2 焦点



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「子分見てるかー?」

 数メートル上空から、グリムが尻尾を揺らして彼女を呼ぶ。彼女も手をふり返して、すごいねぇと言葉をかけた。グリムは彼女の言葉に気分を良くして、さらに上へ飛んで行った。グリム大丈夫かなぁ。飛行術の授業では、彼女の相棒が一人で実践を行なっている。グリム専用の小さな箒は非常に可愛らしいが、彼女も一緒に乗るには些か小さい。グリムがもう少し箒を安定して使えるようになったら、箒のサイズを大きくして彼女も一緒に乗せてもらう予定だ。

 それまでは、バルガスの補助で記録係などをしながら、基本的な準備体操や運動は他の生徒と同様に参加する形で落ち着いた。

 今日の飛行術は他学年も合同のようだった。彼女はグリムを見上げていた視線をチラッと下げる。大きな身体が小さく固くなって、いつもの真っ直ぐな背中が前へ傾いていた。本当に参っている表情は非常に珍しかった。彼女の顔は自然と困り顔になっていた。グリムを見守る表情に似ているが、彼女の頬は薄ら火照っていた。彼女は自分の胸を押さえて、内心苦笑い。怖くて、可能ならば距離を置きたいと思っていた先輩をこんな風に思うだなんて。

「監督生見過ぎ」
「わあ」

 急に肩に体重をかけられて、彼女は転びそうになった。エースが肩を組んできたようだった。彼女はびっくりした、と目尻を吊り上げるが、全然怖くない。エースは悪い悪いと口先だけで、彼女に聞こえるだけで内緒話を続ける。

「マジなの?」
「え、えぇ?マジって?」
「付き合いてぇの?」
「……想像できる?」

 質問に質問で返すな。エースはそう言いたかったが、彼女が寂しそうな顔でそう言うので、大人しく口を噤んだ。

「あー、正直トレイ先輩と付き合ってる方がしっくりくる」
「え」
「監督生が、な」
「ああ、まあ、可愛がってもらってるけど」

 年下。男子校唯一の女の子。身寄りなし。面倒見のいい兄貴分のトレイ・クローバーの庇護欲をくすぐるには十分な条件だ。そのおかげで、彼女はトレイにとても気にかけて貰っている。ハーツラビュルはこの世界での実家のような場所だ。対等に接してくれるエースとデュース、世間について教えてくれるケイト、勉強を心配するリドル、生活を心配してくれるトレイ。まさに、家族である。

「でも、まあ、趣味は良くないと思う」
「私エースの思ったことそのまま言ってくれるとこ、好き」
「……」

 素直・真面目・お人好しの三拍子を兼ね備える彼女の、真っ直ぐコミュニケーションはエースの背中をしょっちゅうむず痒くさせてくれる。今日もまたその被害にあったエースは無言で、彼女の髪の毛をぐしゃぐしゃにしてやった。彼女は何するの!と言いながら、笑っていた。

 なんだかんだ言って、恵まれている。だから、私はここで踏ん張っていける。心に根付いた小さな芽は日に日に大きくなるが、その花が咲くことはない。でも、それで良かった。理不尽やどうしようもない不安と戦う毎日の中で、自分だけのささやかな幸せを大切にしたかった。いつか自然と枯れてしまう、そんな日が来るまで。



 気持ちを告げる気はない。彼女が自分の気持ちを自覚したときに、決めたことだ。ただ、だからと言って、現状に心から満足している訳ではないし、何も感じない訳ではない。矛盾しているが、彼女の素直な気持ちや考えはそうなのだから仕方がない。だから、姿が見れれば気分は上がって、言葉を交わせればとても嬉しくて、気にかけてもらえれば天にも昇る心地なのだ。



 彼女はジェイドに夕食を作って貰ったことをきっかけに、ジェイドから優しくされるようになった。

「監督生さん、少し休んで行きませんか?」
「じぇいどせんぱい」

 彼女はのろのろと廊下を歩いていた。その横顔はゴーストのように真っ白だった。中庭のベンチで読書をしていたジェイドは自然と彼女の元へ駆け寄っていた。振り向いた彼女はやはり顔色が悪く、覇気がなかった。ジェイドは彼女の答えを聞く前に、一言断って彼女の肩を支えて歩き出した。彼女は今まで一番近い距離にきゃあきゃあ悲鳴をあげる自分と、早く座りたい自分で脳内が騒がしくなった。

