ランキング12位



0、

「わー!ちょっとどいてー!」
「え?」

 ナマエは焦っているような声が聞こえて、咄嗟に顔を上げる。彼女の視界にいっぱいに映ったのは、大きな靴の裏だった。次の瞬間には、身体が経験したこともない熱さに襲われて、視界が真っ暗になっていた。

「げっ、やべっ」


1、

 彼女はワンピースを頭から被って、カーディガンを羽織る。髪は適当にブラシで撫で付けて、ショルダーバッグを肩にかけた。ちょっと近くのそこまで、だ。こんなもんでいいだろう、と彼女は鏡の前に立って、ワンピースの裾が折れていないか確認する。そして、困った顔で扉を見つめる。

「本当に、ナマエちゃん今日出かけるの?」
「え、うん、新刊の漫画欲しくて」
「通販じゃダメなの?」
「店舗特典も欲しくて」
「ありゃりゃ、それは行くしかないね」

 ルームメイトのシンシアは眉間に皴を作りながらも、彼女を通せんぼしていた扉の前から渋々どいた。シンシアは占星術が大得意で、九割の確率で当てる実力の持ち主だった。ふたりはとても仲が良く、シンシアは彼女に悪い影が迫っていることが分かると、よく助言をしてくれる。普段の彼女ならば、シンシアの忠告を有難く受け取るが、今日は譲れない戦いがあるのだ。昔から愛読している漫画の、店舗特典で描き下ろしの設定集が付いてくるという……これはファンならば、オタクならば、行かざるを得ない。シンシアも、彼女もオタクという共通点で、仲良くなったので、シンシアは仕方なく折れてしまう。

「ナマエちゃんせめて、これ付けてって」
「わあ、かわいい」
「私のおまじないかけてあるから、最低のことは免れると思う」
「え、最低……?」
「うん、ナマエちゃん命の危険があるよ!絶対に裏道とか入っちゃダメだからね!」


 そんなシンシアの忠告に、彼女はケラケラと笑って、心配いらないよと答えた自分を殴りたかった。どくどく、と心臓がうるさいほど、脈を打っている。耳元ら辺で、鼓動がうるさくて、気持ちが悪かった。肺も苦しくて、まともに息もできない。ここは地上のはずなのに、まるで息継ぎが下手みたいになって、大きく肩を動かして、息を吸って、吐かないと、呼吸も止めてしまいそうだった。なんで、こんなことに!彼女は意地でも離さないと、透けない優秀な青いビニール袋を胸に抱きながら、我武者羅に足を動かした。

2、

 彼女はちゃんと表通りを通って、無事目的を果たしていた。後は、寮に帰るだけだった。

「うわっ」
「す、すみません。急いでいるんです!」
「は、はあ」

 急に肩に衝撃を受けて、彼女はよろけて、尻もちをついてしまう。彼女にぶつかった同年代の男の子は振り向きざまにそう言うと、すぐに人込みに紛れてしまった。電車の時間にでも急いでいるのだろうか?と彼女が首を傾げていると、彼女の前に手が差し出されていた。彼女が顔を上げると、にっこりと優しそうなおばさんが笑っている。

「お嬢さん、大丈夫?」
「あ、ありがとうございます」
「にしても、失礼な坊やだね。人にぶつかっておいて、そのまま走り去るなんて」
「あはは。なんか急いでるみたいだったので」

 彼女は有難くおばさんの手を借りて、のろのろと立ち上がる。おばさんはパンパンと、彼女のワンピースをはたいてやった。おばさんはエプロンをしていて、すぐそこの果物屋さんの店主だった。彼女とおばさんが会話をしていると、ふと頭上を変な影が横切る。なんだろう?と彼女が顔を上げると、そこには何もなかった。何もない。青い空。レンガ作りの建物が並んでいるだけだった。彼女の様子に、おばさんも同じように上を見上げる。

「元気な野良猫だこと」
「野良猫?」
「たまにね、いるの。大きい野良猫が建物と建物の間を飛んでねえ、調子が悪いとウチのオーニングテントに落ちてきたりもして」
「ええ、大丈夫なんですか」
「ふふ、野良猫だからねえ。器用に着地するのよ」
「そうなんですか……あれ?」

 彼女は自分の手元に何もないことを気付いて、きょりきょりと周りを見渡す。漫画が入ったビニール袋がない!もしかして、さっきの男の子に盗られた?と彼女が慌てていると、おばさんが彼女の肩をちょんちょん、とつつく。

「もしかして、お嬢さんの探し物はあれ?」
「あっ、そ、そうです!」
「勢い良かったから、飛んで行っちゃったのね……あ、でも」
「ねえ、これいくらー?」
「あら、お客さん」
「あ、ありがとうございました!もう大丈夫です!」

 頭を下げて彼女はお礼を言うと、建物と建物の間に飛んで行ってしまった漫画を取りに行ってしまう。おばさんの呟きにも気付かずに。

「あっ、行っちゃった。最近この路地裏物騒って言おうとしたんだけど」

3、

「良かった。傷は付いてない」

 彼女は昼間なのに薄暗い道の真ん中で、ビニール袋の中身を確認していた。ふう、と息をついて、そこでやっと路地裏の独特の気味の悪さを思い出す。後ろを振り返ると、まだ表通りの道が見える。温かな穏やかな光でいっぱい溢れた道だ。本能的に、明るさに安心を感じた。彼女は早くあそこに戻らなきゃと思って、足を動かしたとき、カランコロンと音がした。空き缶か瓶が転がるような、音だった。きっと、これホラーゲームなら振り返っちゃいけないやつ。彼女は頭の中ではそう思っていたのに、音の方向へ振り向いてしまった。

