ふたりの世界 | ナノ
正月は毎年父の実家で親戚一同が集まり、大人たち、親世代は大宴会。子ども世代はひとりひとりが祖父、お祖父様へ挨拶をして、それが終わると各々に自分の時間を過ごす。そんな行事。
私の家族は父が午後から仕事のため、挨拶を終えると早々に祖父母の家を後にした。そして父は職場の病院へ。母と私と弟は母の実家へ行き、昼食をとった。

「ナマエちゃんも泊まっていったらいいのに」
「大学のね、やることあるから。ありがとう、おばあちゃん」

見送りをしてくれた祖母に手を振り、夕方、私は一人暮らしをしているマンションへ戻るため、タクシーへ乗り込んだ。その最中、景色を眺めながら昨夜の、母との会話を思い出す。

「……彼氏、がいるの?」
「うん。彼氏がいる」
「いつから付き合ってるの?」
「高校の一年の時から」

歳は? 同じ高校だったの? 何してる人? どんな人?
母の質問は矢継ぎ早に、途切れることなくしばらく続いた。その食い気味な言葉たちに、「私に興味あったんだね」と思わずこぼれた本心に、母は顔を真っ赤にさせて「当たり前じゃない」と大きな声を出した。怒鳴るわけでも、泣き散らかすわけでもないその声に、私は驚いた。
母は私の親で、お母さんであるけれど、普通の大人で、性別が自分と同じ女で、そして、ただの人間だった。そんな当たり前の事実を、ようやく呑み込めた瞬間であった。

それから母に覚くんの話をした。しばらく会っていない彼を思い出し、彼を想い、彼のことを言葉にする。その行為は、私が覚くんのどこが、どんなところが、なぜ彼のことが好きなのか、どんなに私が彼のことが好きなのか。そういうことを話すという行為であり、それに気づくとたちまち目の前が真っ暗になるような、世界の終わりを見たような、そんな気分になった。

「それで、彼氏は今、医学部を目指しているのね」
「そうみたい」
「ナマエのために?」
「それは知らない」
「知らない? それで喧嘩になっているんでしょう?」
「本人は、自分のやりたいことだって言ってる」
「そう。あのね、ナマエ。他人に自分の人生を委ねるのは、もっと後にしなさい。自分で、自分のために選ぶのよ」

自分で自分のために、選ぶ。なぜだか腹が立った。明確な理由はわからない。けれど自分の内に生まれた怒りを隠したくはなかった。なかったことにしたくなかった。むしろこの怒りを、母に見せつけてやりたくなった。

「意味がわからない。それに今まで私にそういう機会が与えられたとも思えない」

母は押し黙った。震えているような息が、鼻から抜けたのが聞こえる。その震えは怒りなのか、怯えなのか、はたまた他の感情か。私には見当もつかなかった。それでも母は震える声で言葉を続けた。

「それこそ結婚を決断するような時。そういう時になるまで、自分で、自分の道を行くの。これからもその彼と付き合っていきたいなら、そういう考え方を知っておいた方がいいと思うの」

多少の柔らかさを含んだ言葉。だからと言って母の本質は変わらない。一方的な、目の前の真理は自分のみが知っているような、そんな口振り。私は何もわかっていない。そう思い込んでいる。
嫌だな、逃げたい。その思考を“ただのコミュニケーション不足”という言葉が私を押し止める。

「私、お母さんのそういうところが、苦手。昔のこと、全部、全部、忘れられない。だからこの家にあまりいたくない。わかっていると思うけど、そうなの。家族なのに、そういうことを思ってしまう。だから結婚なんて言われても、全然わからない。今お母さんが言ったこと、何一つ、納得できてない」

何も言葉が返ってこなかった。すんと、ひとつ鼻をすする音がして、私は実家に来てから初めて母の顔を正面から見つめた。
開かれた目はなにかを耐えるようにして狼狽し、結んだ唇に強く歯を立てている。私がそういう顔をさせてしまった。そう思うと、少なからず罪悪感が生まれた。


