ふたりの世界 | ナノ
夏休み中に行った短期バイトは、御中元の箱詰め作業だった。単調な作業は案外自分に向いていたらしく、全く苦にはならなかった。その事を覚くんに話すと、彼は顔を歪めて「俺には絶対に無理」と心底嫌そうな顔をしたのが面白かった。

旅行の行先は隣県の岩手県。目的地は世界遺産。宿泊先は借りた本にお勧めとかかれていた旅館。バイトの給料は交通費に宿泊代、旅館での食事代を入れると少し足りないくらいで、覚くんには秘密で私のお年玉やら入学祝やらでもらった貯金から少し足した。そうやって順調に準備を整え、あとは当日がくるのを待つだけ。
楽しみだねと日に日に増す期待感を、覚くんと二人、隠すことなく「楽しみだ」と口にして過ごした。そして旅行の三日前。朝、いつもの待ち合わせ場所で覚くんを待つがなかなか姿が見えない。たまに覚くんが遅れることはある。けれどそういったときは必ず連絡を入れてくれる。だからなにかあったのかと私は迷わず電話を鳴らした。

「ごめんね、ナマエちゃん」

電話越しに聞こえた覚くんの声は酷く掠れていて、その一言でことの顛末が容易に予測できた。

「覚くん、風邪? 大丈夫?」
「今ちょっと……ヤバイ」

でも旅行までには治すから、と力なく言う彼に迷わず私は旅行の中止を提案した。

「なんで!? 俺は大丈夫だヨ? 一日……二日寝れば回復するヨ?」
「でも勉強は? 一日、二日ゆっくりして、旅行に行って。本当に楽しめる?」

数秒間を挟み「アァ」と低く低く唸った覚くん。

「明日には……治す。だからもう少し待って」
「わかった」

暗い声色で話す覚くんと電話を終えて、マンションへ引き返す。その長くない距離でいろいろ考え、悩んだふりをした。なぜなら、どんなに考えても行き着く私の答えは変わらない。結論は決まっていた。


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「ヒドイ!」
「うん」
「もう少し待ってって言ったのに!」
「うん」
「わかったって言ったのに! 言ったよネ!?」
「言ったね」

風邪をひいたと連絡を受けて二日後。体調が良くなったという覚くんといつものカフェで待ち合わせ、昼食を食べ終えて一息ついたころ。「旅行に間に合ってよかった」と言った覚くんに「旅行はキャンセルした」と告げての反応。この世の終わりのような顔をして、暴言と呼ぶには柔らかな批判を私に浴びせた。

「ねえ、マジなの?」
「うん」
「マジで行かないの?」
「もう全部キャンセルしたよ」

頭を抱えガンと乱暴な音を立ててテーブルに肘を打ち付ける。その嘆きを大袈裟だとは思わない。なれない勉強漬けの日々。見えないゴール。自分が前進しているのか、後退しているのか、はたまた止まっているのか。それすらもわからない。そんな状況にいる覚くん。そんなときの旅行というのは、ある意味ひのつの休憩地点で、確かな座標だったんだろう。それを失うというのは、また方向感覚を失ってしまったも同然なのではないだうか。

「俺が悪いよ。わかってる。でも一言あってもよくね?」
「どんなに話しても納得しなかったでしょ?」
「そりゃね」

でも事前にもう少しなんかあってもよくない? なんで一人で完結しちゃうの? 俺が納得しないからってそれでいいわけ?
柔らかかった口調がだんだんにきつくなる。覚くんのまとう空気が鋭くなる。けれど私にあるのは変わらない確固たる結論。ただそれだけ。いくら話し合っても、事前に連絡をいれようと、結果は変わらない。それなら無意味な時間を覚くんに強要したくない。

「ねえ、覚くん。今覚くんにとって何が一番大事なの」

覚くんからの返事はなかった。数秒の沈黙。そして両手の指をおでこの位置で組んで、伏せていた顔がゆっくりとあがる。静かに向けられた瞳は、息が止まりそうになるような感情を張り付けていた。その表情は空気をひりつかせ、私を軽蔑している。想像を絶する怒りを目の前に、私は何も言えなくなってしまった。

「今は正論きく余裕ねーわ」

私が口を閉ざしている間にそう吐き捨てて、覚くんは席を立った。乱雑に荷物をひっつかみ「待って」という私の制止の言葉を無視して、店を出る。その後を追ったけれど、あの長いに足追い付くことなく、私は覚くんが予備校に入るのを見送ることしかできなかった。


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夏の太陽から逃げるように木陰に隠れ、光っているような空を眺めた。何もせず、じわじわ地肌から汗が吹き出るのを感じる。そんな時間を過ごすのはいつぶりだろうかと、ふと考えた。以前の私なら、そんな時間を過ごすのは不安で、怖くて、焦燥感に襲われ耐えることができなかっただろうな。

「入会希望ですか?」

予備校の前でなにもせずに、ただ立ち尽くしている私を不信に思ったらしい、受け付けに座っていた婦人が夏用のカーディガンで肌を守りながら近づいてきた。

「違います。人を待っていて」
「あら、彼氏?」
「はい」

まあ、いいわね。青春だわね。なぜか嬉しそうに笑って、私を中へ招き入れてくれた。
予備校のガラス張りの中は寒いくらいに涼しく、外との気温差が、時々感じる私と覚くんとの温度差のようで、なんだか笑えた。今日みたいな失敗、こういった類いのことで覚くんの怒りを見るのは初めてではない。私の考慮が足りないとか、鈍感だとか彼は言う。けれど、私は自分の考えを間違っているとは思わない。でも覚くんの大切なものを大切にしない。それをわからない、理解できない、想像できない私は、やっぱり間違っているんだろうなとも思う。