「……!?」

 男の子が四人。一人が蹲っていて、その蹲っている男の子の頭に足を乗せた男の子と、残りの二人はニタニタと笑いながら、その様子を眺めている。やばい。これはやばい。関わったらいけない。気付かれたら、いけない。総じて、この世界は女性と子どもにやさしい種族が多い。ただし、どの種族も例外がいる。彼女は一歩、二歩、と足を動かして、三歩目で走りだそうとした時に、カランコロンと音がした。先ほど転がってきた空き缶が足元にあったようで、運悪く足に当たってしまったらしい。

 一気に三人が彼女の方へ振り向く。鋭い目付きだったが、一人の圧倒的弱者だと覚ると、再びニタニタと笑い出した。うわ、最悪だ。せめて、見世物じゃねぇぞ!と怒鳴ってくる不良の方がマシだった。あの笑みは、あの薄気味の悪い笑い方は、彼女が女であることに対して、だった。彼女は反射的に胸元のネックレスに触れて、カチャリと鍵を閉めるような仕草をしてから、走り出す。多少の時間稼ぎにはなる、はず。

 ミスった!怖くて必死にその場から逃げ出そうとした所為で、彼女は表通りと逆方向に向って走り出してしまっていた。全然分からない薄暗い道をひたすら、走り回る。右に曲がって、左右を確認して目視で分かる行き止まりは回避して、とにかく相手から距離を離そうと必死だった。彼女の息が上がって、道に迷い始めて泣きそうになったとき、後ろから複数の足音が聞こえ始める。

 うそぉ!もう解けちゃったの!?それか破壊された!?

 彼女のユニーク魔法は、自分が指定した空間を切り出して、外部からの刺激を受けなくするもの。防御魔法の応用で、生み出したものだった。さっきのように路地裏の行き止まりのように、凹凸の凹のように、空間が最初から区切られていると、さらに魔法がかけやすい。空間認識の範囲が狂うと、予想通りにならないこともあるのだ。自分を守るために使ったり、先ほどのように相手を閉じ込めて足止めにも使ったりできる。ただし、絶対ではない。能力自体はそこそこ使えるものだが、その魔法を長時間持続させたり、より強固な空間にする魔力も、正確に素早く魔法を発動させる反射神経も、彼女は足りていなかった。

 少しでも表通りへ近付こうと、彼女は明かりが漏れている方向へ向かおうと、必死で足を動かした。スニーカーで良かった。

「!」

 彼女は一等光が漏れている場所を見つける。しかし、もう足音はすぐそこまで迫ってる。きっと五メートルほどもないだろう。彼女は一か八かだと。もう一度振り返って、ユニーク魔法を発動させる。幅の狭い道だ。少しの空間でも切り出せば、多少の壁になってくれるはず。あの曲がり角が、表通りに続くと、信じて。ユニーク魔法が発動した瞬間、透明の壁にぶつかるような、音がした。今度こそ、振り向いちゃいけない。彼女は竦みそうになる足を叱咤して、なんとか曲がり角を目指した。

「よ、よかった……」

 曲がり角を曲がると、まるで別世界のように温かな光が溢れていた。でも、油断はしてはいけない。表通りまでは、後数メートル距離がある。流石に、彼らも大通りまでは追ってこないだろう。もう少し、もう少しで、助かる。彼女が少しだけ息を整えて、走り出した。そのとき、影が過った。一人の背の高い男の子が高い壁から、飛び降りてきた。ああ、これって、確か……なんて言うんだっけ。


4、

「おーい!やべえ、死んじゃった?」
「……ん?」

 彼女はぺちぺち、と頬を叩かれる感触に、薄っすらと目を開ける。彼女の視界には、ターコイズブルーの髪に、ブラックのメッシュを入れた男の子がひとり。心配そうな、いや、やらかしちまったなという感じの、焦った表情をしている。彼女はずきずきと痛み出す身体に、眉を寄せる。口からは呻き声が漏れた。そんな彼女の様子に、男の子はあーと眉を下げる。

「やっぱり、骨イッチャてるっぽいね。ごめんねえ、超痛いよね……あーくそ、これもアイツがあんなとこまで逃げ出す所為で」

 思い出したら腹立ってきた。とぼやく男の子の声が、急に低くなるものだから、彼女は本能的に怖くなって、起き上がろうとする。すると、目にじわじわと涙が溢れた。やばい、これは私死ぬやつ。絶対死ぬやつ。もういっそのこと、意識ない方がいいやつ。彼女が痛みに悶えて、唸っていると、男の子はぽんぽん、と彼女の頭を撫でて、細身のパンツのポケットから取り出したマジカルペンを軽く振る。

「これで痛みはしばらくだいじょうぶ」
「……からだの、かんかくが、ない」
「うん、今全身マヒ状態にしたから〜痛くないでしょ?」
「……」

 痛くはないんですけど!彼女は舌先まで痺れた状態で、上手く喋れなかった。男の子は彼女の腕や足に触れて、マジカルペンをもう一度振った。やっぱり、彼女の骨はぽっきりと折れていた。魔法で固定かつ、患部を冷やすと、男の子は彼女とゆっくりと抱き上げる。

