冷たい空気を感じて、目を開ける。そのまま身体を起こそうとして、立ちくらみをのような眩暈を感じ、こめかみに指を押しててしばし耐える。落ち着きを取り戻して、状況を把握しようと周りを見渡すと…、脱衣所の洗面台に向き合うナッシュさんと鏡越しに目が合う。

「やっと起きたか」
「…えっと」
「これの着方を教えろ」
「……はい」

浴衣を羽織っただけの格好でふんぞり返るナッシュさんにぼーっとした頭ながらも、ちゃんと頷く。私は脱衣所のソファに寝かされていたらしい(この旅館の部屋の構造は庶民にはとても謎なのだ)。その際にはらり、と何が落ちて寒さを感じた。どうやら気を失っている私に一応バスタオルを掛けて置いてくれたらしい。急いでバスタオルを拾って、巻く私の姿にナッシュさんは苛立ったように、眉間に皺を寄せる。

「…し、失礼します」

浴衣に触れる前に、一応一声かける。ナッシュさんは特に返事も返せず、とにかく早くしろと言う圧を掛けてくるばかりだ。自分で色々と試したのか若干皺になっている浴衣の、両袖を軽く引いて整える。…えっと、次は…確か重ねたときに左側が上だから、まず右側の襟元を内側に入れて…、浴衣越しとは言え自分からナッシュさんの、男の人の身体に触れるのは何だか気恥ずかしい。

意識してしまう自分の呑気さに呆れながら、私は何とか手間取りつつも、
ナッシュさんに浴衣を着せていく。

「…あ、あの帯は…」
「これか?」
「はい、ありがとうございます」

手に持っていたらしい帯をナッシュさんから受け取り、ナッシュさんの腰回りに通そうとするが、
…悲しことに、私の手や腕が短いため、上手く回すことが出来ない。

「…と、どかない」
「おい」
「?」

顔を上げると、顎に何か触れた…いや、ナッシュさんのお腹だ。
筋肉質なので、お腹と言うより腹筋って感じで…え、えっと。

ナッシュさんは私を見下ろして、表情を崩して、目を細める。
嫌な予感しかしない。

「俺は着方を教えろと言っただけで、着せろと言った覚えはねぇぞ?」
「あ」
「…それとも」
「ひい」

私の口から情けない声がもれる。
背中にナッシュさんの手が回って、余計にナッシュさんと密着する形になった。

「俺に抱き着く口実でも欲しかったのか?」
「…!」

にや、と口角を上げるナッシュさんの笑みは嫌味なほどに、
様になっていて、私は顔を熱くしてしまう。そうすると、ナッシュさんは余計に笑みを深めた。
そんなナッシュさんを振り切るように手を伸ばして、距離を取った。

何とか気合で帯を回して、見たこともない早さで固定し、
私はナッシュさんに浴衣を着せることに成功した。着付けを教えてくれたお姉ちゃんには感謝しかない。

ナッシュさんは自分の身体を見下ろしたり、鏡でチェックしたりして、
一通りか満足するまで見ると、私が寝ていたソファに腰を掛ける。
そして、私に浴衣を手渡ししてきた。
一応受けるけれども、その前に下着を付けなければならない。
私の裸になんて興味が無いってことは分かってはいるが、それでも着替えるときに誰かが居ることは落ち着かない。
しかも、男の人だし、ナッシュさんだし。

ナッシュさんの方を向く訳にもいかないし、仕方なく鏡の方向へ、
この無駄に大きい鏡に自分の身体が映るのも辛い。
だって、友達の前でブラならまだしも、パンツを履く姿って中々恥ずかしいと思う。

半ばヤケになって、カゴの中に入れた下着を急いで身に付ける。
ナッシュさんは居ない。ただのマネキン。
心を無にしたまま浴衣を羽織ったときに、ナッシュさんが動いて、私はびくっと肩を揺らしてしまった。

迷いなく近づくと、私の背中にぴったりと寄り添って、肩越しに私を見下ろして覗き込む。
ナッシュさんの指が胸元に伸びたと思ったら、ブラと肌の境目をなぞって耳に囁かれた。