 ジェイドは彼女をベンチへ座らせると、ブランケットを膝に掛けてくれた。どこから出した?と彼女は一瞬思うが、すぐに魔法かと納得した。

「今温かい飲み物を準備しますね」
「ありがとうございます……」

 ジェイドが彼女を気に掛ける理由は、シンプルに彼女が女性だからだ。その証拠に、普段のふたりは先輩と後輩の関係でしかなかった。それこそ、エースやデュースへの接し方と大差はなかった。小バカにもされるし、嫌味も言われる。そんなジェイドが彼女に気に掛けるときは、彼女が体調を崩しているときだった。そのときだけは、ジェイドはとても甲斐甲斐しく優しかった。

 彼女の胸はしくしくと痛んだが、同時に確かに幸せだった。彼女にとって、ジェイドはまるで麻薬のような存在だった。最初は一言挨拶が出来れば、目が合えば、少し同じ時間を過ごせれば、なんて思っていたのに。少しの”幸せ”が積み重なって、彼女は次いつ”幸せ”が訪れるのだろうと思うようになった。当てもない”幸せ”に縋る自分はどこか惨めだった。



「監督生、顔色悪いけど大丈夫か?」
「だいじょうぶ。
 今日はもう座学だけだし」

 デュースの言葉に、彼女は笑い返した。心の中で、デュースに謝った。末期症状だった。体調を悪くすると、先輩が優しくしてくれる。しかも、次の授業は二年生と合同だった。あわよくば、先輩に気かけて貰えないだろうか、と考えて、教室の扉ばかり気になっていた。そんな浅はかな自分を恥じたのだ。

 デュースは彼女の言葉に顔を顰めて、無理するなよとそれ以上は言わなかった。彼女は体調が悪くても、我慢してしまう。我慢できない、と感じて、やっと周りに助けを求める。デュースから見れば、悪化する前に言えば良いのにと思う。デュースはブレザーを脱ぐと、彼女の肩にかけてやった。彼女は目を丸くして、デュースを見つめる。

「身体冷やさない方がいいんだろ?」
「……ありがとう、デュース」
「気にするな。
 ……今日の宿題教えてくれたら、助かる」

 途中までかっこ良かったのに。小さな声でぼそり、と言うデュースに彼女はくすくす笑って、もちろん、と了承した。魔法は教えられないけど、一般教養なら彼女は人並み以上だった。デュースとは持ちつ持たれつの関係を成立できている。デュース的は不本意だろうけど。

「おや、監督生さん寒いんですか?」
「あ、はい、ちょっと」
「では、こちらをどうぞ」

 やっぱり。ジェイドは教室に入ってくるなり、彼女の姿を見つけると声を掛けてきた。明らかに彼女のものではないブレザーを見て、寒そうにしてると判断したらしい。ジェイドはまた魔法でブランケットを出すと、監督生に手渡した。受け取るとき、少しだけジェイドの指に触れた。青白かった彼女の頬の血色が良くなる。彼女はそんな頬を隠すように、「ありがとうございます」と頭を下げた。

「お大事にして下さい。無理だけはなさらないで」
「はい……」

 特別でもない、何でもない言葉。でも、想い人からの言葉は、自動的に特別な言葉になってしまう。今日もまた彼女の胸はしくしくと痛みを覚えたが、やっぱり味をしめた幸せは手放せそうになかった。



 ある日、彼女は課題の為ではなく、息抜きの為に図書室を訪れていた。彼女はパッケージ買いと同じ要領で、表紙の印象だけで一冊の本を手に取った。小説コーナーにあった本だ。どんなストーリーだろうか、とワクワクしながら椅子へ座った。ページを捲るごとに、彼女の眉間に皺が増えて行った。内容を四分の三ほど読んだころで、彼女はパタン、と本を閉じた。

「……」

 略奪愛だった。もしくは寝取り、とも言う。第一印象だけで選んだら、まるで昼ドラのようなドロドロした愛憎劇物語だった。まだ自分には早い話だな、と彼女は判断して、本棚へ返しに行こうとした。そのとき、大きな気配を感じて振り返った。そこには、興味深そうに彼女を見下ろすジェイドの姿があった。彼女が声も出さずに悲鳴を上げると、ジェイドはにっこりと笑う。

「監督生さん、こんにちは」
「こ、こんにちは」
「驚かせてしまって申し訳ありません。
 とても集中されていたようですから、声をかけるタイミングを見失ってしまって……」

 ジェイドが眉を下げる。彼女が心の中で、ハイ、ダウト!と叫ぶ。
実際の彼女はそ、そうですか……と引き攣った笑みで返した。ジェイドはそんな彼女の様子を特に気にすることもなく、不思議そうに首を傾げる。顎に指を当てて、首を傾げるジェイドはとても絵になった。彼女はジェイドの仕草が大好きだった。ふふ、と笑うときに上品に口元に手を添えるところも、腰に両手を置くところも、どれも大好きだった。彼女はキュンと高鳴るチョロい胸を隠すように、本を両手で持ち直した。

「その本はつまらなかったですか?」
「エッ、そんなことは……ないですけど」
「では、どうして途中で読むのをやめしまうのですか?」
「……わ、私には早い内容だったので、
 好きな人を無理やり手に入れるとか、ちょっと分かんなくて……」
「なるほど」

 これ以上ないほど、ジェイドが綺麗に微笑む。彼女はやっちまったな、と思ったが、仕方ない。本当の事なんだから。私にこの本の考え方は理解できないし、共感もできない。ジェイドは腰を折って、彼女の顔を覗き込んだ。

「では、監督生さんは、愛とはなんだと思いますか?」
「え」
「僕は、この本の通りだと思います。
 好きなら、諦める必要はないでしょう?欲しいなら、手に入れるべきだ」

 そして、手に入れることが出来る様に動けばいい。シンプルな話だ。自分の欲求に素直になればいい。周りの目なんて関係ない。本当に愛しているのなら、他人なんかに譲るなんてこと出来ないはずだ。ジェイドの瞳は至極冷たかったが、そう主張する声には熱が籠っていた。珍しくジェイドが自分のことについて饒舌だった。普段はするりのらりと避けて、他人の弱みや情報を引き出すために饒舌になるくせに。

「色んな考え方があると思います。
 でも、私は……奪うことは愛だと思いません」
「では、監督生さんは、愛とはなんだと思いますか?」

 そっくりそのままジェイドは繰り返した。彼女はジェイドの瞳から目を逸らさなかった。ここで隙を見せたらいけない、と本能が言っている。

「私は……愛とは、相手を尊重して見守ることだと思います」

 言ってやった。彼女は鼻から深く息を吐き出した。ジェイドは身体を曲げて、腹を抱えて笑うだろうか。それとも、白けたと真顔になるだろうか。それとも、つまらないとばかりに、にっこりと笑って「監督生さんらしい答えですね」と言うだろうか。彼女はたったコンマ数秒で、色んなジェイドを想像した。自分が傷付かないために。

「……相手を尊重して見守って、その相手が誰かのものになったとしても。
 あなたはその相手を愛してるって言えるってことですか」
「え」
「……」
「誰かを支配する権利は誰にもありません。
 その相手が私以外の相手を選んでも、私が何かを言う権利はありません」

 彼女の言葉にジェイドは思い切り顔を顰めた。

「……そうですか」

 一言だけ。そう。その一言だけそう言って、ジェイドは図書室から去って行った。え?何だったの?彼女は一人図書室に取り残されて、腕の中の本を見つめた。知らない内に、彼女の頬は緩んでいた。ジェイド先輩の思う愛って、すごい情熱的なんだなぁ。いや、物騒でもあるか。彼女は初めてジェイドの本音に触れた気がして、浮かれていた。この会話の所為で、面倒な男のスイッチを入れたとも知らずに。
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