「あは。良かったねえ」
「?」
「綺麗に折れてるから、すぐ治るよぉ〜」
「!」
「あ、俺ね、フロイドって言うんだけど、そっちはぁ?」
「……」

 彼女がのろのろと唇を動かすが、全然フロイドは聞き取れなかった。フロイドは赤ん坊のようにキャッキャッと声を上げて、「全然わかんね〜」と笑う。やばい。この人もやばい人だ。何が楽しいのか全然分からない。彼女は高くなった視界の隅で、黒い塊を見つけて、フロイドを見上げる。「ん?どしたの?」フロイドは彼女の視線に気付くと、こてん、と首を傾げた。まるで、幼い子どものような仕草に、彼女の心がなんだかそわそわした。彼女は喋れない代わりに、視線で応える。フロイドも彼女の視線の先に、一緒に視線を移す。そこには、先ほど意味不明な理由で、殴りかかってきた不良たちの沈んでいる姿があった。

「あ〜あれ?なんか殴りかかって来たから、やり返したんだけど。
 ちょー弱くて、つまんなかった」
「……」
「あ、もしかして、アイツらに追いかけられて、逃げてたの?」

 彼女が首もすわってない赤ん坊のように頷くと、フロイドはふぅんと言うだけだった。彼女はもう一度、やばいと心の中で呟く。ゆる〜い喋り方をしているが、フロイドさんもやっべえ奴らしい。不良?不良なのか?顔を青くする彼女も気にせず、フロイドは躊躇なく壁を蹴って、建物の上へ上がっていく。彼女が目を見開いて、フロイドを見上げると、フロイドはへらへらと笑う。

「だいじょーぶ。さっきみたいなヘマなもうしねぇし、あと、こっちの方が早いから」
「……」

 上下に揺れる視界に、彼女は目を回しそうだった。ある意味また意識が途切れそうになる中で、思い出した。ああ、そうだ、これパルクールって言うやつだ。

5、

「だからぁ、ごめんって言ってるじゃん!」
「謝るのは当たり前です!だいたいフロイド、お前はいつもー」

 あれ?私いつの間に寝ていたんだろう。彼女は意識が浮上する感覚に、目を覚まそうとして、嫌な予感がして無理やり目を瞑る。耳を澄ますと、聞き覚えるのある声が一つと、聞きなれない声が二つ。このゆる〜い喋り方は、衝撃的な出会い方をしたフロイドだろう、と判断する。背中がふかふか……、ベッドか。じゃあ、ここは病院?でも病院にしては、甘い、いい香りする。アズール、ジェイドと呼ばれる名前が聞こえて、ここには三人の男の子がいることが分かる。身体に痛みはないけど、ないけど、どうなったんだろう。私の腕や足。

「まあまあ、二人とも一旦そこまでにしましょう。彼女も起きるタイミングを失っているようです」
「え?起きたの?おーい?ねえねえ」
「こら、フロイド。女性の顔をそう無暗に触るものではありません」

 彼女は狸寝入りがバレていることに冷や汗をかきながら、ゆっくりと目を開ける。少し眩しくて、一瞬目を細めてしまう。

「おはよ〜。身体の具合どお?」
「……おはようございます……あ、しゃべれる」
「うんうん、もうマヒ状態じゃないよ。身体痛い?」
「?」

 のろのろと彼女が起き上がろうとすると、フロイドが背中を支えてくれた。はっきりとした視界で、周りを見渡せば、お洒落な部屋にいた。海モチーフの家具や置物で溢れた部屋だった。ベッドの脇には、フロイドに似た顔の男の子と、二人よりも背は低いが大人っぽい男の子がじっとこちらを見つめていた。彼女は不思議な感覚に、首を傾げる。身体は痛くない。変な方向に曲がった気がする右手も、右足も痛くない。確実に打撲になっている背中も、お尻も痛くない。でも、身体が思ったように、動かない。感覚はある。痛みはない。でも動かない。

「いたくない、です」
「良かった〜。声ガラガラだねえ」
「お水飲めますか?」
「あ、ありがとうございます……」

 ジェイドと呼ばれた男の子は本当にフロイドとそっくりだった。彼女がまじまじとジェイドを見上げながら、グラスを受け取ると、ジェイドは申し訳なさそうに眉を下げた。

「この度は僕のキョウダイがご迷惑をお掛けしまして、誠に申し訳ございません」
「ひえ」
「ほんと、ごめんね〜。ケガはね、アズールが完璧に治そうとしたんだけど、体力が足りないから一先ず応急処置だけしたんだ」

 彼女は左手でグラス持って、水をちびちびと飲んで、ジェイドの仰々しい謝罪になんだかこちらが申し訳なくなってしまった。故郷の国民性のせいか、彼女は自分が悪くなくても、相手から謝られると、萎縮してしまう。フロイドも同じように眉を下げて、謝ってきた。彼女はなんと言ったらいいか分からずに、「気にしないで下さい」と首を横に振ることしか出来なかった。そんな彼女に、ずいっと声が割り込んできた。

「それはいけません!」
「え」
「おっと、失礼しました。僕はアズール・アーシェングロットと申します。
 繰り返しになってしまいますが、この度にはフロイドがご迷惑をおかけして、
 誠に申し訳ありませんでした。
 本当に女性に怪我をさせてしまうなんて、以ての外です!」
「い、いえ……えっと、アズールさんに怪我治療して頂ける?んですよね?
 ありがとうございます?」
「いえいえ、あなたがお礼を言う必要はないのです。
 むしろ、当然のお詫びです……いえ、足りないくらいだ」
「いや、そんな、気にしないで下さい……というか、あの」
「はい、何でも伺ってください」
「ここは、どこですか?」

 彼女の最もな疑問に、アズールは大袈裟に申し訳そうに眉を寄せて、額に手を当てた。

「申し訳ありません。現状の説明をしなくては、いけませんでしたね。
 ここはNRCの、オクタヴィネル寮になります」
「え、NRC!?……男子校の寮に、私入っちゃっても、大丈夫なんですか?」
「大丈夫です。というか、あのまま貴方を病院に行かせるのは……ではなく、
 モストロ・ラウンジはご存知でしょうか」
「ああ、えっと、確かオシャレで料理が美味しいカフェ?ですよね?」

 彼女の言葉に、アズールは嬉しそうに笑って、さらに言葉を続けようとして邪魔が入った。

「もうーアズールめんどくさい」
「はぁ!?」

 フロイドは早く彼女のことが知りたいのに、アズールが建前ばかりの説明をするものだから、痺れを切らしてしまった。アズールもアズールで、普段ならば、フロイドのペースの飲まれないように、もう少し理性が働く。だが、この時ばかりは我慢できなかった。たださえ街の中で、一般人に大怪我をさせたと言うだけで、大問題なのに。その相手が年下の女の子となれば、さらに分が悪い。学園側にこんな問題がバレたらなんて……考えるだけでも、ゾッとする。ぎゃあぎゃあ、とアズールとフロイドが口喧嘩をし始めた。

 フロイドの腕の中で、彼女がオロオロしていると、ジェイドが笑顔でフロイドとはベッドの逆サイドに立っていた。

「こちらの部屋はオクタヴィネル寮のゲストルームですので、
 特に問題はありませんよ」
「そ、そうなんですね」

 どんな仕組みなのだろうか。彼女は自分の学校とは、全然違うシステムに首を傾げることしか出来なかった。まあ、NRC生が大丈夫と言うならば、大丈夫なのだろう。ちなみに、ジェイドの発言は真実ではなかったりする。ゲストルームはあくまで、NRC生の他寮生向けなのである。

「てか、名前なんて言うの?」
「え、私のですか?」
「そー。私以外ないでしょ」
「ナマエって言います」
「ナマエねー。で、ナマエさ、お腹すかない?」
「え」
「怪我させたお詫びに、モストロ・ラウンジの料理御馳走するって。
 てか、体力回復しないといけないからね、どっち道ご飯食べないといけないんだけど」
「ええ、いや、そんなにして頂かなくても、怪我を治して頂けてればじゅうぶ」
「お詫び、させてくんないの?」
「……ひえ」

 なんだろう。目の前のフロイドは、またこてん、と可愛いらしく首を傾げている。なのに、なんだか、断ってはいけない気がする。彼女が困ってフロイドから視線を外して、ジェイドを見上げるが、ジェイドも同じような表情を浮かべている。最後の頼みのアズールも、同じように悲しそうにしている。まるで、彼女が悪者のような空気になっていた。

「お、お言葉に甘えて」

 彼女がそう言えば、三人は弾けるような笑みを浮かべて、彼女をモストロ・ラウンジへ案内した。

6、

 開いた口が塞がらないとは、このことだと彼女は思った。彼女はまたフロイドに抱き上げられて、移動していた。そして、案内されたモストロ・ラウンジはとても学生が経営しているとは思えないものだった。深海を連想させるような色使いのインテリア、照明に、大人っぽいジャズが流れて、溢れる高級感に彼女は自分の場違い感を嫌でも覚えてしまう。心細くなって、唯一いつも通り動く左手で、フロイドのシャツを握ると、フロイドは「なぁに?」と彼女を見下ろした。よく見ると、フロイドは街で出会った格好とは、また別のフォーマルな恰好をしていた。

「す、素敵なお店ですね……とっても大人っぽくて」
「あは、ありがと。アズールが聞いたら、喜ぶよ〜。
 んっと、ナマエの席はここね」

 彼女はボックス席に連れて行かれ、意外にも丁寧な仕草でフロイドはソファに座らしてくれてた。ふかふかのソファに、彼女はまたくらくらと眩暈がする。お金は取りません、と言われていても、身の丈に合わない贅沢をしているようで、居心地が悪かった。フロイドは彼女の隣に座ると、メニューを開く。

「ナマエは何が好き?」
「えっと、オムライス」
「オムライスかぁ〜」

 反射的に答えて、彼女は後悔する。このお店のメニューの中で、何が好き?という意味かもしれないのに。普通に自分の好みを言ってしまった。え、こんなお洒落なお店にオムライスあるのか?パスタとか、そっちの方がありそうだ。オムライスもお洒落なお店にはあるだろうけど、同じお洒落なお店でも、ジャンルが違い過ぎる。フロイドはうーん、と唸ると、メニューをぱたり、と閉じる。うわあああ、やっぱり、オムライスないっぽい。私のバカバカ。彼女はフロイドがもっているメニューに手を伸ばそうとするが、フロイドが席を立つ方が早かった。

「ちょっと待ってて〜」
「え」
「ん、なぁに、寂しい?」
「い、いえ、一人で大丈夫です」
「うんうん、いい子いい子〜」
「!」

 フロイドはゆるく頷くと、彼女の頭をぽんぽんと撫でて、バックヤードへと消えていく。彼女は大きな手の感触が残る頭に手を当てて、頬を熱くする。ふ、フロイドさん手慣れている!あんなに大人っぽいんだから、きっと年上かな。三年生かな?だとしても、一つ上なだけあんなに大人っぽくなるものだろうか。彼女は水族館のような大きい水槽を見つめて、ため息をついた。本当に場違いだなぁ。場違いな上に、オムライス!とか言っちゃうし。ああ〜。彼女が自分の行いに羞恥心を感じて、頭を抱えていると、足音がして彼女のテーブルの前で止まった。