家族とはなんだろうか。結婚とはなんだろうか。母の言葉の意味を、いつかは理解できるのだろうか。

「この辺りでいいですか?」

タクシードライバーの声で、目的地に着いたことに気づいた。支払いをするために鞄の中を覗き込む。すると見覚えのない白い封筒が、財布に寄り添うようにして、そこにあった。それを取り出し、表、そして裏を確認する。そこには見覚えのある、丸みを帯びた文字で「ナマエへ」という宛名があった。これは母の筆跡である。中身はなんだろうか。
支払いを済ませ、タクシーから降りる。外の刺すような空気が鼻から肺へ、そして体内を巡った。体温が下がっているのがわかるが、指先の感覚は鮮明。手に握った封筒の、なめらかな和紙の質感。厚み、角の固さ、張り合わされた紙の繋ぎ目。それらをはっきりと認識できた。けれど封筒の中身は皆目見当がつかない。


タクシーを降りてからの、マンションまでのそう長くない道のり。封筒から顔をあげて、足が止まった。マンションの前で背中を丸め、しゃがみ込んでいる人影をみつけたから。両膝をかかえ込む腕へ顔を埋めていて頭しか見えないが、誰かなんて一目でわかる。
妙な気分だ。飛び付きたいほどに嬉しいのに、大声を上げて怒りをぶつけたい。抱きしめ合いたいのに、身体的、精神的に危害、苦痛を与えたい。そんな、とても複雑な感情が渦を巻く。それらを押さえつけて、私は再び足を動かした。そして丸まった彼の前にしゃがみ、耳へ触れた。覚くんが小さく震える。冷たい、凍えた耳だった。

「前もこんなこと、あったよね」

私の声にゆっくりと顔を上げた彼は、寂しそうに目を細めて笑った。

「今度はラブって言ってくんないの」

視線が交わる。赤い虹彩は、何かを恐れるようにして揺れていた。そんな覚くんの姿に、胸が苦しくなる。それは快楽であり、苦痛。抱きつきたい。けれど喉元に歯を立てて、食い千切りたい。そんな己に潜む狂気に、思わず笑みが浮かんだ。

「覚くんのこと好きだよ。すごく、すごく、好き。気が狂ってしまいそうなほどに、好きだよ」

それならなぜ。そんな目をした覚くんの、耳へ触れていた手を下へ滑らす。握っていた封筒が、手から滑り落ちることを気にすることなく首筋へ触れて、首回りを両方の指で包んだ。

「でも憎い。……憎いの。覚くんのこと好きなのに、私の世界にいない覚くんが、憎い」

覚くんは笑った。最初は疑問符を浮かべたような、そんなたどたどしい笑い声を上げ、次第にそれは速度を増し、最後には無遠慮にけらけらと高らかに笑った。

「ウン。わかるよ。すっごくわかるよ、その気持ち。だって俺もそうだもん。ナマエちゃんのこと、だーい好きなのに、めちゃくちゃにしたくなる。酷く傷つけたくなる。俺に応えてくれないナマエちゃんが憎くて、怖くて、そういうことしたくなる衝動。ずっとそういうの、俺は持ってるヨ」

そうだね。そうだったね。初めてキスをした日。私が怖いと、私が好きだけど憎いと、覚くんは言ったね。

「首のコレ。懐かしいねぇ。パブロフの条件反射って言うんだっけ? こーゆーの」

ドクドクと私の手の中で早まる脈は、覚くんの興奮を意味しているのだろう。それは覚くんの運命を握れたような、彼の世界を、彼自身を手に入れたような、偽りの幸福感をもたらした。
そんな私の思考を理解してか、覚くんは「やっぱり変わんないネ」と、皮肉を言う。

「なにが」
「その顔が、その目が、たまんねぇーなーって意味」

私にを首を押さえられたまま、彼の指が私の耳の縁を撫でる。その指使いに背筋が粟立った。その刺激は、すべてどうでもいいという結論へ導く。覚くんがいれば、それでいい。世界に二人でいい。そう思うことしかできなくなる。

「つか、なんか落ちたよ」

やけに冷えた声色だ。そんな声を吐き出した覚くんの視線を辿ると、そこには白い封筒。母からの、ナニか。それがやけに白々しく見え、現実を突き付けられた気がした。白々しくて、しらける。
私は封筒を拾い立ち上って、覚くんの腕を引いてマンションのエントランスへ向かった。「マンションに入るのはちょっと」なんて言われたけれど、そんなの今更であるし、今はもっと早急に解決すべき事柄がたくさんある。

