ふたりの世界 | ナノ
「ひゃー。相変わらずなんもないのネ」

覚くんはきっちりと予備校での勉強を終えてから私の住むマンションへと現れた。

「何にもないことはないでしょ?」
「だって部屋ガラガラじゃん! つか、ナマエちゃんの実家の部屋と変わんなくね!? カーテンとか机とか。あ! ベッドも一緒じゃん!」
「使えるものは全部持ってきたから」
「テレビは!?」
「パソコンで見れるし、もともとあんまり見ないから必要性がないかなって」
「はあー。でも想像より普通の間取りだったわ」

覚くんがどんな想像をしたいたのかは知らないけれど、私が住んでいるのは一般的な広さの部屋、だと思う。ただ防犯システムと立地は凄くいいため、家賃は一般的と呼ぶよりは高い、らしい。つまり、学生が住むようなマンションではない。

「あ! このクマ! 見たことあるー」

部屋をぐるりと見渡していた覚くんが、勉強机に置かれた、以前にゲームセンターで私にとってくれたクマを見つけて嬉しそうに笑った。

「その子はそこが定位置なの。覚くんご飯、どうする? 旅行に行かなかったからバイト代あるし、どこか食べに行く?」
「自炊してるんでしょ? ナマエちゃんの手料理が食べたーい」

手料理、と言われて方眉が無意識にピクリと反応した。それを意識的に止めようと顔に力をいれると、覚くんがぎょっとした顔をして私を覗き込む。

「え、ナニ? すんごい難しい顔してっけどどしたの」
「自炊は一応しているけど、自炊と呼べるような代物ではないというか、なんというか」
「こんなに立派なキッチンと冷蔵庫があるのに!?」

どれどれ、失礼しまーす! と覚くんは元気よく冷蔵庫の扉を開けた。

「普通にちゃんとしてんじゃん。肉に魚に野菜に卵に……」

冷蔵庫を物色していた覚くんの動きが止まる。そして首を傾げて「なんか変」と、私に違和感を訴えた。その違和感の正体はなんとなく予想できる。けれどそれを私からは口にしない。どうせ言わなくても覚くんはすぐに気づいてしまうだろうから。

「アレだね。冷蔵庫の扉んとこがスッカスカだね!」

バタンと冷蔵庫を閉じて、扉の部分を指先でなぞる。覚くんの脳はきっと今、音を立てて回転を始めているのだろう。

「ナマエちゃん、味付けはどうしてんの? オール味噌あじ?」
「味噌は味噌汁用」
「普段なに食べてんの? どう食べてんの?」
「焼いたり茹でたり蒸したり」
「うん! そーネ! それが料理よネ! で、味付けは?」
「塩か、そのまま」
「そのまま?」
「うん」

はー、ナルホドねー。ちっとも納得してなさそうな顔をして、そんな言葉を口にする。

「いや、前から知ってはいたけどマジで食に興味ないんだネ」

楽しそうな笑顔を張り付けながら震えた彼の声は、捨て猫を見るみたいに哀れみを抱いている。ちぐはぐなそれは、覚くんの本心を上手に隠していた。

「好きな食べ物とかないの? 嫌いな食べ物とかさ」
「シーフードグラタン」
「へー!」
「が、好きらしい」
「らしい?」
「ブロッコリーが嫌い、らしい」

らしいって、そう言葉を区切った覚くんは、訳がわからないと説明を求めるような表情をする。不安に揺れた瞳。私の胸が摘ままれたみたいに小さく傷んだ。

「お盆は、実家で過ごしたんだけどさ」

十四日、父方の祖父の家で親戚一同集まった。十五日、父、母、弟の三人が住むあの家でバイトを理由に半日だけ過ごした。

玄関を開け、最初に目に飛び込んできたに靴たちは、もうここが私の知る場所ではないことを示すのには充分すぎる光景だった。それは足を進めるごとに色濃くなる。
何もなかったはずの場所には花柄の玄関マット。固形石鹸があった場所には泡で出てくるハンドソープが置かれていて、戸棚に並ぶ三本の歯ブラシは寄り添うようにして並んでいる。リビングのラグは道路が伸びる地図のような柄になっていて、その上を車輪のついた玩具が蛇のように渋滞をつくっていた。
すっかり様変わりしたあの家には、いつもいるはずのお手伝いさんの姿が見当たらない。彼女もお盆休みらしい。家事の全てを行っているのは、母のようだった。

夜の食事でテーブルに並んだのは、コンソメスープに生野菜のサラダ。その他に副菜が二品に、ちらし寿司とシーフードグラタン。私と父が大学の話をしていると、弟がせっせと皿を運んでいた。

「いつもありがとう」

父はそう言って微笑んだ。これがこの家の日常らしい。
皆が席に着くと母が父の目の前に置かれたグラタンを指差し、この日初めて私の前で口を開いた。

「それがナマエのグラタンよ」
「ナマエのグラタン?」
「ブロッコリーが入ってないの。ナマエ、嫌いでしょう」

別に嫌いではない、と思う。好きでもないけれど。私が家を出る前父は、なるだけ私と共に食事をするよう努めていてくれていた。食事をするためだけに、家に帰って来てくれる日も珍しくはなかった。だから私がブロッコリーを嫌いだという初めての情報に、戸惑った表情をした。けれど何も言わず、黙ってグラタンの皿を交換した。

「お姉ちゃんがグラタン好きだから、今日作ったんでしょ? お肉じゃなくてエビのグラタン!」

弟が母を見つめて無邪気に笑う。私はグラタンが好きだったのだろうか。ブロッコリーが嫌いだったのだろうか。それはいつ、何年前、私がいくつの時の話だろうか。そんなことを考えながら食べたグラタンは、牛乳の味がしたような気がする。