「ナマエさん、体調が悪くなってしまいましたか?」
「い、いえ!……あ、じぇ、ジェイドさん」
「なら、良かった。すみません、こちらを手渡すのを忘れていましたので」
「あ!あ、ありがとうございます……!」

 彼女はジェイドが差し出したショルダーバッグを受け取って、左手で何とか鍵を開ける仕草を行う。そして、彼女が人差し指を一歩線を引くようにして動かすと、ショルダーバッグのチャックがジジジ、と音を立てて開いていく。ジェイドは目を細めて、彼女の魔法を観察する。実は彼女の身元を調べようと彼女のバッグを見せて貰おうとしたが、何かしらの魔法がかかっていて、開けることが出来なかったのだ。だから、彼女が目を覚ますまで、彼女に関する情報が何も分からなかった。

 そんな事情も知らない彼女はスマホを操作して、ほっと一息ついている。

「ナマエさんはそのネックレスが、マジカルペンの代わりなんですね」
「そ、そうなんです。
 街中で何かあることは基本的にないんですけど、すぐに対応できるようにって、友達に加工して貰いました」

 ワンピースの下にネックレスは隠していたつもりだったが、寝ている間に出て来てしまったのか。魔法石が嵌められたネックレスは彼女の胸元で揺れていた。

「ちなみに、今の魔法について伺ってもよろしいですか?」
「えっと、はい。
 私のユニーク魔法で……」

 ジェイドは彼女のユニーク魔法の説明を聞いて、瞬きを繰り返す。

「ほう。でも、このバッグにかけている魔法はずっと発動していましたよね?」
「実はこの子のおかげなんです」
「おやおや、これまた可愛らしい」

 彼女のショルダーバッグから、ひょっこりと小さなハムスターのような使い魔が現れる。背中には黒い羽根は生えているが、バッグから出て、彼女の腕に登っていく様子を見ると、まだ飛べないようである。

「この子は見た目は小さいんですけど、体内にすごい魔力を貯めていて」
「なるほど。この可愛らしい使い魔さんがナマエさんのユニーク魔法の持続力の秘密、という訳ですね」
「はい、そうです。それにバッグみたいな小さい空間だから可能です。
 大きい空間だと、それだけ魔力も必要になるので、長時間は難しいですね」
「ナマエさんは優秀な魔法士の卵なんですね」
「ええ、そんなことないですよ」
「だって、ミドルスクールの頃からユニーク魔法を発現させているなんて」
「……みどる、すくーる?」

 彼女がピシッと固まって、ジェイドを見上げる。使い魔は彼女の腕から降りて、再びバッグの中へ潜って、あるものを取り出して、ジェイドへ『これを見ろ!』とでも言うように突き出した。ジェイドは使い魔から小さなカードを受け取って、目を見開いて、大きな手で口を覆う。そして、彼女に向って、頭を下げる。

「飛んだご無礼をお許しください」
「え、あっ!いや!ミドルスクールの子に間違えられるのは初めてではないので!」

 彼女の使い魔がジェイドに渡したのは、彼女の学生証だった。NRCと同じ魔法士養成学校の一つの、それなりに知られている女子高だった。

「すみません……まさか同い年だとは思わなくて」
「え、おないどし?」
「はい、僕はNRCの二年生になります。
 ちなみに、フロイドも、アズールも同い年です」
「……」
「ナマエさん?ナマエさーん?」

 思わぬ事実に、彼女はしばし意識を飛ばしてしまった。

7、

「あっははは」
「も、もう笑わないで欲しいです」
「だって、ナマエがまさか同い年だって思わなくてさ。こんなに小さいし?」

 彼女はフロイドの膝に乗せられ、オムライスを食べせて貰っていた。アズール曰く、魔法薬を飲んで、二時間ほど寝れば、骨は治るらしい。ただ不良に追いかけられているときに上手く魔力をコントロール出来ずに、思っていたよりも魔力も、体力も消費していたらしく、治療行うには身体が弱り過ぎていると判断されてしまった。そのため、一度食事を取ってから、再び治療を行って、二時間ほど寝て、帰宅する。その段取りで行きましょうと、説明するアズールはお医者さんのようだと彼女は秘かに思った。

 フロイドは目尻に溜まった涙を拭って、小さな口へスプーン押し付ける。むぐぅ、と変な声がしたが、気にしない。最初は彼女をソファに座らせたまま、食べさせるだけの予定だった。ただ予想よりも、フロイドと彼女は体格差があって、その距離感がどうにもフロイドには面倒だった。彼女のことを、自分より幾つか年下だと思っていたフロイドは躊躇なく、彼女を自分の膝の上に乗せて、「あーん」と笑顔でスプーンを口元に近付けた。

 さっきまで大人しかった彼女が顔を真っ赤にして、抵抗するものだから、フロイドは首を傾げる。

「なに。今さら恥ずかしがってんの?」
「だ、だって、
 流石に……同い年の男の子に、こんなことされるのは恥ずかしい!です!」
「は?同い年?」

 キュー!キュッキュッ!ふとテーブルから、可愛らしい鳴き声が聞こえて、フロイドは視線を下げる。そこには、彼女使い魔だというハムスターもどきが、小さな両手で再び彼女の学生証を掲げていた。