「浴衣は下着なしで着るものじゃないのか?」
「…!」
「…」
「したぎき、きます!」

いや、その文化の、えっと、知識がたぶん、と弁解しようと思っても、口が回らない。
安直な答えを返せば、余裕のない私の反応は分かり切っていたのか、
だろうなと、ナッシュさんは肩をすくめて見せた。
その反応に反抗したい気持ちが沸き上がるが、返り討ちに遭う想像しか出来ないので、
我慢するしかない。

「わっ」

唐突に背中を押されて、目の前の洗面台へ手を付いてしまう形で転ぶことを回避したのに、
取り押さえられた犯人のようにナッシュさんが私に体重を掛けてくるから、動けなくなる。
流れ作業のように、左袖を脱がされ、顎を掴まれて無理やり鏡を見ることになった。
腕を捻りあげられて、痛みに目を瞑りそうになるが、私は鏡の中と自分が目が合い、目を疑う。

首筋から肩にかけて、連なるようにある赤いあと…、こ、これって、きすまーくって奴?
瞬きを繰り返せば、ナッシュさんはやっと気付いたかとでも言うように、
鼻を鳴らした。

「…それ着ちまったら、丸見えだな」
「…!」

驚愕して固まる私に、ナッシュさんは悦に浸るように目を細め、呆気なく私を解放する。
それとは言わずもがな浴衣のことだろう。
浴衣なんて、首元が無防備だ。髪だってまとめてようと思ってたし。
ナッシュさんはしたいことをして満足したのか、首元を押さえて呆然としている私を置いて、
脱衣所が出て行こうとする。

「…ああ」
「…?」

力なく振り返れば、ナッシュさんは自分の浴衣の首元から覗く刺青を指を差して、
笑う。

「おそろい」
「…」

今度こそ、ナッシュさんは脱衣所を出て行った。
私は魂を吸い取られたように、その場で座り込んでしまった。

***

「…ちっ」
「…」

私は盛大な舌打ちを喰らった。大変悪役染みた舌打ちに一種の感動すら覚えそうだった。
たぶん、ナッシュさんに対して耐性が出来て来たんだと思う。

髪をフルスピードで乾かして、何とか試行錯誤することによって、
私は見事にナッシュさんに付けられたき、…きすまーくを隠して見せたのだ。

恐らく、脱衣所から出て来た私は若干ドヤ顔だった。

***

「あ…」

施設を見て回りたいと言うナッシュさんに同伴する形で、私はナッシュさんと旅館を歩いていた。
普通の温泉は入れないので、素通りしそうになったときに、私は足を止めた。

一つの卓球台。
旅館らしい娯楽がちらほらとある、スペースのようだ。

「やりたいのか?」
「…え、えっと、個人的に旅館と言ったら、たっ…てーぶる、てにす?です?」
「…」

アジアの中では、卓球って国民的スポーツだと思うけど、外国?(そもそもナッシュさんはどこ出身なんだろう)はどうなんだろう。そう考えて思わず、英語が出ててしまった。めちゃくちゃ下手な英語。

「…!」
「下手くそな英語なら、口開くんじゃねぇよ」
「…すみません」

いきなり頭を掴まれて、睨まれたと思ったら、聞いたこともない低い声で、怒られて私はすぐに謝った。萎縮する私を呆気なく開放すると、ナッシュさんは興味を卓球の方へ移して、卓球台に近付いて行った。

本当に一瞬の出来事だった。なのに、心臓がばくばくして鳴り止まない電話のように、激しく波打っている。怖い。そうだ、この人は怖い人なんだよ。掴まれたときに触れた米神が、じんじんとしていて痛い。私は浴衣の上から心臓を押さえて、泣きそうになった。

予想外に乱暴に触れてこないけど、それはきっと私を気持ちよくさせる、ためだけであって。
気を許したとか、そんな生易しいものじゃない。

「おい」
「…」
「卓球やっぞ。相手しろ」

びくびくしても、ナッシュさんは気にする素振りを見せることなく、ラケットを手に取って、
くいっと顎で示す。反対側のコートに行け、と。

私は頷きながら、言われた通りにする。

ふと、思う。
ナッシュさんは本当に自分の国の事を愛してるんだなって、誇りに思ってるだなぁって。
愛してるは違うかもしれないけど、きっと誇りに思っているのは本当だと思う。

