボロ寮の物置から発掘した)を被って、首にタオルを巻いて、草毟りとしては満点の格好だった。ただ恋する乙女としては赤点だ。対するジェイドはいつもながら、寮服をスマートに着こなしていた。着崩していない着こなし方がジェイドの魅力を最大限に活かす着こなしなのだ。

 彼女が屈んで草を抜いているときに現れたので、ジェイドはいつもより大きく見えた。にこやかに挨拶をした後、ジェイドの表情は一転して、彼女を見つめてきた。まるで、飛行術のときような表情だ。なにか参ってしまうことでも、あったのだろうか。彼女が困った顔をして見つめ返すと、ジェイドが隣にしゃがみ込んできた。先輩、ストール汚れませんか。大丈夫ですか。彼女は無言で隣にしゃがみ込んでいるジェイドに首を傾げる。

 彼女は隣をチラッと盗み見る。ジェイドは曲げた膝に肘を乗せて、さらに重ねた両手に顎を乗せていた。視線は地面を見つめて、心なしか頬が膨らんで、唇がムッと尖っている。フロイドがよく不満なときにする表情にそっくりだった。ジェイド先輩もこんな風に不貞腐れるんだ!と末期な彼女は呑気に可愛いなぁと思っていた。珍しいジェイドの表情を楽しみながら、彼女はぶちぶちと草を抜いていた。抜いてたが、腰に限界が来た。一旦立ちたい。それに水分補給もした方がいいかもしれない。

 順応性が高い彼女は、自分の隣のジェイドを最早置物のように扱っていた。「ジェイド先輩、寮の中に入りませんか」と声をかけて、腰を上げようとした。

「ぎゃあ」

 ずっと動かなかったジェイドが動いた。彼女の腕を強引に引っ張って来たのだ。彼女は腕だけ引っ張られた不恰好な体勢で、ジェイドを見下ろした。

「じぇ」
「どこ行くんですか」
「え」

 ドキマギした。初めて見た。今日は初めてのジェイド先輩がいっぱいだ。ジェイドが彼女を見上げる。彼女の腕を掴んだ手は酷く冷たいのに、頬は赤かった。そして、ジェイドの瞳も熱を秘めているように見えて、彼女は首を横にふる。そんな表情にジェイドは眉を寄せて、ぽつりと言葉を落とした。

「あなたが好きです」

 彼女の目が丸くなって、限界まで瞼が上がる。文字通り、彼女は目玉が零れ落ちそうになった。信じられない。言葉がなくても、彼女の言いたいことはジェイドに伝わった。でも、ジェイドはただ自分の気持ちを告げることしか出来なかった。自分の気持ちを信じて貰えないことは百も承知だ。それでも、ここで引き下がることは出来なかった。計算も、勝算もない。ジェイドらしくなかった。ジェイドはもう一度繰り返した。

「あなたが好きなんです」

 彼女の腕を掴んでいたジェイドの手が滑って、彼女の小さな手を包み込む。彼女の手の甲に額を押し付けて、もう一度。

「あなたが好きだ」

 まるで、許しを請っているようだった。僕があなたを好きでいることを許して欲しい。僕があなたに気持ちを伝えることを許して欲しい。僕があなたを甘やかすことを許して欲しい。理由がなくても、あなたを気にかけたい。大切にしたい。僕のこの欲望をあなた自身に許して欲しい。ジェイドが顔を上げる。きゅう、と眉根を寄せて、頬を染めて、ジェイドは真っ直ぐ彼女を見上げる。心なしかジェイドの瞳が潤んで見えた。ジェイドの苦しそうな表情に、彼女も同じように眉根を寄せる。

「僕はあなたが好きなんです」

 信じられない。ありえない。口がカラカラに乾く。心臓がうるさい。彼女は何て言えばいいのか分からなかった。

「僕はあなたの愛を理解できません」
「あの」
「だって、あなたが他の誰かを好きになっても、僕は諦めません。絶対に。
 奪ってでも、手に入れてみせます。
 あなたには嫌われてしまうかもしれませんが」

 言葉を重ねて、ジェイドは自嘲する。そんなジェイドに、彼女は事実をそのまま伝えることしか出来なかった。

「奪わなくて、いいです」
「え?」
「……私ジェイド先輩だけが好きです。だから、奪わなくても先輩のものです」

 彼女のか細い声に、泣きそうな顔に、ジェイドは顔をクシャクシャに歪めた。小さな手の甲に、自分の額を押し付けて、呟いた。

「よかった」

 彼女はもう我慢出来なかった。胸が苦しくて、助けて欲しい。彼女が力なく地面に座り込むと、すぐにジェイドに引き寄せられた。苦しいほど強く抱き締められて、彼女は呼吸を忘れた。

「じぇ、じぇいどせんぱい!くるしい!」
「すみません……こんなにも人を好きになったのは初めてで、僕も困ってるんです」

 ジェイドは困った顔をして、彼女を見つめる。彼女は絶句した。
ジェイド・リーチは恐ろしい男だ。普段計算で言いそうな言葉を、本当に素で言うときがあるのだから。しかも、それが様になるからタチが悪かった。やっぱり、好きな人からの供給量の限度を決めるべきだ。彼女はジェイドの腕の中で、強くそう思った。

「監督生さん?監督生さん?……気絶してしまいました」
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