「わ、マジじゃん。ナマエマジで俺と同じ年なの?全然見ないんだけど」
「……誠に遺憾ではありますが、その点について同意します」

 眉間に深い皴を刻んで、幼い顔つきに似合わない表情をする彼女に、フロイドは我慢できず思い切り笑い出した。


「もーごめんて。ほら、美味しい美味しいオムライスを食べて機嫌直して?」
「……美味しいです」
「そりゃあ、そうだよぉ。俺が作ったんだもん」
「うわぁ」

 彼女はまた眩暈がする。フロイドという男の子のポテンシャルの高さに、くらくらする。同い年なのに、こんなに背が高くて、あんなに運動神経が良くて、料理まで出来てしまうとは、末恐ろしい。本当に同じ高校生か?彼女はもぐもぐと口を動かしながら、素直な感嘆と、言葉にし難い劣等感が混ざり合って、何とも言えない表情になってしまう。こんなことなら、せめてもう少し大人っぽい恰好してこれば良かった。

「どうしたの」
「いえ。とっても大人っぽい雰囲気のカフェなので、私すごい場違いだなぁって」

 すっかり気後れしてしまった彼女はフロイドの大きな身体に隠れるように、背中を少しだけ丸める。彼女の言葉に、フロイドはきょとん、として、にやりと笑う。ポケットからマジカルペンを取り出すと、くるくると遊ぶように回して、最後に彼女の額にコンっと軽く当てる。

「……?」
「いいじゃん〜。俺ってばハイセンス」
「え、え?」

 キュイ!キュー!彼女の使い魔が興奮した様子で鳴いて、バッグから手鏡を取り出して、彼女へと手渡す。彼女はありがとう、と使い魔の頭をこちょこちょ、と撫でて、鏡を覗き込む。そこには、自分なのに、自分じゃないような自分が居て、目を丸くする。鏡の中の、少しだけ大人っぽくなった女の子も、同じような表情する。ふんわり、と巻かれた髪に、色付いた瞼と唇は彼女の顔に馴染んでいて、でも明らかに雰囲気が違う。彼女が顔の角度を変えて夢中になっていた。頬を上気させて喜んでいる姿がやけに、きらきらとして見えて、フロイドは瞬きを繰り返した。そんな彼女の姿をフロイドがぼけぇっと見守っていると、テーブルに置いていたフロイドの手をぺしぺし、叩く何かが。

「んぁ、なぁに」

 フロイドが視線を向けると、使い魔は自分の頬に小さな手を押し当てて、嬉しそうにフロイドを見上げていた。

「もしかして、お礼でも言ってんの?」

 キュー!と使い魔は大きく頷いて、フロイドの手の甲から器用に腕にかけて登っていく。

「うわ、くすぐってぇ」
「あ、こら、フロイドさんにじゃれちゃダメでしょ」
「いいのいいの。かわいーし、ねえ?」

 フロイドは自分の肩に乗って満足そうにしている使い魔に、首を傾げる。使い魔も、同意するように、こてん、と首を傾げた。彼女はその様子に口をもごもごとさせて、渋々引き下がる。

「で、どお?気に入った?」
「は、はい、めっちゃ大人っぽくて素敵です!」
「うんうん〜素材がいいからねえ」
「え」
「それに俺のセンスもいいし、はい、あ〜ん」
「!」

 彼女はフロイドの言葉にギョッとして、口を大きく開く。その瞬間、タイミングよくスプーンを入れられて、大人しくむぐむぐと租借する。

「あと、フロイドさんってやだ」
「えっと?」
「敬語もやだ」
「……ど、どう」

 彼女はどうしてですか?と続けようとして、口を噤む。またゆるり、と垂れ下がった目元は優しそうなのに、フロイドに逆らってはいけない、機嫌を損ねてはいけないと、彼女の脳内で警告音が鳴り響いた。フロイドの肩でくつろいでいた使い魔も、逆らうんじゃない!とでも言いたげに、大きく首を横に振っている。彼女はぎこちなく頷いて、口を開く。

「わ、分かったよ……フロイドくん」
「えー、くんもいらねぇんだけど」
「よ、呼び捨てはちょっと」

 眉を下げて曖昧に笑う彼女に、フロイドは頬を膨らました。よ、良かった。怒ってないみたい。彼女と使い魔はフロイドに気付かれないように、そっと胸を撫でおろした。フロイドはオムライスの最後の一口をスプーンで掬って、彼女の口へ持っていく。

 彼女がもぐもぐと口を動かしている間、暇になったフロイドはくるっと巻かれている毛先を指に巻いて遊んでいた。彼女はオムライスが美味しいんだか、味がしないんだか、分からなくなりそうだった。まるで、恋人のように顔を覗き込んで、わざわざ距離が近づいてしまう彼女の左耳辺りの髪を触るのだ。彼女は曲がっているフロイドの右腕に、本当にフロイドくん背がデカいんだなぁと少し気が遠くなってしまった。

8、

 傍から見ると、二人は仲のいい兄妹を通り越して、ただの恋人同士の距離感になっていた。毛頭フロイドには、そんな気はない。小さな女の子を怪我をさせた罪悪感と、小動物を可愛がるのが楽しい。それだけの感情だった。彼女自身も、フロイドの一切の異性に対する下心がないことは分かっていた、分かっていたが、彼女が意識してしまうのも当然の話である。フロイドは同い年の男の子だし、チラチラとやばめな匂いはするが、彼女にとって立派な異性という事実は変わらないのだ。

 フロイド本人は当然の着こなしなのだろうが、ジェイドと違って、ゆるく開かれた襟から覗く白い肌は本当に目の毒だった。それだけで、彼女の頬は赤くなってしまうのに。膝に乗せられた上に、フロイドの大きな手は彼女を支えるために、彼女の腰に回っていて、その大きな手が動く度に、彼女は息を止めてしまう。