「ナマエちゃん、俺の母ちゃんに会ったでしょ?」
「うん」

俺に会いに来たんじゃないの? そんでなんで音信不通になってんの? いや、わかるヨ? 最初に連絡を無視したのは俺だって。
私の後ろを歩く覚くんの口数は多かった。そんな彼の言葉に私は短く返事をするだけ。たくさん言いたいことはあったはずなのに、いざ覚くんを目の前にすると、感情は動くのに口は動かなかった。だから大した反論をすることなく、背中に覚くんの言葉を浴びながらマンションの中を進んだ。けれど部屋へ入った途端、背後の音が不自然に途切れる。

「……なんかあったの?」

振り絞るように出された声は、覚くんらしくない響きだと思った。

「別に。いつも通りだよ」

私はコートを脱いでそれをハンガーへかけ、手荷物をテーブルへ。そして覚くんの視線の先。扉が開かれたままのクロゼットの前へ移動した。
溢れだし、床へ散乱しているモノの吹き溜まりの中から、久しく触っていないスマホを探す。書類を掻き分け、本をよせ、そういった作業を何度か繰り返し、ようやく出てきたスマホは電源が入らなかった。

「いつも通りって……」
「普段は扉が閉まってるけど、今日は扉が開いているからこうなの。それだけの違い」

スマホを充電器へ繋ぎ、考える。覚くんと何を話すべきか。何を話さなければいけないのか。
そんなことを考えていると、覚くんがいつの間にかクロゼットの前へ移動していて、横たわっている白いクマを凝視していた。そして静かにそれを五本の指で包み、口を開いた。

「いらないの?」

抑揚の少ない声だった。

「もういらない? 俺のこと、もういらない?」

腹の奥が煮えた。そんなこと、あるわけない。そうであるならこんなに悩んだり、苦しんだりしない。なぜそのことがわからないのだ。
その激情そのままを言葉にしそうになるが、私を見据える覚くんの瞳が、あまりに澄んだ悲しみを映していて、一度、沸き立った激情を呑み込んだ。そして冷静さをかき集め、考える。私と覚くんのこと。

「私は、世界に二人でいい。覚くん以外はいらない。でもそうじゃないのは覚くんの方でしょう?」

でもそれはきっと、いいことだ。大切なものがたくさんあるということは、素晴らしいことだ。覚くんの世界は私が思うよりずっと広かった。それだけのこと。

覚くんは暫ししゃがみこんで、クロゼットの中を眺めていた。左右の指を小指から人差し指まで交互に絡め、その中には白いクマの人形。その人形の耳を親指の腹で何度も撫でる。そんな手遊びをしながら、じっとクロゼットを見つめる視線は、涙を流しているわけではないのに、覚くんが泣いているように見えた。
そんな覚くんが、静かに口を開いた。

「俺、ナマエちゃんのために医学部目指してるのネ。勿論、まったく医学に興味がないわけではないヨ? でもやっぱりきっかけはナマエちゃんの家系だよネ。誰に頼まれたわけではない、俺が決めたこと。そんでもナマエちゃんは嫌がるだろうなってわかってたから、医学部目指してること隠してた」

やっぱりそうなのかという思いと、母の言っていた通りの内容に、少しの嫌悪感が生まれる。

「俺が勝手に始めたことで、ナマエちゃんが嫌がるだろうなってこと、ちゃーんとわかってたんたどなぁ。それなのにやっぱ、心のどっかでは喜んでくれるんじゃないかなーって、期待してたんだと思う。今まで生きてきて、初めてこんな勉強したしさ。その努力だとか、成果だとかは、ナマエちゃんも認めてくれるでしょ? 成績が上がったら一緒になって喜んでくれたでしょ? だから俺、俺の気持ちを共有してくれてるんだって、勘違いしてたっぽい。そんで拒絶されて、俺はナマエちゃんのためを想ってこんなに尽くしてんのにって、思っちゃったんだよね」

覚くんはクロゼットへ視線を向けたまま、寂しそうに笑った。その表情を見ていると、嫌悪感が別の感情へ変わる。想いを受け入れられない罪悪感。彼の人生をねじ曲げているという、幸福感。やっぱり複雑で、恐ろしく狂気的だ。

「ナマエちゃんのために頑張ってきたのに、会うのやめよう言われて、正直ムカついた。でもナマエちゃんだってムカついたでしょ? それなのにフッツーにいつも通りな連絡くるし。何事も無かったみたいに。それが、俺の、この勉強に費やしてきた日々を、俺自身の全てを否定されてるみたいに思えて、返事すんのやめた」