「まあ、母親が言うんだから、そうだったみたいだよ」
「そっかー。でもなんでそんなに興味ないの? 面倒だとか? 俺もご飯めんどいなーって時あるよ! お菓子だけでいいやーって。でもそういう話じゃないよね」

覚くんは冷蔵庫から肉と適当な野菜を取り出し、「俺が作っていーい?」と私が頷くのを確認してから調理をし始めた。一定のリズムで野菜を刻み、肉に包丁を入れる。「慣れているね」と私が問うと、覚くんは「部活でちょっとネ」と合宿中だとか日曜日だとか。食堂の開いていない日は当番制で料理を作っていた経験があることを教えてくれた。

「ナマエちゃん、ご飯食べるの嫌い?」
「嫌いじゃないよ」
「じゃー面倒?」
「生きていく上で必要だと思う」
「それじゃあ、楽しいって思う?」
「ご飯を食べるのが? ……覚くんと食べるのは好きだよ」

覚くんはそっかー、と呟いたきり口を閉ざして、フライパンを火にかけた。油を熱して肉を焼き、それを取り出して野菜を焼き、再び肉を戻す。手際よく作られた料理は、私が普段使わない大きな白い皿へ盛り付けられた。

「お米食べる? 冷凍だけど」
「うん、もらうー」

テーブルに料理を並べて、頂きますと手を合わせた。そして二人同時に覚くんが作ってくれた肉野菜炒めを一口。すると覚くんは箸を置いてゲラゲラと笑い声を部屋に響かせた。

「ヤバいネ! 味噌入れすぎでめっちゃしょっぱい!」
「そう? 大丈夫だよ」

再びゲラゲラと笑って俯き、その次にはあははと乾いた笑い声を吐き出して、静かに顔を上げた。その覚くんの視線は怖いくらいに真剣だった。

「ナマエちゃんさ、ちゃんとご飯の味してる?」

舌の上で肉の繊維がざらりと擦れる。キャベツの芯の固さが歯にぶつかる。柔らかくなった玉ねぎは、甘味がありそうだ。食感は私の口内を敏感にする。

「ちゃんとは、たぶんしてない」
「いつから?」
「小五くらいから」
「原因は?」
「ストレス、かな。でもひどかった時よりは、味は感じてるよ」

小学五年生の時。あの時の家庭環境は、いいとはいえないものだったと思う。

周りの、父方の祖父、親戚たちは皆優秀であり所謂エリートであった。その中で学歴がない、普通の家庭育ちの母は目の敵にされていたようだ。そして周りから疎まれた一番の原因は、長男の父と結婚して最初に産まれたのは女児の私。それから男児どころか妊娠することもなかったこと。そのことについて心ない言葉を親戚たちがあれこれ言っていたのを、当時幼かった私でもはっきりと記憶している。その言葉に母は深く傷ついていたのだと思う。だからせめて、私をしっかりと育てたかったらしい。
そのしっかりというのは、学問のこと。だから是が非でも私を白鳥沢へ入学させたかった母。厳しい、厳しい母。生きた心地のしない毎日。

私も母もギリギリの均衡を保っていた。それが壊れたのは、母の妊娠がきっかけだった。待望の、実に十一年待った男児の妊娠。その頃の母はいつも情緒が不安定であった。怒っていたかと思うと、泣き出したり。泣いていたかと思うと、ひどく優しくなったり。予測の出来ない母の機嫌が、私は怖かった。その母の姿を父は「ホルモンバランスの乱れ」そう一言だけ、私に説明した。

その日は突然起こった。私の部屋が必要最低限の物だけになり、成績が目に見えて上がってきたころ。朝食の、味噌汁が色のついたお湯に感じられた。目玉焼きに垂らした醤油の味がしなかった。おかしいな。そう思って味がするまで醤油をかけ続けたら、皿から醤油が溢れだし、テーブルに茶色い水溜まりが出来ていた。
私の異変に気づいたのは父で、病院へ連れていかれた。この時の出来事はあまりよく覚えていない。

「お母さんが入院したんだ」

そう言われたのはその出来事の直ぐ後で、その後退院した母は実家で療養することになり、それから一緒に暮らさなくなった。
母と別居するに至った理由は、ありすぎるくらいあった。ただ、私もその要因の一つであったのは確かだ。でも私と母の距離は、これが正しかったのだと今は思う。でもあの頃はそれがわからずに、怖かったはずの母に帰ってきてほしくて、更に勉強を頑張った。白鳥沢に入学できたら帰ってきてくれる。そう信じて疑わなかった。

受験が終わり、少ししてから弟が産まれた。何度か入院している母に会いに行ったけれど、母と特別な会話はしなかった。母は産後も実家で過ごすことになったらしく、また会わない日々が続いた。けれど白鳥沢からの合格通知が自宅に届き、私はそれを母に見せたくて、仕事で不在だった父の帰りを待つことなく母の実家へ向かった。

「まだ夜に赤ちゃんが起きちゃうから寝不足なのよ」

母は昼間なのに眠っていた。祖母の説明を聞いて、私は黙って母とその横で一緒に眠る弟の寝顔を眺めた。そうしていると、弟が泣き出した。弱々しい泣き声。それをただ眺めているのは良くない気がして、抱いた方がいいのかと手を伸ばす。すると何かに突き飛ばされて、私は床へ打ち付けられた。

「なにするの!?」

火のついたような泣き声が、部屋で木霊していた。

錆びて開かなかった蓋

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