「全部食べれてえらーい」
「ハハハ」

 フロイドの大きな手が彼女の頭を撫でる。彼女は必死に同い年だ!と主張したつもりだったが、悲しきかなあんまり真意は伝わってないらしい。イチャイチャ(傍からやっぱりそう見える)している二人の元にアズールが訪れると、顔を真っ赤にして、フロイド!と大きな声で呼ぶ。彼女がびくっと肩を小さくして、フロイドの胸元のシャツを掴むと、フロイドは気だるそうにアズールへ振り返った。その際、彼女の腰に回っていたフロイドの大きな左手が掴み直すように、動くものだから、彼女はフロイドの胸板に顔を押し付ける。

「ちょっとーアズールが大きい声出すから、ナマエ怯えっちゃったじゃん」
「は、お前なっ、お客様……というか、女性相手に、距離感……!」

 彼女は全然アズールとフロイドの会話が入ってこない。び、びっくりした。変な声出るかと思った。彼女がフロイドの胸に隠れたのはアズールが怖かったからではなく、フロイドの大きな手にどうしようもなく‘異性’を感じてしまって、反応しそうになったからだ。アズールは理解出来ないフロイドの距離感に、頭が真っ赤になって、言葉が出て来なかった。ああ、もっと早く二人の元へ来ればよかったと、強く後悔した。

「でぇ、何の用?まだデザート食べてないんだけど」
「……コホン、ナマエさんの持ち物を持って来たんですよ」
「私のですか?」
「はい。こちらの魔法道具なんですが、
 あなたに治癒魔法をかけた途端、壊れてしまったんです。
 調べさせて頂きましたが、
 この魔法道具には随分と強いまじないが、かかっているようでした」
「!」
「この魔法道具がなければ、
 今頃ナマエさんはただの骨折どころではなかったでしょうね」

 アズールの持っているハンカチの上で、粉々になっている髪飾りは今朝シンシアに貰ったものだった。彼女はまさか、とフロイドをじっと見上げる。フロイドは「なぁに?」とゆらりと目を細めて、首を傾げるだけだった。彼女はシンシアからのお告げの、命の危険は不良から追いかけられることだと思っていた。最悪の事態、命の危険……、フロイドくんのことだったのか!確かに、アズールにも、フロイドにも、やけに綺麗に折れていると言われたが、まじないのおかげだったとは。

「あ、アズールさん……」
「はい」
「その魔法道具がなかったら、私って……」
「全身複雑骨折に近い状態だったと思いますよ。
 こんなデカいフロイドに頭上から圧し掛かられたら、最悪死んでいたかもしれませんね」
「ひい!」
「大丈夫です!もしそうなったとしても」

 アズールが顔を青くする彼女に、安心させるように笑顔を作る。胸元に手を当てて、喋ろうとしたアズールに、またフロイドが邪魔をする。

「アズール本題は何なわけぇ?」
「あ、しまった。僕とした事が……そう、
 この魔法道具はどこで手に入れたんですか?」
「えっと、友達から貰いました」
「は?お友達から?」
「はい、今日は命の危険があるからって」
「すみません。宜しければ、そのお友達の名前を伺っても?」
「えっと、シンシアって言います」
「……まさかアムレアン家の?」
「そ、そうです」
「なるほど。それなら、納得できますね……
 アムレアン家は占星術の大家として有名ですから」

 アムレアン家とは、と語り始めたアズールの喋りに彼女が圧倒されていると、腰に回っていたフロイドの手が上へ移動して、彼女の左肩を掴んで抱き寄せる。ひい、彼女は内心悲鳴を上げて、なんとか表情には出さずに耐える。フロイドはアズールに適当に相槌を打つと、内緒話をするように、彼女の耳元に口を近付けた。

「そうなんだぁ。ナマエ知ってたの?」
「知らなかった……シンシアって凄かったんだ」

 彼女はどうか頬が赤くてもバレませんように、と祈りながら、首を横に振る。アズールは目の前の行為については考えることは止めて、彼女に向って二枚のチケットを差し出した。えっと……?と彼女が戸惑いながら、アズールを見上げると、アズールはニッコリと綺麗に微笑んだ。

「宜しければ、是非そのお友達とモストロ・ラウンジへ遊びに来てください。
 こちらは割引券になります」
「あ、ありがとうございます」
「うわーアズールはナマエのことダシにしようとしてるー」

 フロイドの茶々にアズールは眉をぴくり、と動かすが、深く息を吐いて、もう一度彼女に向って綺麗に微笑む。

「では、残りのデザートをお持ちしますので、少々お待ちください」

 彼女は立ち去っていくアズールに向って、軽く頭を下げて見送った。フロイドはナマエって一々おおげさ〜と思いながら、彼女の手の中にあるチケットを抜き取る。彼女がびっくりして、フロイドを見上げると、チケットをひらひらと揺らしながら口を開く。

「シンシアって子だっけ?無理に連れて来なくても、いいからね?」
「う、うん」
「あ、でも、ナマエは来てね。今度はモストロ・ラウンジのメニュー食べに来て」

 彼女がこくこくと二度ほど頷くと、フロイドは満足して、チケットを彼女のバッグへ魔法で入れておいた。

9、

 デザートはイチゴパフェだった。彼女はそのときに発覚したフロイドは左利きという事実に、また何とも言えない劣等感に襲われた。フロイドくんずっと右手で、あんな器用に食べさせてくれていたのか!「ふ、フロイドくんは天才肌なんだね」と彼女がそう言うと、フロイドは「よく言われる〜」と笑うだけだった。フロイドはデザートを食べ終えた彼女をまだ抱き抱えて、ゲストルームへと向っていた。

「はぁい、到着〜!」

 フロイドは彼女をベッドへ下すと、アズールから受け取っていた魔法薬を彼女へ渡した。彼女が小瓶の中を覗き込んで、左右に揺らすと、紫色の液体がちゃぷん、と揺れた。彼女は今まで魔法薬を飲む機会があまりなかったので、どうしても躊躇ってしまう。魔法薬は不味いことで、有名だからだ。小瓶をじっと見つめて、中々飲もうとしない彼女に、フロイドはくすり、と笑って、ベッドへ座る。

「ふ、フロイドくん?」
「この魔法薬ねえ、めっちゃ苦いの」
「……」

 彼女は思い切り眉を寄せて、渋い顔をする。フロイドはケラケラ笑って、彼女の手から小瓶を取り上げる。

「だから、俺が飲むの手伝ってあげる」
「エ」
「はぁい、口を大きく開けてぇ?」
「むっ!?」

 フロイドは小瓶を持ってない方の手で、彼女の鼻を遠慮なく摘まむ。彼女は反射的に口を開けてしまう。その隙に、フロイドは彼女の口の中に、魔法薬を流し込んだ。舌に触れた途端、味わったこともない苦さが口の中に広がる。彼女は目に涙を浮かべて、フロイドの手から逃れようと顔を振るが、フロイドの力に適うはずもなかった。フロイドは空になった小瓶を適当に転がすと、そのまま彼女の口も大きな手で覆う。

「んー!ん!?」
「苦いねぇ、ヤだねぇ、はぁい、ごっくんして」
「んぅ!んんっ!」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。頑張れ〜」

 何にもだいじょうぶじゃない。彼女は息苦しさからも、苦味からも、逃れたくて、必死で喉を動かした。白く細い喉が、こくこくと五回ほど動くのを見届けて、フロイドはやっと彼女から手を離した。その瞬間、彼女の身体から力が抜けて、ベッドにぱたり、と倒れてしまう。まるで全身麻酔にかかったように、意識が重たくなってきた。

 フロイドは今にも眠りそうな彼女の頭を撫でて、口直しの水でも持ってきてやろうとベッドから腰を上げる。つん、と弱い力に、フロイドは後ろへ振り返った。そこには、弱弱しい表情で、フロイドを見つめる彼女が居た。フロイドはニヤニヤと笑うと、彼女の前髪を上げて、顔を覗き込む。

「なぁーに?ナマエ寂しいの?」
「……さみしい」
「素直だねえ、可愛いねえ」

 フロイドはニヤニヤとした笑みから、優しい笑みになると、彼女と同じように、ベッドへ転がった。ナマエって、同い年です!って何回も言うけど、やっぱり小さい子と変わんないじゃん。フロイドは腕を枕にして、もう瞼を閉じてしまっている彼女の頬を撫でて、ぽんぽん、とお腹を軽く叩いた。たしか、こないだ見たテレビでやってた。陸の親子はこうやって寝るって。何がいいのか分かんねぇけど。そうしている間にも、フロイドも眠たくなってきて、そのまま抵抗するつもりもなく、寝てしまった。

10、

「……ん?」
「ナマエちゃん?」

 彼女が目を覚ました場所は、寮の自室だった。あれ?どうして?フロイドくんに薬飲まされて……あれ?彼女は額に手を付きながら、起き上がって、考えようとするが全然分からなかった。どうして、記憶が途切れてるんだろうか。もう一度、シンシアに名前を呼ばれて、彼女はようやく我に返った。

「具合はどう?」
「普通かな」
「どこか痛いとか」
「ううん、ないよ」
「そう、良かった。でも、びっくりした……ナマエちゃん帰ってきたと思ったら、
 NRCの男の子にお姫様抱っこで運ばれて来るんだもん」
「!?」

 シンシア曰く、貧血で倒れた私をフロイドくんが介抱して、寮まで連れてきたのだと言うではないか。見事に、捏造されている。まあ、大事にしたくないから、別にいいけど。彼女はベッドに再び倒れて、はあとため息をつく。今日は疲れる一日だった。再び瞼が下りそうになったとき、お腹に衝撃を受けて、彼女はせき込んだ。

「こら、ナマエちゃんは病人だから乱暴しちゃダメ」

 キュー!キュイキュイ!慣れ親しんだ使い魔の声だった。身体を起こして、お腹から転がった使い魔を抱き上げると、使い魔はスマホを抱き込んで、彼女をじっと見つめてくる。彼女はスマホを使い魔から貰って、さっそくロックを解除する。すると、見慣れないアイコンからメッセージが一件あった。え、フロイド・リーチ?わ、私フロイドくんと連絡先交換したっけ?それに、スマホちゃんとロックかけてあったよね?彼女は真顔でスマホを見つめて、深く考えてはいけない気がして、何も考えずにメッセージを開く。

『ナマエ具合どお〜?』
『今日はホントごめんねえ』
『あ、これ、忘れ物〜!
 俺来週の週末モストロ・ラウンジのシフト入ってるから、
 そんとき取りに来て〜』
『(青いビニール袋の写真)』

「あ!」
「ど、どうしたの、ナマエちゃん」
「店舗特典〜!」

 なんと、彼女は命を張って買いに行った漫画(店舗特典付き)をモストロ・ラウンジに忘れてしまったのである。彼女が項垂れると、使い魔はドンマイ!とでも言うように、小さな手でご主人の手の甲を叩くのであった。

 ナマエとフロイドが再会を果たし、発展するかどうかはまた別の話である。
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