高校生のとき、現代文の先生が言っていた。日本人は何でも外国の文化を受け入れて、自分たちならではに改良すると。でも、どこか…フランスだったかな、そんなことしないって。日本人は文化の一つである、言語。 横文字を躊躇なく言葉にするけれど、フランス人は自分の国の言葉を誇りに思って、愛しているから、外国の言葉を口にしないって、そんなことを言っていた。

当時はピン、と来なかったけど、ナッシュさんの傍に居て何となく分かった気がする。ナッシュさんは自分の国のことを本当に想っているから、下手なものを見せられると単純に嫌なんだろうなぁって。

「…!」
「なんだよ」

ラケットを構えたのはいいけど、ナッシュさんを怒らせたし、どんなボールが来るのかと思ったら、
普通の緩やかな曲線を描く打ちやすいボールだった。
驚きながら打ち返すと、ナッシュさんは訝し気に眉を寄せたが、私が考えたことなんてお見通しらしくて、
ふん、と鼻を鳴らす。

「お前みたいな奴相手に、本気を出す訳ねぇだろうが」
「…(そりゃそうだ)」
「たかが娯楽でよ」

しばし、軽いボールの音が響き渡った。

「…はあ、うえ、え」
「どんだけ体力ねぇんだよ」

本気出さないって言った癖に。
あれから只管長いラリーに付き合われて、見っともないほどに、息を乱すことになった。
卓球台の下で息を整えていると、俯いた視界に大きいスリッパが目にはいって、
ぐいっとわきの下に手を入れられて、持ち上げられた。

「…はあ、え?」
「…」

自動販売機が並ぶ狭いスペースに押し込められたか、と思うと、
ナッシュさんは私の浴衣に遠慮なく触れて来た。
え、こんな所で、嘘でしょ。
確かにこの時間帯は、あまり人が居ないけれども、公共の場!
抵抗しようと手を上げた。

「動くな」
「…」

瞬時に、制止の声を掛けられ、つい言う事を聞いてしまう。
ナッシュさんは手際よく私の浴衣に触って、引っ張ったりして、整えると、
満足そうに頷く。

…どうやら、着崩れを直してくれた、らしい。

「よくこの間に入れるな、お前」
「…」

入れたの貴方ですけど!
思わずつぶやくと言った様子のナッシュさん。
恐らく入るだろう的な感覚を、人で試すの辞めて欲しい。

「…ありがとうございます」

浴衣を押さえながら言えば、ナッシュさんは何でもないように言う。

「これくらい、見ていれば出来る」

ナッシュさんは私が思っているより、ずっと器用で飲み込みが早い人なのかもしれない。

***

一通り見て回ると、なかなかいい時間になっていた。
部屋に戻った瞬間に座り込む私にナッシュさんは情けねぇとでも言いたげな
顔をして、見下ろす。
貴方の所為ですけど…?言わないけど。

ナッシュさんと外を歩き回ると言うのは、ずっと神経を使っているような、そんな気がする。

部屋をノックされて、当たり前のように、私が対応すると、
女将さんが顔を出した。

「あ、はい、お願いします」

分かりました。と頭を下げる女将さんに連れられて、私も頭を下げる。
振り返ると、ナッシュさんが膝を立てて座っていて、目を逸らしてしまう。
ナッシュさん開けてます。

「あ、夕飯運んでくれるそうです」
「…ここで食うのか?」
「そうです」


だ、誰か助けて。
さすが老舗の旅館の夕食とても美味しい。新鮮な魚介類が多くて、味わうつもりでもぱくぱくと食べてしまう。

なんて、豪華な夕食だけ堪能出来たら幸せだろうか。

「これは……?」

和食には場違いなフォークやスプーンが並べられて居たようで、ナッシュさんはフォークを持って首を傾げる。
視線を向けられ、私は自分の食事を確かめるがフォークは置いていなかった。

「えっと、お箸では食べにくいと思われたのでは……?」

しどろもどろに説明をすれば、ナッシュさんは挑戦状を叩き付けられたようにぴくりと、片眉動かした。
嫌な予感しかない。
フォークを折る勢いで掴んだと思ったら、まさかのデジャブ。

「箸の使い方教えろ」
「……はい」

もう私は間違えないぞ。
ナッシュさんに持ち方、動かし方を教える、だけ。それだけ。決してナッシュさんに触れたりしない、うん。
一通り持ち方も、動かし方も教えた。なんだか、保母さんになった気分だった。
力の加減が難しいのか、やけに震える手で箸を掴む大きな手に、ちょっと胸がくすぐられたことは見ないフリだ。

「…」
「…」

つる、っと箸先からお刺身が滑る度に、ナッシュさんの青筋が増えていくようだった。

「おい」
「…はい」
「こっちに来い。
 同じ向きで見た方が分かりやすい」

まさかのご要望に私は自分のお皿とお箸を持って、ナッシュさんの横で食べることになった。
座椅子があるのに、わざわざ畳の上に座ってご飯食べるって。私いじめられっ子みたいだ…。
いや、この場合はいじめられっ子なのだろうか…。

なんで食べていることを、こんなにガン見されているんだろう。まるで弟子が必死に師匠から技を盗もうとしている、みたいな感じがする。そんなこと言ったら、ナッシュさんに何されるか分かんないけど。

「…」
「…」

不意に、ナッシュさんは私のお皿からお刺身を取った。それは見事に、お箸を使いこなしていた。私はすぐにナッシュさんを見上げて、お皿とお箸をテーブルに置いて、
拍手を送った。ナッシュさんはいつものように意地悪な顔をしていたけれど、私の行動に豆鉄砲を食ったような顔をするので、私も我に返って笑顔のまま固まってしまった。

「バカにしてんじゃねぇよ。このくらいで」
「い、いや…あ」

ナッシュさんが自分のお皿に手を付けようとして、つるっとお刺身が滑る。
私は口を手で押さえた。ナッシュさんは箸を握りしめた。

「おい」
「…はい」
「食わせろ」

痺れを切らしてしまったらしい。
無防備に口を開けられ、私はナッシュさんの態度に首を縦に振って、ひたすら無心で食事を運び続けた。
向けられた唇と舌先で一瞬思い出しかけた夜のことは忘れたい。

ナッシュさん負けず嫌いっぽいのに、空腹には勝てなかったのかな…?

***

「いいお湯〜…」

私は一人で広い温泉を堪能していた。
威圧感が半端ないナッシュさんも居ないので、心も身体ものびのびしていて、
久々の一人の時間って感じだ。
ナッシュさんは誰かから電話が掛かって来て、私が聞いているとまずいのか、
部屋から出て行ったのだ。
その隙に逃げようとしたが、相変わらずの凄みで釘を刺された上に、
お姉ちゃんのこともあるから、私は大人しく部屋で待っていた。
待っていたが、中々帰ってこなかったので、温泉に入って先に寝させて貰うことにした。

だって、昼間あんな事をされて、卓球も付き合わされて、私の身体はくたくたです。

なんだか、ナッシュさんと居ると疲れる。
怖かったり、色っぽかったり、意外に優しく扱ったり、一貫性がなくて、
私だけ一々反応して、酷く不安定だ。

気まぐれに吹く風は少し冷える。私は温泉に顎まで浸かって、ちょっと溺れかけた。

「…うん、あの人気まぐれなんだ」

私は自分の呟きに、頷いた。
きっとナッシュさんは私のことを好きでも嫌いでも、ないし、私に好意を持たれても持たれなくても、どっちでもいい。だからこそ、好きにできる、好きにされる関係なんだ。まるで、主従関係だ。私から好きにすることは出来ないし、私だけが囚われている。

考えれば考えるほど、異様な関係、異様な空間に今私は居るんだ。

早く帰りたい。

***

「…おい」

襖を開けて、ベッドがある部屋へ行ってみれば、彼女はとっくの昔とでも言うように、すうすうと聞き慣れた寝息を立てて、寝ていた。また、丸い後頭部だけが見えて、潜っている所為で顔は見えない。

あの腹切りショーのオッサンが長電話して来た所為で…。

ベッドにわざと音を立てて座ってみても、彼女は相変わらず穏やかに寝ている。何処までもバカみたいに無防備な彼女に呆れながら、脱力してしまう。出鼻を挫かれると言う事はまさに、このことだろう。

「…ぜってぇ、明日泣かす」

- ナノ -