今回も、覚くんが落胆するだろうなとは思ったし、もしかしたら怒るかもしれないとも思った。けれど「正論をききたくない」と吐き捨てるほど、怒るとは思わなかった。それは覚くんを理解していないということになるのか、私の想像力が足りないということになるか、わからない。
一人で考えても埒が明かないことは一旦保留。手持ち無沙汰になった私は、結局勉強をし始めた。そうしていると時々人の波が現れ、その度に覚くんを探し、また勉強へ戻る。そうして空の色が変わり始めた頃に、覚くんがフラフラと現れた。彼は一瞬私を見て通り過ぎ、二歩、三歩進んで慌てて戻ってきた。

「ええ!? なんでいるの!?」
「外で覚くんを待ってたら受付の人が中に入れてくれた」
「なんで外!? つか連絡してよ!」
「早く話したかったけど、邪魔になるようなことはしたかなかったから」

アァ、と低く唸り、髪の毛を乱暴にかきあげた。そして「チョット来て」と予備校の奥へと足を進める。掲示物のたくさん貼られた廊下を進み、突き当たりを左へ。そして行き止まりになったところで足を止めて、「で、話ってナニ」と冷たく言い放った。

「もう風邪が治ったなら明日、私のマンションかどこか近場のホテルで一泊しようって言いたかったんだけど、覚くんはどっちがいい?」

ぽかんと口を開けてこちらを凝視している。私はよく聞こえなかったのかなと思い、一字一句同じ言葉を繰り返すと、覚くんは「まってまって」とそれを遮った。

「勉強もできて尚且つゆっくりできるのがいいと思ったんだけど。私のマンションは覚くんが後ろめたいかな。ホテルにする? 一応いろいろ調べたけど」

私は手帳を取り出して、昨日調べたホテルの住所や宿泊料金、アクセス方法をメモしたページを広げて見せる。それを覚くんの瞳が、ひとつひとつなぞった。

「旅行いけないってスネてキレて。俺ダサすぎ」
「ダサくないよ」
「なんでナマエちゃんは怒んないの」
「なにに怒ればいいの」
「……俺の、ゲンドウ」
「正直驚いた、かな。でもムカつきはしないから、怒らないよ」

覚くんは手帳を持つ私の指ごと握り、パタンとそれを閉じた。そしてゆっくりと手を引き、立ち位置を反転させる。私に壁を背をわせて、正面から私の肩へ額を預けた。覚くんが盾となり、目隠しのつもりだろうか。確かにここは覚くんの通う予備校で、時折人の通り過ぎる声が聞こえたが、覚くんの怒りが静まったことのほうが私には重要で、他のことはさほど気になりはしなかった。

「いろいろ調べてくれたんだネ」
「ご褒美だから」
「調べてくれたのに申し訳ないけど、ナマエちゃんの親に禁止されてんのはわかってるんだけど、俺はナマエちゃんの部屋に行きたい」
「うん。いいよ」
「今日、行ってもいい?」
「今日?」
「そ。二泊すんの」
「二泊。私は……いいけど」
「ダイジヨーブ。ちゃんと勉強するし、ナマエちゃんが心配するなら、明日の半日は予備校で勉強してもいいし」

ぐりぐりと肩に額を押し付けられ、ふいに首筋に息がかかる。そしてすっかり冷えた皮膚に、柔い熱がべろりと這った。首筋を舐められたのだ。驚いて身体を離そうとしたけれど、いつの間にか後頭部と腰の辺りには覚くんの腕が回っていて身動きが取れなかった。

「だから今日はたっぷりさせて」

何を、なんてきくほど鈍感ではない。

「それにいくらでもチューしていいんでしょ?」

わざとらしく、音を立てて首筋に吸い付く唇。冷えた身体があっという間に熱を取り戻す。そして汗をかいたことを思い出し、自分の首を手で隠す。けれど覚くんはお構い無しに、今度は手の甲にキスをして来た。

「自習室のやつらがさ。可愛い子が入口にいたって噂してたヨ」

手の甲の、薄い皮へ歯を立てて、舐めて、上唇と下唇で挟む。そんなことをしながら「それがナマエちゃんだとはさすがに想定外スギ」なんて、普通に言葉を続けた。私は悲鳴を飲み込むので精一杯だというのに。次第に腰に回った手の動きが艶かしくなり、後頭部の支えは耳を悪戯に撫でる。終わりの見えないその行為に耐えかねて、私は覚くんの背中に爪を立て、骨から肉を剥がすがごとく掴んだ。

「ギャ!」

短い悲鳴を上げて離れた覚くんは、両手を上げて降参の顔。そしてペタペタと私の髪の毛を整え、自身の着ているTシャツの皺を伸ばし、真っ直ぐにわざとらしく気をつけの姿勢をとった。

「俺は一旦家に帰ってから行くね。だから先にマンションで待ってて。ベッドの上で待ってていいからね」

にんまりと笑って「続きはまた後で」そう言って、満足そうに私の手を引き、歩きだした。

寄り添えないわたしたち

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