そんなつもりで毎日連絡をしていたわけじゃない。私は自分の感情よりも、連絡をやめることが、毎日の習慣を変えることが、その方が怖かった。そう覚くんへ伝えると、彼は「わかってたヨ」と優しげに声を丸くさせて、私を見た。

「それにしてもナマエちゃんはなんも変わらなすぎ。返事しろって怒ってくれていいのにさ。いつも通りだし。なんでだよー! って考えてたらさ。アレ? もしかして俺いらなくね? なんなら別れるっていうタイミング待ってんの? なぁーんて思えてきて。そしたらサヨナラ言われんの怖くてますます返事できなくなったよネー」

それはあまりに勝手な妄想が過ぎる。ガスコンロへ火をつけるように、一瞬で頭に血が上った。私のその変化を瞬時に悟ったらしい覚くんは、両手を上げて降参だと言いたげに眉尻を下げる。

「わかる! わっかるヨー! お門違いなこと言ってんの。でも俺、バレー引退してから別にやりたいことなんてなかったし。なにが好きかとか、なにがしたいかって考えたら、ナマエちゃんとずっと一緒にいたいなって。そんならそうするためには、コレかなって。そう、考えました」

以上です。そんな表情をした覚くんは、なんだか清々しい顔をしていた。そんな彼に対して思うことは、やはり複雑。

「どんな理由があろうと連絡を絶つのはもう二度としないで。返事をしたくないならいつまでって期間を決めて、そう言って。あと私の家系を理由に進路を選択されても嬉しくない」
「ひゃー! シンラツ!」
「世界に二人でいいって言っておきながら、矛盾しているのかもしれないけど。私の人生に縛られるような選択より、自然に一緒にいられる関係でありたい」
「いやー、ウン。そーねー。理想はそーねー。でも現実的にさ、白鳥沢いたときにもクラスの人たちに散々思ったんだけどさ。やっぱあるわけよ! 格差みたいなのが! 常識がもうね? 根本的に違うのヨ! だから自然に一緒にってだいぶ夢物語なわけ!」

荒立った声に、私は言葉を呑み込んだ。その様子を察した覚くんは弱々しく「ごめん」と口にして、視線を落とす。

「……自然に、普通にしていたら、俺とナマエちゃんは隣にいれないんだって」
「隣にいる必要はないでしょ?」
「ん? んん?」

隣にいなくても、私の世界に覚くんがいれば。覚くんの世界に私がいれば、それでいいはず。
そう考えると、私のせいで自分の進路を決めるという覚くんの選択は、私が彼の世界に存在する確かな証明でもあるのだなと思う。そう結論付けると嫌悪感は嘘のように消えて、なんとも満ち足りた気持ちになった。
そんな私の結論を知らない覚くんは、困ったように顔を歪めて私の言葉を待っていた。その表情に、胸がつまるように苦しくなる。その覚えのある感覚は、「love」だと飛び付いたあの日と同じもの。

「私の存在が覚くんの世界を侵略しているということは、とても心地好いね」

覚くんは目を丸くさせ、ポカンと口を開けたまま数秒の停止。そしていつもみたいに軽やかに笑った。けらけら笑って立ち上がる。私のそばへ歩みより、「ホンットに敵わねーな」と呟きながら私の腕をつかんで、そっとクマを握らせた。

「もう捨てないでネ」
「捨ててないよ」
「そー?」
「私、捨てるのは苦手だから」

覚くんの胸へ、頬を擦るようにして身体をあずける。そうすると、彼の長い腕が私を閉じ込めた。
私は思う。この彼の腕の中が世界の真理で、ここで世界が完結していればいいのになと。

「俺の世界にはさ、ナマエちゃんがいるよ。どこを見ても、何を想像しても、ナマエちゃんが当たり前にいるよ。どうしてくれんの。今日別れ話されたらマジで世界の終わりかと思ったんだからね。どうしてくれんの? 侵略者のナマエちゃん」

そうね。どうしてくれようか。そう私が囁くと、覚くんは「怖い人だ」と、聞き覚えのあるフレーズを口にしながら、私の唇をふさいだ。
懐かしい体温、感触、匂い。それらに集中していると、不意に視界の隅で電力を取り戻したスマホが光った。その明るさは新世界の幕開けかのような、そんな眩しさだった。

美しき世界侵略者

prev | back | next
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -